第32話「氷の王子の返礼、断絶の布地」
静まり返った実習室。西日が埃を黄金色に染める中で、ガストンさんが叩きつけた書簡が、冷たい銀の光を放っていた。
私は、隣に立つセドと一瞬だけ視線を交わした。
言葉はなくとも、通じ合うものがあった。昨夜の祝賀会で感じた「手の熱さ」への戸惑いなんて、この瞬間、北風に吹き飛ばされたように消え去っていた。
――ハネムーン。
甘い響き。けれど今の私たちにとって、それは逃げ場のない「処刑台」への招待状でしかない。
「……お断りします」
私の声は、自分でも驚くほど低く、真っ直ぐに実習室に響いた。
扉の傍に控えていた、ノルン王国の紋章を胸に付けた使者が、微かに眉を動かした。
「……断る、とおっしゃるのですか? エル殿。これはレオン王配殿下からの、直々の慈悲であり、新婚のご夫婦への最高の贈り物なのですが」
使者の声は、まるで凍った湖の表面を滑るように冷ややかだった。
私は一歩前に出た。背筋を伸ばし、仕立て屋としての誇りを全身に纏って。
「慈悲は、最高の服を納めることで頂戴したく存じます。……私たちは、まだ何も成し遂げていません。王都に工場を建て、故郷を特区にする。その重責を背負ったまま、雪景色を眺めて羽を伸ばすなんて……そんな暇があるなら、一秒でも長く、針を持って工場のラインを整えたいんです。……仕事で、結果で、殿下のお役に立ちたい。それが私たちの、唯一のハネムーンです」
隣でセドが、鼻で笑うような、でもどこか誇らしげな吐息を漏らした。
「……そういうことだ。俺たちの愛は、型紙とミシンの音の中にしかないんでね。バカンスなんて柄じゃねえんだよ。……なあ、使者さん。殿下にはそう伝えてくれ」
沈黙が流れた。
ルネが息を呑み、バルドがジュースを飲む手を止めて使者の顔を覗き込む。
すると――。
「……ふっ、……はははは!」
使者が、それまでの氷のような無表情を崩し、愉快そうに笑い声を上げた。
「らしいですね! 実に、あなた方らしい。……レオン殿下がおっしゃっていた通りだ。……『あの二人は、必ず断ってくる。ハネムーンなどという言葉には、一瞥もくれずに仕事の話を始めるはずだ』と。……殿下は、最初からお二人を、そしてお二人の職人としての魂を、完全に見抜いておられたようです」
使者は満足げに頷くと、懐から重厚な革張りの小箱を取り出した。
「殿下からの伝言です。『遊びが嫌いなら、最高の難問を授けよう』……と」
ガチャン、と小箱が開けられた。
中に納められていたのは、一見すると、何の変哲もない生成りの布地だった。
けれど、それを一目見た瞬間、ルネが叫び声を上げた。
「……え!? 何これ! 嘘でしょ!」
ルネが、使者の制止も聞かずに布地に飛びついた。
「……これ,私の『燃えない布』と同じ原理……ううん、全く同じ理論で作られてるわ! 熱遮断の分子構造が私のレシピそのものじゃない!」
ルネの驚愕も無理はない。その布は、彼女が王都で開発した「外からの熱を遮断する」技術を、さらに進化させたものだった。
「……冷たい」
私も、思わずその布を指先でなぞった。
いや、冷たいのではない。私の体温が、指先から布へ、一分一厘も吸い取られないのだ。
「『恒温布』。……ルネ殿の理論をベースに、我が国の技術局が独自に調整を加えたものです」
使者が、誇らしげに語る。
「外の熱を拒むのではなく、内側の熱を反射し、閉じ込める。……どれほど過酷な吹雪の中にあっても、この布の内側だけは、纏う者の体温を完璧に維持し続ける、いわば『真空の牢獄』です」
ルネの技術が「守る」ものなら、これは「閉じ込める」もの。
けれど、私はその布を数秒間触り続けただけで、眉をひそめた。
「……これ,服にするには最悪の欠陥があるわね」
「……おっ、気づいたか、エル」
セドも、布を透かして見ながら、職人としての鋭い嫌悪感を露わにした。
第一に、肌触りが最悪だった。熱を反射するための特殊なコーティングのせいか、裏面がザラついて、まるで薄い金属の鱗に触れているような不快感がある。
第二に、そして致命的なことに、この布は「熱を逃がさなすぎる」のだ。
「……蒸れるわね。これじゃあ」
私が呟くと、ルネが大きく頷いた。
「そうなの! 熱を遮断するのは完璧だけど、人間の体から出る湿気や、余分な熱まで全部閉じ込めちゃう。これをそのまま服にしたら、数分でサウナ状態になって、着てる人は不快感で倒れちゃうわ」
保温性は最強。けれど、着心地は最悪。
裏地を当てれば肌触りは解決するが、それではさらに厚みが増し、熱が籠もって逃げ場を失う。
「殿下からの課題です。……この扱いにくい、呼吸を忘れた『氷の鎧』を使って、極寒の地でも舞踏会で優雅に踊れるような、美しく、そして『快適な』ドレスを仕立て上げてください。……もしこれが完成すれば、ノルン王国は特区の工場へ、この恒温布の独占供給を正式に承認しましょう」
特区の、工場の命運。
この「理論は完璧、服としては落第」の素材を、私たちの腕で、生きた服に変えられるか。
「……上等じゃねえか」
セドが、いつの間にかサファイアの瞳をギラつかせ、ハサミに手をかけていた。
「ハネムーンで愛を語るより、この気難しい布を口説き落とす方が、俺たちの性に合ってる。……そうだろ、エル?」
「……ええ」
私は、その布をもう一度強く握りしめた。
不快なザラつき。けれど、その奥にはルネが心血注いで生み出した「人を守るための熱」が脈動しているのを感じた。
「使者さん。殿下に伝えて。……この布、最高に可愛くないわね。……だから、私が徹底的に、着心地の良い子に仕立て直してあげるって。……ハネムーンなんて、そのご褒美に取っておくわ」
使者は満足げに一礼し、実習室を後にした。
後に残されたのは、夕闇に沈み始めた教室と、裁断机の上に鎮座する、冷たく光る白い布地。
ルネは既に「熱の排出口」の計算を始め、バルドは布地の「不快な音」を聴き分けるように旋律を紡ぎ、ガストンさんは腕を組んで、黙ってその布を凝視している。
本当のハネムーンは、終わった。
いや、最初から、私たちには「仕事」という名のデートしか似合わないのだ。
最強の布陣による、未知の素材への宣戦布告。
故郷の古い実習室に、再び、ミシンの駆動音が力強く響き始めた。




