おまけ.恋愛結婚の限界と核家族制度の崩壊、その向こう側にある新しい社会。
おまけにしてはやたら物々しいサブタイトルだなぁ……。
でも中身は適当なおべんちゃらばかりが続く内容です。
本作を執筆するにあたって、改めてつくづく感じさせられたのが、「核家族ってメカニズムとして崩壊してるよなぁ……。」という思いでした。
本作品を引き合いにいたしますと、大黒柱たるお父さんが亡くなったことから篤史くんの悲劇が始まるわけですが、そもそもそれ以前にお父さんが存命だった時からセーフティネットがあまりに心細く、例えば菜穂子さんが亡くなっても一家は別の形で崩壊していたとしてもおかしくありません。
例えばそれは、内弁慶だった義姉の由紀奈ちゃんの心が壊れてしまい、引きずられる形で篤史くんもお父さんも暗闇の中に沈んで行ってしまうといった具合です。
それで「なんでこんなふうになっちゃったのかなぁ」などとつらつらと考えるにあたり、まだぼんやりとしたイメージでしかありませんがいくつか思いついたことがあるのでつらつらと書き記してみようかなあと思い、せっかくなので『おまけ』としてしまいました。
なお予めお断りいたしますが、筆者はプロの学者でもプロの作家でもプロのジャーナリストでもありませんのでかじった知識でテキトーな事を書きます。間違っていてもいいや、むしろ盛大に間違えてやれくらいの感覚なので、どうかご容赦を。
いずれブラッシュアップしてちゃんとした体系として理解したいなあとは思っているのですが、まあ趣味の世界の話なんそもそも真面目に調べるつもりもなかったりします。
さて、核家族が日本で流行ったきっかけってどこにあるんだろうって考えてみると、真っ先に思いつくのが戦後のベビーブーム以降、いわゆる団塊の世代と呼ばれる人たちがスタート地点だったのかなあという印象です。
ちょうど1950年前後の第一次ベビーブーム世代の人達は、2021年現在70歳前後になるわけですが、この人達がまず最初に恋愛結婚だの核家族だのを推進していったのではないかという勝手な憶測です。
1950年生まれの人は70年安保の年にちょうど20歳で、そのまま70年代にわっと結婚して子供を作って第二次ベビーブームへとつながっていくわけですが、この時点で核家族化は大いに進行していたのではないだろうかと私は勝手に思っております。
70年代当時20代だった若者たちは欧米文化を大いにありがたがり、好きな人と好きなように結婚していいんだと、今の時代の我々からすると「いやいやちょっと待て!」と一言突っ込みたくなる幻想に浸ってあちこちポコポコと結婚し子供を作り、その中の何割かは親兄妹とも疎遠になっていき父、母、子供だけの三様だけでの生活を強いられるようになり、どうしようもなく核家族化が進行していった、そんなイメージです。
あ、ここで私の中での『核家族』を簡単に定義しておかないといけないですね。
男一人、女一人それぞれが一夫一妻で一組の夫婦となり、この男女二人だけで子を設け育てる家族を核家族と呼ぶ、としたいと思います。
この際、それぞれの親であるおじいさん、おばあさんや親戚やご近所さん、保育園や学校などの養育、教育機関、家政婦さんやヘルパーさんなどは全てスポット的に一時代行をするだけで、子育ての主体はあくまで夫婦二人のみに帰する、と補足をしておきましょう。
これを私の作中での『核家族』としたいと思います。
さてところで、どうしてこんなにも核家族化が進んだのでしょう?
