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9. 脱出!

引っ越しについては、少しばかり面倒があった。

大手の不動産屋が相手では杓子定規な対応ばかりで色々面倒だろうと考え、まずは駅前にある小さな不動産を当たったのだが、これがどうにも失敗だった。


人のよさそうな不動産屋のおっさんに、ペラペラと私はそれらしいことを言う。


「社会勉強だと言われたんです。勉学のために自分で住む家だから、自分で探して契約をなさいって。書類さえ戴ければサインや印鑑、印鑑証明書などはすべて親が用意してくれます。ただし契約は自分一人でするように言われているんです。」


不動産屋のおっさんは「ふうん」と感心した顔つきで『篤史くん』を眺めてくる。

「ずいぶんとしっかりした親御さんだねぇ。」

私はにっこりと微笑み返してやる。

「厳しいところもありますけれど、私を信用してくれているんです。尊敬できる親だと思っています。社会勉強なんです。」


『篤史くん』はドキドキしているけれど。ふふふ。ここは私に任せてもらいたいものだ。


「今どき感心な子供だ。」と不動産屋のおっさんは私の事を気に入ってくれた。


これで話はトントン拍子に進んだ。

いくつかの物件を見させてもらい、特に1件、築40年ほどだが手ごろな家賃で2階の角部屋で風呂トイレ別のとてもいい物件があって、ぜひともすぐにも入居させてほしいとその場で頼み込んでしまった程だった。


いざ書類をお渡しするという段になって、大家から注文が入ったと不動産屋のおっさんが面倒な話を持ってきた。

なんでも大家は「未成年だけを相手に契約を進めるのは怖いので、ぜひとも保護者と顔合わせさせてほしい」と言ってきたそうなのだ。


「母は仕事が忙しく、お時間を作ることが難しいんです。」「これは私の社会勉強なんです。」


私は食い下がったが、こうなるともう駄目だった。何よりこの時点で、大家だけでなく不動産屋のおっさんからも完全に不審がられてしまっていた。

不動産屋には他の物件を紹介してもらおうと思ったが、「契約の際にはお母さんも同席すること」と言いつけられてしまった。


「わかりました。これも勉強ですので諦めます。」


私は、捨て台詞にも似た一言とともに不動産屋を飛び出し、偽造した義母の連帯保証人の書類をびりびりに破いた。



ちょっと破れかぶれになった私が飛び込んだのは大手の不動産屋だった。

そうしたら驚くほどあっさりと物件が決まった。


正直大手の不動産屋はあまり活用したくなかった。

「クリーニング代」だとか「鍵の交換代」だとか、本当に必要なのかもよく分からないお金を請求されることが多いし、近隣住人などと揉めたときにも何の手助けもしてくれない場合がほとんどだ。

特に出るときのお金が酷いのだ! 胡散臭い業者と結託してあり得ない額の退出金を請求されて大揉めしたことが私はある。だからなるべくそういったトラブルのない小さな不動産屋で探したかったのだが、結局うまくゆかなかった。


新らしく見つけてきた家は最初に一目ぼれした部屋に比べると数段劣り、私としては『篤史くん』に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


今回入居を決めたワンルームは、建物は小ぎれいでロフト付きなのでベッドなどを用意する必要がなく、部屋は広く使えるのはいい。

トイレとバスがユニット一体式なのもシャワーを浴びるだけだから私も『篤史くん』も気にならない。

押し入れは最初の物件より広いので、収納はむしろ余裕があって大変よろしい。


けれどもコンロがガスではなくIHなのだ!


料理を好む人はガス火を好むと聞いた事がある。『篤史くん』の実家のコンロもガスコンロで、『篤史くん』はこれを使って私が泣きたくなるくらい美味しい料理をたくさん作ってくれた。

だから私はガスコンロが良かったのだ!


※作者独り言:ガスはいいぞー! 鉄鍋(特に中華鍋やインドのカダイ鍋)が使えるし、コーヒー焙煎も出来る!(作者の趣味)


それがIHコンロになってしまって、私の毎晩の楽しみが半減してしまうのがなんとも残念でならなかった。


そんな私の不満を一発で解決してくれたのがほかならぬ『篤史くん』だった。

『篤史くん』は引っ越した初日にIH対応の土鍋を買ってきてこれでぱっとご飯を炊いてくれた。

これがとっても美味しかった!


