6 side・オリーヴ 【逃げるために、食べる】
正直言って、とてもいいお湯でした。
裸だけど、まるでもう一枚何かを脱いだように、すっきりした。
肌がすべすべすると思ったら、がさがさだったはずの手がずいぶん綺麗になっている。私の手って、仕事で荒れていないとこんな風なんだ……と、自分の手なのに見とれてしまった。あっ、髪も指通りがいい。何か不思議な効果のあるお湯なのかな。
囚われの身でなければ、もっと楽しめただろうとは思うけど、クリーチィが扉をきっちり閉めてくれたのでまあまあ落ち着いて入れたかな。
クリーチィが置いておいてくれたらしい布で身体を拭いたあたしは、我に返った。
「こ、これ、着るの……?」
置かれていた服を、両手で広げて目の前にぶら下げ、思わずつぶやく。
透け透け、だ。あ、待って、まずこっちの胸当てを巻くから、胸は透けないのか。新しい下着もちゃんとあるけど。うーん。
こんな踊り子みたいな色っぽい格好をさせられるってことは、やっぱりあたし、今日、魔王に何かされるの……?
他に着る服もなく──着てきた服はクリーチィが持ち去ったらしく、小部屋にはなかった──あたしは仕方なくそれを身につける。
腕で身体を抱くようにしながら、扉を開けて廊下に出ると、クリーチィが待っていた。
「あの、クリーチィ、あたしの服」
言いかけたあたしを、クリーチィは少し急いだ様子で促した。先に立って歩き出しながら、「チィチィ!」と手招きする。
「何……あ」
一歩踏み出したとき、軽いめまいを覚えて、あたしも理解した。
そうだった、まだ全然、イドラーバに慣れてない……
部屋に戻ったときには、ふらふらになっていた。クリーチィが先に寝台に駆け寄り、いくつかの枕を背板のあたりに積み上げてくれ、あたしはそこに寄りかかるようにして倒れ込む。
クリーチィが水差しからグラスに水を注いで、口元に持ってきてくれた。飲んだら、だいぶ楽になった。
「ありがと……」
あたしが微笑んでうなずくと、クリーチィは安心したようにひげをピコピコさせ、そして部屋を出ていった。
目を開けていると視界がぐるぐるして気持ち悪いので、あたしは目を閉じる。
ああ、もし今、魔王が現れたらどうしよう。本当の意味で、花嫁にさせられたら。こんなんじゃ、抵抗できない。魔王に抵抗したって無駄なのかもしれないけど……
……せめて、初めては、人間が良かったな。
でも、ガーヌの町にあたしと付き合ってくれるような男はいなかったんだからしょうがない。あたしと仲良くして領主様に睨まれるのなんか、誰だって嫌だもん。男だけじゃない、町の誰だって。
目を閉じているせいか、過去の出来事が目蓋に浮かぶ。
綺麗だった母さん。自慢の母さん。
でも、そんな母さんに領主様の息子が目をつけた。妻にするのは領主様が絶対に許さなくて、反発した息子が母さんを無理矢理連れ出して。
数日後に見つかった時には……
急いで目を開くと、その時の光景は一瞬で消えた。あたしは息をつく。
あたしも、母さんのように、知らない空の下で死ぬんだろうか。
ガーヌを、離れていれば良かったんだろうか……
朦朧としたまま、しばらく時間が流れた。
ようやく意識がはっきりして、気分が直った頃、トントンとノックの音。ぎくっ、とあたしは扉を見つめる。
でも、入ってきたのは魔王ではなく、盆を捧げ持ったクリーチィだった。
彼女は、脚付きの盆をあたしの膝に置くと盆の蓋を取り、お辞儀をして出て行く。
今日も、美味しそうな食事が並んでいる。エドラさんが、腕によりをかけたんだろうな。
──あたしはだんだん、ムカムカしてきた。
具合が悪いという意味じゃない。怒りの方のムカムカだ。
フォッティニアから奪ってきた食料、今はこうしてあたしに出されているけど。
あたしが食べないでいると、きっとイドラーバの民の口に入るよね。そんなのって。
……食べよう。
あたしはパンに手を伸ばした。
これはあたしの、フォッティニアのものだ。あたしが食べるんだ。
あたしは、逃げるんだから。イドラーバの空気に少しでも慣れて、食事もしっかり取らなきゃ、逃げられない。そのために食べる。フォッティニアの人々もきっと許してくれる!
食べられるだけ食べ、食事を終えたあたしは、また部屋を出た。適当な部屋からテーブルクロスを持って戻ると、中庭で洗い始める。魔王が来たって、綺麗なドレスが濡れたって、構うもんか。
厨房からもらってきた灰と、ガーヌの町の近くで採れる特別な土、それにあたしが町の近くで見つけたハーブを混ぜた水に、テーブルクロスを浸ける。揉んだり、板の上で棒で叩いたりしながら、汚れを落とす。
洗濯に使う特別な土の採取場所は、母さんが、母さんの母さんから受け継いだ秘密だった。この土には、油汚れを吸う力がある。そしてあたしも、その秘密を受け継いだから、染み抜き屋も評判のいいままで受け継ぐことができた。
ガーヌを離れたら、土をとりに行けなくなって、受け継がれた大切な秘密も手放すことになる。だから、町を離れる気にはならなくて……
考え事をしながら無心に洗っているうちに、テーブルクロスはすっかり綺麗になった。ゆすいだそれをあたしは物干し竿に干し、ぴんと張る。
この城の布を百枚洗う頃には、きっと、イドラーバの空気に慣れることができる。それを目標に、がんばろう!
「あ」
ふと気づいて、あたしは顔を上げた。
「あたしにフォッティニアのものを食べさせるために、魔王はこれからも、食材を奪いにフォッティニアに行くの? それは困る……な」
そうさせないためには、どうすればいいだろう。
……あたしが、イドラーバのものを食べるようになればいい。
そう、イドラーバのものを食べた方が、身体が早く慣れるんじゃ?
イドラーバのものを食べたいって、言ってみようか。でも、聞いてくれるかどうか。何て言えば良いだろう?
その時あたしは、草原部屋から中庭への扉が、細く開いているのに気づいた。
覗いている、赤い瞳。魔王が来たのだ。