ここから先は筆者の妄想がさらに広がります。はっきり言って陰謀論です。
でも楽しいのでいっぱいテキトーな想像を働かせてしまいます。
戦後の日本の政治体制はかなり西側諸国の干渉を受けていたように感じます。ぶっちゃけアメリカの影響が大きかったんじゃねぇの? って話です。
ベトナム戦争がありましたし、ソ連との冷戦もありましたし、どうしても日本は西側諸国の極東での自由民主主義の橋頭保の役割を担わざるを得ない社会情勢があったように思います。
そんな中で、戦前にあった天皇家を家長とする巨大な大家族制度、儒教国家としての日本の文化制度は、欧米側からすれば大いに頭を悩ませる問題であったとしてもおかしくはありません。
なにせ儒教国家と共産主義・社会主義の相性ってめちゃめちゃ良いように思うんですよ。似たような儒教国家である中国、北朝鮮なんかはさして大きな波乱もなくコロッと共産主義国家化した訳ですから。
それで当時のアメリカの意向を受けて、儒教社会制度の切り崩しが計られる中で流行ってしまったのが恋愛結婚とその先の核家族ではなかったのだろうか? というのがぼんやりとした私の妄想です。
といってもアメリカの文化爆撃があった、みたいな露骨な陰謀論ではなくて、社会情勢的にあの時代の日本は西側に寄らないと生きていけないポジションだったから、ある程度日本の側が察して寄せた部分があるんじゃなかろうかなどと勝手に妄想しています。
一夫一妻制、恋愛結婚、核家族、etc...。欧米キリスト教圏の考え方をベースにしつつ、とにかく天皇頂点の儒教社会を解体してやろうといったムーブメントが多方面に向けて展開されたのではなかろうかという夢物語です。
核家族向けにバカスカ公団住宅建てたり、メディアが迎合して恋愛結婚だの核家族の世帯像をドラマなどでもてはやしたり、なんかもう官民一体で色々頑張ったのではなかろうかなどと邪推してます。
このあたり、ちゃんと調べれば詳しく研究していらっしゃる方もいるんでしょうが、すみません。無精者の私はあんまり真面目に調べてません。
んでまあとにかく、恋愛結婚による核家族の社会構成って80年代にはすでに「あれ? これヤバくね?」みたいに識者を中心にざわざわと騒がれていたのではないかと思います。
家庭内暴力、不登校、ネグレイト、アダルトチルドレンだとかサバイバーなんて言葉は定義づけこそ90年代以降に確立していった印象ですが、80年代にはすでに萌芽があったと思います。マザコンだとか友達親子、子離れできない親とかも80年代にはもう型としてあったようにも思えます。
そう、一億総中流だとか不動産バブルだとかで寝ぼけたことを言ってはしゃいでいたお馬鹿さんがあちこちいた裏で、80年代にはすでに核家族制度の崩壊は始まっていたのではなかろうかと思うのです。
ちょうど70年代に生まれた団塊ジュニアの世代がその当事者です。
おとーさんおかーさんの二人さえいれば子供は育てられるんだ、結婚したら親元を離れふーふ二人で子育てをするんだ、そんな幻想をもって70年代に子供をぽこぽこ作ってくれた団塊世代、そんなお花畑思考の両親のもとで生まれた子供達はすでに気付いていたのです。「いや、どう見てもおかしいやん、あきらか無理あるやん」と。
何が無理だったかといえばそりゃあ簡単な話です。男親一人、女親一人の夫婦二人だけで子育てするのに無理があったのです。
明らかに人手が足りていないのです。
恋愛だけなら二人で出来ます。結婚だって二人で出来ます。
けれどもそう、子育てだけは二人だけではできなかったのです。そして核家族制度の当事者かつ被害者である子供達は、自分達の両親を見上げながらふと気付いてしまったのです。
「あんたら全然うまく子育て出来てねーよ」と。
本作品で言うと義母の菜穂子さん、憑依した長谷川京子さんは二人とも団塊ジュニアの世代です。
そして恐らく二人とも、あまりよろしくない両親に育てられ、家族というものを上手に理解できずに育った欠陥児童であったと見受けられます。
親子とは何か、家族とは何かをよく分かっていない二人なのです。
これが悲劇の始まりです。
この時点ですでに核家族制度は崩壊していたのですが、ここで更なる悲劇の連鎖があったのではないかと私は妄想をたくましくしてしまいます。
なんと、核家族しか知らない団塊ジュニア世代は、おかしいと知りつつも自分達もずるずると恋愛結婚だの核家族だのを繰り返してしまうのです。
ここに「空想上に語られる団塊サードの悲劇」があります。何故空想上というかというと、残念ながら第三次ベビーブームは机上の空論で終わってしまったので、「団塊サード」という言葉が現実には存在しないからです。でも世代としてはちゃんとあります。2000年以降に生まれたZ世代と呼ばれる人たちが事実上の団塊サードです。
本作品の篤史くんや由紀奈さんがこれに当たります。
団塊ジュニアの世代はみんな核家族なんておかしいと分かってるから無理に子供を作ろうとも考えなくなり、それでもどうしようもなく出来ちゃった分の子供達が今の団塊サードであろうと私は勝手に決めつけてます。
どうしようもなく出来ちゃった分だけで人口を形成しているので、ベビーブームには至らずに人数は少な目なのだと勝手に考えております。言ってしまえばまるまる1世代分「ひのえうま」みたいなもんです。
この世代がどうしようもなく辛い。
世界的なZ世代がどういう扱いかは知りませんが、世間からはデジタルネイティブなどともてはやされつつも、こと日本に限っては彼らは団塊サードでもあるのです。
儒教社会が色濃く残っていた戦前の家長制度・地域社会制度は、戦後の無茶な欧米化のアオリを食らって団塊世代で崩壊、団塊ジュニア世代で灰燼に帰し、すでに世間は火の7日間以降です。
そんな中、個として生きるか群の一部として生きるかも定かでないふわふわした状況で人生設計をしていかなければならない団塊サードはとてもしんどいだろうと思います。
けれどもそんな難しい状況においても、団塊サードたちは先人達の屍を踏みしめつつも新しい共同体システムを構築しようと足掻いていたとしたらどうでしょう?