なんでも亡くなったお父さんがまだ生きていたころは土鍋でご飯を炊いていて、『篤史くん』はそのころの記憶が鮮明に残っていたのでIHでも同じように出来ないか事前に調べてくれていたそうなのだ。

他にもIHならではの調理方法なども色々すでに調べてくれていて、色々試してみたいと前向きな意見をいっぱいくれた。

例えばじっくりコトコト煮込むような料理は、実はIHの方が得意らしい。

そうなんだ……。私は全然知らなかった。


『篤史くん』はそんなふうに前向きにいろいろ考えてくれていて、今日から始まる一人暮らしを本当に心の底から楽しみにしてくれているのだと、私は今さらながらにそう気付かされた。


そうだ。そもそもこの一人暮らしは『篤史くん』の為に計画したものだったのだ。

だから『篤史くん』が喜んでくれているのなら、多少の不便や不満があっても私がとやかく言うべきではなかったのだ。

そして『篤史くん』は間違いなく喜んでくれている。


入居の際の料金は火災保険などのお金も加味すると予算を少しオーバーしてしまった。だから入居したばかりのがらんどうの部屋には何にもなかった。

家からろくに荷物を持ち込めないから、ほとんど着の身着のままのスタートで、不動産屋からカギを受け取って、電気、ガス、水道の全てを開けてもらって、何日かはそのまま置いておく。

それである日、義母にも義姉にも何の一言も言わずにふらりと散歩でも行くように家を出て、私はそのままあの家には帰らなかった。

冬の寒さ凍える曇り空のある日だったが、私達には曇天すらも輝いて見えた。

何にもない新居で土鍋でご飯を炊き、簡単な炒め物を作って夕食として、そのままロフトに上がってごろりとなって目の前に迫る天井をぼんやりと眺める。

とんでもない事をしてしまったという『篤史くん』の不安と、やってやったという私の興奮とが心の中で混然と入り混じり、いつまでたっても心が落ち着かなかった。


カーテンすらなかったから窓の向こうは丸見えで、そんな中最初の日は父の残してくれたキャンプ用品のシュラフにくるまって眠ったのだった。


こんなふうにして私達の二人で一人の独り暮らしは幕を明けた。



真っ先に買わねばならないのはカーテン。

カーテンって何気に高いから実家のものをパチくってこようかと考えていたんだけど、サイズが合わなかったのだ。残念。


衣類は実家から持てるだけ持って来ているからとりあえず着るものには困らない。

布団はどうしようかな……。寝袋で過ごせるならとりあえずいいかとも思うけど、ちゃんとマットレスを敷かないと身体が痛んでくるんだよね。

布団一式も出来れば実家から持ってきたかったけど、サイズが大きいから断念した。

車の免許があれば軽トラ借りて一式全部実家から持ってこれたのに!

まあ、ないものねだりをしても仕方がない。


フローリングの床は冬場は特に冷え込むから絨毯を敷くべきなんだけど、絨毯もそれなりに高いんだよなぁ。けれども敷くなら今しかない。この先家財が増えていくと、後から絨毯なんて敷けなくなるからね。

でもちょっとした敷物だけで何とかなるなら無理に買う必要もない。とりあえずは保留かな?


あとは鍋やフライパン、包丁などの調理器具は多少値が張ってもよいものを買った方が絶対お得。へんに安い包丁なんて買ったら後で絶対に後悔することになる。

よし、包丁は実家のやつをパチくればよかった。菜穂子さんがある日気まぐれに買ってきたステンレス製の最高級の包丁は実質『篤史くん』の所有物みたいなものだったのに、そこまで気が回らなかったのだ。

後でこっそり取りに行ってもいいけど、正直しばらくはあの家に近づきたくない。

せっかく逃げ出したのに、早々に義母に見つかるようなへまはしたくないのだ。


食器は適当でもいいかな? 『篤史くん』は丁寧に扱う癖がついているから高いものを買い揃えてもいい気がするけど、私が主導権を握ると粗雑に扱って次々割ってしまいそうなのだ。


タンスなどは買う必要がないのはありがたい限りで、押入れが思いのほか広いので適当なカラーボックスをいくつか入れてしまえば、衣類も含めほとんどのものは収納できそうだ。


