第31話「始まりの教室、二人の足跡」
馬車止めの広場に降り立った瞬間、肺の奥まで届いたのは、懐かしい「鉄粉と、乾いた土と、微かな草の匂い」だった。
けれど、その匂いはすぐに、けたたましく響く重機の唸り声と、空高く舞い上がるコンクリートの白粉の中に掻き消された。
「……ひどい変わりようね。たった数ヶ月、目を離しただけなのに」
私が思わず呟くと、隣に立つセドが、眩しそうに目を細めて街を見渡した。
「『合同経済特区』だもんな。……あのボロいパン屋も、俺たちがよくサボって将来の夢を語ってた空き地も、全部新しいアスファルトの下か。流行りの服みたいに、一晩で着せ替えられちまったな」
王都での華やかな成功、そして「燃えないドレス」という奇跡を経て、私たちは新工場の視察と現地調整のために、故郷の地を踏んでいた。
ガストンさんは「俺は現地の地主や職人連中との実務的な調整がある。お前たちは、今のこの街の空気を肌で感じておけ。それが次の服の素材になる」と厳かに言い残して姿を消した。ルネとバルドは「特区限定の屋台巡りをしてくる! 爆発的なインスピレーションが湧きそう!」と、建設現場の喧騒の中へ消えていった。
残されたのは、私とセド。昨夜の祝賀会で、テーブルの下で交わされた「あの手の熱さ」を、まるでなかったことのように装っている二人だけ。
私は、震えそうになる声を喉の奥で整えてから、隣の男に声をかけた。
「ね、ねえ。セド。……少し,歩かない? その、視察よ。あんた以外、この街の『本当の形』を知ってる奴なんて、誰もいないじゃない。ね?」
セドはふいっと顔を背け、首にかけていた使い古された黄色いメジャーを、無造作な手つきで巻き直した。
「……勝手にしろよ。……ついてってやるよ」
私たちは、学生街へと向かう、古びた乗り合い馬車に乗り込んだ。
ガタゴトと石畳を叩く振動。狭い座席で、セドの肩と私の肩が、嫌でも触れ合う。王都の豪華な貴族用馬車とは違う、無骨な木の感触と、馬の体温が直接伝わってくるような距離感。
揺れるたびに、昨夜握られた右手の感覚が、電気信号のように脳を叩く。私は窓の外、埃っぽくも活気付く変わりゆく景色を必死に追いかけた。
「……あ、あそこ。まだ残ってる」
馬車を降りたのは、仕立て屋の卵たちが集まる「学生街」の入り口だった。
細い路地を抜けた先にある、レンガ造りの小さな店。看板には、錆びたハサミと糸巻きのマークが刻まれている。
学生御用達のおしゃれなカフェ『針の目』。
学生時代、背伸びしておしゃれをしたい女の子たちや、流行に敏感な男子学生たちが、熱心にファッション誌を広げて議論を戦わせていた場所だ。
「懐かしいわね……。あんた、ここでいっつも、一番高いブレンドコーヒーを頼んで、頼んでもいないのに隣の席の女の子のデザイン案に口出ししてたわよね」
「うるせえ。あれはプロとしてのアドバイスだ。……お前こそ、安っいハーブティー一杯で、日が暮れるまでパターンを書き直してただろ。店主のおばさんに『机が消しゴムのカスだらけだよ』って呆れられてたぜ」
カラン、と乾いたドアベルが鳴る。
コーヒーの香ばしい香りと、古い雑誌の紙の匂い。
「あら……。あらあら! もしかして、エルのちゃんじゃない?」
カウンターの奥から、恰幅の良い、眼鏡をかけた温かい笑顔のおばさんが顔を出した。
「おばさん! 覚えててくれたの?」
「当たり前じゃない! 毎日毎日、穴が開くほど型紙を見つめてたあの子を忘れるわけないわ。……あら、それにその隣にいるのは……あの、とびきり生意気だったセド君じゃないの」
おばさんは目を丸くして、交互に私たちを見た。
「ええ。まあ、腐れ縁ですから」