いや、団塊世代も団塊ジュニア世代も人間としてはまだまだフツーに生きてるんですけど、家族共同体の中では死体扱いの邪魔者です。団塊サードはそんな生きた屍の上に自らの足で立ち上がろうとしているのです。
本作品における長谷川 京子さんと中里 篤史くんの物語は、そんな団塊サードの篤史くんに団塊ジュニアの京子さんが憑りついて、団塊ジュニア的視点であれこれ「核家族崩壊後の文明社会」を生き延びるレクチャーをしようとして、微妙に情報が古くて最終的に大ゴケする、そんな物語と説明することもできます。
(そういう話かもしれないと今思いついた)。
京子さんは核家族崩壊をリアルタイムで経験しているので、家族文明崩壊後の修羅の国(IN90年代)を一人で生き抜くための知恵を篤史くんに伝授するのですが、現代日本はすでに新しい共同体再生の萌芽が生まれつつあるため、京子さん的な修羅道はもはや古臭くて通用しなくなってきているのです。
おかげで篤史くんはむしろかえってひでーめに会うのですが、京子さんが持つ先人の知恵に感銘を受けた篤史くんは全てを許し、京子さんは死後に得た第二の生で篤史くんを通じてようやっと自分を肯定することが出来たのです。いい話だなあ。
いや、今ふと思いついた新解釈なんで、執筆中はそういう意図があって書いてたわけじゃありません。
話がずれました。
そう、今まさに新しい家族制度が生まれつつある特別な時代がやってきたのではないか、私はそう思っているのです。
濃密な家族ではないが全くの赤の他人でもない緩やかな共同体。
NETやイベントなどを通じてぼんやりとかかわりを持った人々が新しい形で子供をもうけ、新しい子育てをして新しい世界を構築してゆく、今はまさにそんな時代の変わり目なのかもしれません。
さて、私はこう見えてもお茶の間SF作家を標榜しておりまして、現実世界にあるものをちょこちょこっといじくってSFっぽい物語を書きたいなあという原動力で作品と向き合っております。
そんな私が新しい共同体制度を妄想するとなると、こんな未来社会が思い描かれます。
20XX年、日本ではついに子育て国家資格制度が導入された!
男女は好きに結婚すればいいし、好きに子供を作ればいいが、子育てだけは自由にしてはいけない。必ず国家資格を持っていなければならないのだ。
子育てとは技術・才能・経験が必要な特殊業務であり、誰もが父親、母親になれるわけではない。そこである一定の水準に達しない人間は、『親』としての国家資格が得られずに子育てをしてはいけないのである。
資格には通常の子供を養育する権限がある一般養育士、発達障害や生育上の障害、病気などを持つ子供を養育する権限がある特殊養育士がある。
さらには自分の子供だけを育てることが出来る準養育士の資格もある。
通常の子育ては特に資格のない親でも行うことが出来るが、最低でも週に一度、資格を持った養育士より監査が入り、少しでも問題があると判断された場合は即座に子供を取り上げられてしまう。
これが嫌なら準養育士の資格を取るしかないが、その場合でも毎週ごとの報告と月に一度の面談があり、問題が見つかった場合は即座に資格停止処分が下る。
対する一般養育士は自由に子育て・養育が出来るが、2年に一度のライセンス更新に落ちると即座に養育資格を失う。
このようにして子供は必ず『子育て技能』を持つ人間の手によって養育されるのであった。
ううむ。いかにも私が好きそうなSF設定でございます。
せっかくですからこの設定をもとにちょいと適当にプロットを転がしてみましょう。
3年前に愛する子供を授かったA子は育児期間中ということで、現在3勤4休で週24時間の会社勤めをしつつも自分の子供の世話をする新人ママさん3年生です。
A子が所属するグループは男性3人、女性5人の多夫多妻グループで、共同区画に3軒の建物を借りて分散して住む格好で共同生活を続けています。子供はそれぞれの間で合計7人いますが、A子は初産で自分の子供はB太ひとりです。
A子自身は養育士の資格を持っていないのですが、グループ内のC美が一般養育士資格を持っており、C子が監督する格好で各男女が父親、母親としてそれぞれ子育てに参画している状態です。
なお、A子の子供であるB太の父親はグループ内の男性の一人D介ですが、D介自身は子供があまり好きではないので、子育てには一切参加していません。
さて、A子は最近悩んでいました。というのも養育士であるC美の養育方針がどうもA子には馴染めず、どうしても納得がいかずに反発してしまうことがあるのです。