けれども洗濯ものを干すベランダがない事がちょっとした悩みの種になっている。

衣類を干すための物干しの代わりになるものを室内に渡す必要があるのだが、果たしてどうしたものか。

間違ってもカーテンレールに洗濯ものを引っかけてはいけないよ。余計な重荷のせいで万一レールが桁ごと落ちてきたらどうにもならなくなるんだからね。

まあこれは私が若いころにやらかした失敗談なんだけれど……。


家電製品では洗濯機を優先することになる。

なお洗濯機はリサイクルショップで中古品を見繕ってくる予定。もちろん縦置きのやつだ。ドラム式は残念ながら壊れやすいので、中古品を買うとはずれを掴まされる可能性が高い。日本製の縦置きの奴なら多少古くてもまともに動いてくれることの方が多いからそちらを狙っていく。もちろん買ったらすぐに洗濯機洗浄剤で徹底的に洗ってやるつもりだ。


冷蔵庫は正直しばらく買うつもりはない。というのも、冷蔵庫は中古品を買うとはずれを引いた時のリスクが大きすぎるのだ。食品を扱う道具だから、ヘンな匂いが染みついていたりしてると全然取れないし、何より虫が卵を産み付けていて後で大繁殖することがあるのだ。

冷蔵庫だけは新品を買った方がいい!

けれども料理好きの『篤史くん』を満足させるだけのサイズの冷蔵庫はそれなりに値が張るから、冬の間は後回しにして常温で管理できる食材でご飯を作っていこうかと考えている。


電子レンジはどうしようかな? 正直『篤史くん』レベルの調理スキルのある人間だったら多少奮発してでもオーブン機能付きの高い奴を買った方がいいのだ。

最近の高性能な電子レンジであれば煙もほとんど出さずに魚とか焼けるし、ボタン一つでいろいろ作れるから『篤史くん』なら絶対そっちの方がいいに決まってる。


あっ! そうだ! この家には備え付けのLANポートがあるのでなるべく早急にWi-Fiルーターを買ってこなければ!

こんな場末のワンルームアパートのLANなんて5Mbpsも出ればいい方なんだろうけれど、ともかく無線が使えないとスマホアプリのアップデートもままならないからね。

明日は真っ先にルーターを買ってこよう!



後は面倒な手続きについても色々考えなくてはならない。


住民票はしばらくはあの家のままにしておこうと思う。

ある程度の資金が溜まるまでは義母に現住所を悟られたくないという事情もそうだが、何よりしばらくは義母の社会保険を拝借するつもりでいるから、住民票を移すわけにはいかないという切実な事情があるのだ。


※注:保険証の被扶養者(家族)としての対象条件に原則として「住居を同じくするもの」があります。もちろん子供が学校の寮に入るなどの事情で別居する場合でも家族の被扶養者としての権利は得られますが、所属する健康保険組合への届け出が必要になります。


ただし、ガス・水道などのインフラや通信費の請求先は新居にする。光熱費や通信費の支払いは銀行口座からの引き落としにはするが、万一口座のお金がすっからかんになったとき、コンビニ払い用紙を実家に送られてしまっては目も当てられない事態になるからだ。


仕事についてはすでにフルタイムで働くシフトに変更をお願いしている。

けれどもこれについては工場の人に難色を示されてしまった。


というのも18歳未満の年少者は週に40時間以上働いてはいけないと法律で厳密に決められていて、週5の8時間勤務の中で5分でも残業が発生してしまうと問題になってしまうのだ。