セドが気取った仕草で椅子を引く。おばさんは、私たちの左手――そこには何もないけれど、二人の「空気」をじっと見つめて、それから弾けるような笑顔になった。
「まあ! 王都で大活躍してるっていう噂は聞いてたけど……二人、一緒になったのね! やっぱり、あの時からお似合いだと思ってたわよ。喧嘩ばっかりしてるのは、仲が良い証拠だってね。……ねえ、そうでしょう?」
「えっ!? いや、それは……その……」
私が慌てて否定しようとした瞬間、セドがテーブルの下で、私の足先を軽く小突いた。「ボロを出すな」という合図だ。
「……ええ。まあ、いろいろありまして。……おばさん、いつもの『職人の厚切りトースト』、二つ。それと、エルには苦すぎないカフェオレを。たっぷりハチミツを入れてやってくれ」
セドが勝手に、しかも私の好みを正確に注文する。
「はいはい、わかったわ。新婚さんには、特別にイチゴのジャムもサービスしちゃうわね!」
おばさんが鼻歌まじりに奥へ引っ込むと、私は顔から火が出そうなほど熱くなるのを感じた。
「……ちょっと、セド! なんで否定しないのよ!」
「バカ。ここで『偽装です』なんて言ってみろ。噂は光の速さで特区中に広まって、ガストンさんの耳に入って、俺たちの首が飛ぶぞ。……演技だ、演技。昨日の延長だよ」
「演技、ね……」
運ばれてきたトーストは、学生時代に食べた時よりも、ずっと優しくて、どこか切ない味がした。
カフェを出た私たちは、そのままさらに坂を登り、母校の洋裁学校へと向かった。
蔦に覆われた古いレンガの校舎。
廃校が決まり、今は一部の教室が倉庫として使われているだけの静かな場所。
カチリ、とセドが裏口の鍵――学生時代にこっそり複製した、あの「秘密の鍵」で扉を開けた。私たちは、埃がダイヤモンドの粉のように舞う実習室へと足を踏み入れた。
そこには、懐かしい「裁断机の匂い」と「ミシン油の香り」が充満していた。
私は自分の席の前に立った。
「……私の席。ここで、何度も指に針を刺して……お父さんの店を継ぐんだって、必死だったわ」
「お前、そこでいっつも鼻息荒くしながら縫ってたよな。……俺はそこから、お前のその無骨なまでの『丁寧さ』だけは、最初から認めてたんだぜ」
窓際の特等席に腰を下ろしたセドが、珍しく素直な言葉を口にした。
「……セド。私……昨日の、あの、手の……」
昨夜の「熱さ」の意味を、聞こうとしたその時。
バタン!!
実習室の扉が、最悪のタイミングで力任せに蹴破られた。
「見つけたわよ二人とも!! 視察って言ったから現場で待ってたのに、こんな古い校舎で何しっぽりしてるのよ!!」
ルネだ。煤だらけの顔にゴーグルを乗せた彼女が、仁王立ちで叫んでいる。その後ろには、申し訳なさそうに(けれど興味津々に)笑うバルドと、厳しい眼光のガストンさんの姿があった。
「……若造ども。浮ついた真似はそこまでだ」
ガストンさんが、銀の封蝋が施された重厚な書簡を、裁断机の上に叩きつけた。雪の結晶の紋章。ノルン王国からの招待状だ。
「……『氷の王子』からだ。……ただの招待じゃねえ。……お前たちの工場の、『生死』に関わる招待だ。……もし、お前らの『偽装』が、あっちの国で一分一秒でもバレれば、原料の供給は止まり、この街に建設中の工場は即座に解体される。……覚悟はいいか?」
窓から差し込む西日が、一瞬だけ、冷たく凍りついたように白く染まった。
懐かしい思い出の街。温かいカフェの記憶。
そこで私たちは、かつての「甘い記憶」から、自分たちの夢と未来、そして故郷の命運を背負う「仕立て屋」という過酷な戦場へと、強制的に引き戻された。




