あなたの名前は?
懐かしい夢をみた。
初夏の庭園は、うるさいくらいの緑に囲まれ、風に運ばれた紅茶の香に、今日何度目かのため息を飲み込む。
俺は、気怠げに読みもしない本を膝の上に抱え、気を辺りに走らせていると、こちらにやってきた少女が僅かに息を呑む気配に顔を上げた。
12〜3くらいか?
少女は艶やかな焦茶色の髪を風に揺らし、銀色の瞳を大きく見開くと、花が綻ぶように笑った。
「あっ、・・あの!あなたのお名前を教えて下さい!」
妙な事を聞く少女だと思った。
王城内で第一王子であるリシウスの名を知らない者がいるとは。
ましてや貴族の令嬢ならば、社交界で挨拶の一つでもするだろうに。
「・・・これはようこそレディ。私はオキアス王国第一王子、リシウス・ド・オキアスです」
呆気に取られ一瞬の間があいたが、外用の笑顔を貼り付けて立ち上がると、オレは胸に手を置き、さも王子然な礼を取ってみせた。
リシウスは美しい顔立ちをしている。貴族のご令嬢なら、大抵がほうっとため息をついて、頬を染めるくらいには。さらに、王子と言う肩書が追い討ちをかける。
大概がそぅであるように、ましてや夢見がちな思春期の少女ならば、ぼうっと熱に浮かされたように見つめているだろうと、たかを括って顔を上げると、予想に反して眉を下げた少女と目が合った。
なぜ?と思う。
哀しみ?いや困惑した銀の瞳は僅かに揺らぐだけで、何も語らない。
「・・銀・・・?」
無意識に呟いた自分の一言に驚いた。
俺は片手で口を覆うと、目を逸らす。
俺は何を言っているんだ?
遠い昔にあった出来事の一部を、何故だか勝手にひっぱり出されそうな感覚に、僅かな不快感を感じる。
少しだけ苛立って、再度少女に目を向けると、彼女は大きく目を見開いた次の瞬間には泣き笑いのような顔を浮かべていた。
本当に妙な少女だと思う。
あまり関わらない方がいいだろうと、立ち去る言い訳を声に出すより早く、少女の声が鼓膜を震わせた。
「約束です・・・リシウス殿下」
約束?
リシウスを知らなかった少女が、一体何の約束を交わしたと言うのか。
またも妙な事を言う少女に、俺は少し辟易としていた。
「失礼だがレディ。その約束とやらは、どなたかと間違われていますよ?」
「いいえ!!絶対に違えたりしません!!」
縋るような必死な様に一瞬面食らう。
「だって私は・・っ」
尚も言い募ろうとする少女に、珍しく少しだけ興味が湧いた。事もあろうに彼女の言う約束が何故だか気になって、気づくと静かに続きを促している自分がいた。
緩やかに、夏の熱を孕んだ風が吹き抜ける。
「私は・・」
「リザーシャ、こんなところにいたのか」
少女が口を開いた瞬間、被さる様に別の声が少女の声をかき消した。
エメラルド色の瞳と目が合い、面倒な奴が来たなと舌打ちしそうになる。
「おや、リシウス殿下もご一緒のようで」
声を掛けてきた男は、ニコニコとした笑顔でこちらに向かって来ると、目の前の少女の肩を抱いた。
「兄さま・・」
兄と呼んだ少女に少しだけ驚く。
兄と妹にしては容姿の違いに、関係性を思い倦ねていた。
「勝手に逸れてはダメだろう?」
少女に声を掛けながら、俺を見据えるエメラルドの瞳に、本当に面倒な奴だとため息を殺す。
「殿下、妹がご休憩中のところお邪魔しましたね・・リザーシャ、殿下にご挨拶はしたのかい?」
促されて、少女はおずおずと一歩踏み出すと、ドレスを摘んでひらりと腰を折った。
「トレスヴェイン家の長女、リザーシャ・トレスヴェインです。お休み中のところ失礼しました」
そう言って、少女は真っ直ぐにその銀色の瞳を俺に向けた。
意識が浮上する感覚に身を任せると、辺りはもうすぐ夜明けを迎えようとしていた。
5分ほどの僅かな微睡みの中で、随分しっかり夢をみたものだと思う。
「リザーシャ・・トレスヴェイン・・・」
何とは無しに、夢に見た少女の名前を声に出してみる。
あれから、何度か社交界で彼女とは会っているが、約束に関して、一度も触れられた事はない。
ただ、いつもリシウスを目で追っているのは気付いていた。
そう、まるでリズとか言うあの使用人のように・・
「リザーシャ・・・リズ・・・?まさかな・・」
一瞬荒唐無稽な考えがよぎって、苦笑いが漏れる。
使用人は俺自らが経歴を調べている。
素性は皆確かなはずだ。第一、侯爵令嬢が使用人に紛れるメリットがない。ましてや、トレスヴェイン家は中立派だ。下手に、パワーバランスを崩そうとするほど現トレスヴェイン侯爵は愚かではあるまい。
俺は、立ち上がると辺りを見回した。
屋敷の屋根の上から見下ろす景色は、いつもと変わらないはずなのに、静か過ぎて痛みすら感じるような静寂に俺は微かに首を傾げた。
ここ最近は、リシウス殿下の暗殺未遂があまりない。こうして夜の護衛をしている間に、微睡める程度には余裕がある。宮中では相変わらずだと言うのに。
さて?いつからだろう?
そんな事を考えていた俺は、すでに約束なんて言葉を忘れていた。