それで1日だけ半分の4時間にして、週36時間の方向で調整してもらう話になりそう。

まあちょこちょこと軽い残業をするようにしてギリギリ週40時間に近い勤務時間を狙っていこうかなどと考えている。


それで手取りが15万円を少し超える程度の収入が確保できるのだが、初年度は恐らく悠々となる計算が立っている。

何せ最初の1年目は住民税も健康保険料もありませんから。


けれども何より大きいのが、年金を払わなくてよい! これが本当にありがたいボーナスなのである。

国民年金の支払い義務は20才を越えてからだから、それまでは1万6000円もする毎月の無駄金を支払わなくてもよいのである。

むろんこの先、お世話になっている工場が厚生年金に加入させてくれることになったら話は別である。

今お世話になっているアルバイト先は福利厚生がすごくしっかりしているから、多分順当に行けば社保年金にこのまま加入させてくれそうである。

けれども出費の事を考えると、例えば8万づつの収入のバイトを二つ掛け持ちして、国民健康保険に加入しつつも年金は20歳まで払わない方が断然お得になる。

もちろんその分確実に社会保障が手薄になるから、何かあった時に大変になる可能性が高くなるのだが。


どうしたものか。


このあたりはどうなるか出たとこ勝負ではある。

まあしばらくはそこまでは考える必要もないといえばない。



何はともあれ、やるべきこと、考えるべきことは山積みだ!


欲しいものは山ほどあって、やりたいことも一杯あって、でもお金がないから出来ることは限られていて。


けれどもこれはリアルハクスラなのだ。お金を稼いで、ちょっとづつ装備を整えていって、少しづつ生活が上向いていって。


きちんと攻略方法が分かっている場合の人生は、最高に楽しい第一級のゲームなのだ。

本来あるべき人生とは、こんなふうにして少しづつ幸せを勝ち取っていける最高の娯楽なのだ。


私は『篤史くん』にこれを見せたかった!


『篤史くん』が実家で義母に顎でこき使われていたころは、一つ一つの家事にどんな意味があるのか、それぞれの家具や家電製品にどんな効果があるのかよく分からなかっただろうと思う。

ただ必要だからといって毎日せっせと掃除をしたり、ご飯を作ったり。

でもその一つ一つのそれぞれに何の意味があるのか、『篤史くん』は多分よく分かっていなかったろうと思う。

亡くなったお父さんが作り上げた型を引き継ぐ形で盲目的に家事・炊事を始めた『篤史くん』は、それぞれがどんな意味なのかも分からずただ日々の作業に従事する毎日だった。

そしてそんな生活を当たり前のものとして享受していた義母や義姉は、『篤史くん』をいっさい評価することがなかった。


だから現実との接点がどんどん失われていって、『篤史くん』はどんどん自信を失って、最後にはおのれを無価値とまで断言するほどに心は砕けてしまっていた。


けれどもそんな中でも君が磨いてきた素晴らしい家事スキルは、決して無駄にはならないのだ。

自分のスキルを自分のためだけに使う今まさにこの瞬間に、君は自分がどれだけ優れた人間かを自分自身で体感することになるだろう。


この小さな一室で、思うがまま好きに暮らしてみればいい。悠々自適の生活を全身で味わえばいい。

君にはそれを為すだけのスキルがすでに備わっているのだ。

苦しかった6年間の実家での奴隷のような生活は、今、自分を生かす為に振るわれることで、ようやっとその価値が再評価されるのだ。


ただ「生きる」というシンプルな目的を叶えるための力は、誰に褒められるでなくとも「生きていける」という事実だけで自信につながることになるだろう。

大丈夫。6年の間に得た能力は、君を決して裏切らない。君はちゃんと、一人で生きて行ける。

6年間の間に失われた自信を君は自分だけの力で取り戻すのだ。


それこそが今の君にもっとも必要な事だ。


この小さな六畳一間のワンルームアパートが、『篤史くん』という人間の価値を再創出するための絶好の檜舞台なのだ。



ファンタジーものでやれスキルがどうだとかステータスがどうだとか細かい情報をあれこれ載せたがる作品って多いですけど、現代ものでやれ家賃がどうだとか冷蔵庫は中古を買うなだとか細かいネタをあれこれ書く人あんまりいないの、どうしてなんですかね?


書いてて楽しいですけどね。

カーテンは高いので実家のやつをパチくろうとしたらサイズが合わずに断念したとかって細かい話。

ファンタジーもので貴族のルールに振り回され切り捨て御免されそうになるのを回避する冒険者エピソードみたいな細かい話とおんなじノリで書いてるつもりなんですけどね。


書いてる側からしてみればやってることは同じって感覚なんですが、読み手側の印象はどうでしょうかね?

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[一言] >読み手側の印象 そういう現実の延長線上にあるライフハック情報は気になるなら独自で調べちゃいますしね 有益情報ならオーってなるけど困ったことのない情報はウケないみたいな ファンタジーならぶっ…
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