C美は事あるごとにやれ「天然食材がいい」だとか、「衣類も全部自作するのだ」とかやたら天然や自家製、自作にこだわるのです。おまけに「何でも自分たちで作るのがいいのだ」などといってみんなを巻き込み畑を作ろうとしたり、梅干しだの味噌だのを作るのに一家総出で毎回駆り出されます。
息子のB太は喜んでいるのでA子も最初はよいかと考えていたのですが、仕事を休んでまで一日中燻製づくりなどにつき合わされるようなことがあると付き合い切れません。
働くことの好きなA子は近い将来フルタイムの仕事に戻りたいのです。
その上でB太とも、今のような週一ペースでお祭り騒ぎの日常ではなく、もっと穏やかな毎日を過ごしたいのです。
A子は地域の養育課に相談に行き、担当となる養育士を変えられないか相談したところ、仕事をしながら子育てをする親を専門とするE郎という養育士を紹介されました。
この人と面談をしたところA子にとってとてもよく、是非養育士を変えたいと検討を始めました。
ところがこれに激怒したのがC美です。C美は自分の養育に絶大な自信を持っておりましたから、B太の養育士を変えるなどととんでもないと言い出したのです。
このような場合、C美とE郎という二人の養育士の対立となりますので、ジャッジは市区町村の養育課部門での判断となります。
ここでA子にとって大変残念な結果が出ます。なんと、A子がお腹を痛めてまで産んだB太は「C美が良い」と言い出したのです。産みの親より育ての親、B太にとって一番の母親は、なんとC美だったのです。
こうなってしまっては養育士資格もないA子に勝ち目はありません。A子はB太と関わる権利さえ奪われ、完全にC美の子供となってしまうのです。
愛する子供B太が、C美に向かって「ママ―」などといいながら抱きつくシーンを見せつけられてしまうと、A子の心はズタボロです。
ふふんと笑うC美を背に、失意のA子はグループを去ることにしました。
するとこの時、思いもかけない問題が発生します。なんとD介がA子について出ていくと言い出したのです。
もともとあまり子供の好きでないD介は、グループに5人いる女性の中で特にA子の事を愛しており、A子のそばにいて力になりたいとそう考えていたのです。
これに焦ったのは残る女性陣4人です。というのも、グループ内の男性3人の中で最もカッコいい男性がD介なのです。ぶっちゃけ女性5人ともD介目当てでグループに参加していたようなものです。
そりゃあC美は子供好きですが、それ以上にD介の事が大好きなのです。
そんなD介が出て行ってしまうとなれば本末転倒です。
こうしてグループは崩壊に向かって一直線に突き進むのでありました。
残された7人の子供達の運命やいかに!?
ううむ。いかにも私の好きそうなプロットではないか!
養育士制度などとご大層なシステムが導入されようとも、所詮人間同士の醜い争いは未来永劫変わらず続くのですね。
でもまあ養育士制度がある限りはなにがしかの方法で子供に対する救済はあると思います。C美に対する救済はないかもしれませんが。
しまった、何の話をしていたか分からなくなったぞ!
……そうだ、このおまけは「恋愛結婚の限界と核家族制度の崩壊、その向こう側にある新しい社会。」というテーマでおべんちゃらを語る一幕だったのだ。
まあそんなわけで今さら日本が長男最強伝説の儒教社会にすんなり戻れるとも思えないので、なんかみんなで知恵を出し合って日本向きの新しい家族制度、親子関係が生まれていくんだろうなぁと妄想がはかどる作者であります。
けれども現実というものはいつだって小説より奇なりですから、いったいどんな生活様式を我々が獲得してゆくのか、今から将来が楽しみでもあります。
早くこいこい近未来。
うーん。だいたいテーマに沿って一通りべらべら語りましたかね。
フツーなら「はてブロ」なり「NOTE」なりでぐだぐだ書かれそうな胡散臭いエッセイ? 風味の与太話を敢えてなろうの1節を借り切って書くあたり、いかにも何でもありのバーリトゥードな私の作風にぴったりで良い感じに思いますので、他にも書き足りない事ありますけどいったんこのあたりでおしまいとさせていただきます。
乱文乱筆ご容赦ください。
最後までお読みいただきありがとうございました。
また何か面白い話思いついたらテキトーに書きなぐりたいと思いますので、その際はよろしくお願いいたします。
ではでは。
すけさん




