薄れるもの
肩の傷も良くなり、久しぶりの健康体に感謝を伝える朝7時。
今日は、アイスと駄菓子と、シャボン玉を持って遊びにいくつもりだ。たまにはこういう素朴な遊びも悪くないだろう。
行ってきます、そう言って日課になりつつある散歩へ出かけた。
坂を下っていると、道を阻むように長細いものが伸び切っている。
慎重に近づくと、それは巨大な蛇であった。この辺にはよくいるアオダイショウだ。
なんだ。ただの蛇じゃないか。噛まれないようにそっと距離を空けながら進もう。
その時だった。
『あ、そ、そこの!そこの坊ちゃん!!』
(え……?)
俺の下から声が聞こえる気がする。恐る恐る足元を見ると、アオダイショウがこちらを見ているではないか。
(もしかして、コイツが喋ったのか?)
訝しげに見ていると、またもや先ほどの声が。
『アタシよアタシ!良かった、聞こえるわ!』
蛇が上体を持ち上げて、ずいと近づく。やはり、声の正体はこの蛇だったのだ。
「俺になんか用か?」
話しかけると、その蛇は小さな頭を縦に振ると、突如として衝撃なお願いをする。
『坊ちゃんの血が欲しいのよ』
俺の聞き間違いだろうか。今、俺の血が欲しいと言ったか?そう聞き返すと、やはり頭を縦に振る。
「ダメだ」
「そこをなんとか!お願いよぉ!」
足に縋りついて泣いているのか知らないが、ちょっとダニとか心配だから擦りつかないで欲しい。
というか、俺の血の事がバレている。この前の狼の件で騒ぎになってしまったのだろうか。
「俺の血をどうしたいのか知らないが、あげるつもりはないぞ」
『そこをどうか!愛する人が死んでしまう!』
「………それはずるいだろ」
俺は根負けして、一度話を持ち帰る事にした。
道中、詳しく話を聞いた。
五月雨は、山奥にある土地の主で300年は生きているらしい。
山奥の川の小さな石積みに、よく拝みにくる人間がいたという。
その人間は五月雨の姿が見えるようで、しばらくの間、やって来るたびに話をしていたそうだ。
だが、時間が経つにつれ、女は五月雨を認識できなくなっていってしまった。
それでも、五月雨の影を探すように時間が許す限り山奥に通い詰めていたが、そんな女ももう90歳。とんと最近姿を見なくなった。
この前、こっそりと彼女の家に行った。そこには寝たきりの彼女おり、家族の話を盗み聞きすると、老衰だと言う。
死んでほしくない、貴方の血であの子を元気にしてやりたいの。
『アタシは、あの子が大好きなの。もう一度、あの時のようにお話ししたいの』
俺は何て声をかけたらいいかわからず、静かに聞いていた。
.
蛇を連れて祠に向かうと、珍しく入り口に白綴が迎えにやってきた。
『その蛇は?』
『初めまして、五月雨というの。山奥の主よ』
「ちょっと、話があって」
白綴に説明をすると、やはり反対した。
ソーダ味のアイスを舐めながら、その綺麗な顔を歪めている。
『血を使うなと言っているだろう!ダメだ!!』
「まぁ、そうだよな」
暑さに溶けていくアイスが手を伝う。
この力を使わない方がいいとわかっている。だけど、何故か心に引っかかってしまっている。
俺は何を考えているんだ、これは危険な力なのに。
『血を使えば、タダでは済まないだろう。君も、その人間も』
協議の結果、血をもらえない事になってしまい、五月雨は小さな目からポロポロと涙をこぼす。
『そう……。残念だけど仕方ないわね』
いきなりごめんなさいね、そう言い残し、長細い体を引きずって帰っていった。
その姿が、とても哀しく見えて、目が離せなかった。
そんな俺の心境を知ってか、白綴が釘を刺すように言う。
『蛍。煮えきれない思いだろうけど我慢しなさい。運命を捻じ曲げてはならない。君の力も、使ってはならないよ』
「…わかってるよ」
この日は、五月雨の事が頭から離れず、心は曇ったままで1日が過ぎていった。
次の日、外に出ると昨日の蛇、五月雨を見かけた。それは、近所の家にのそのそ入っていく。
(そういえばここのお婆ちゃん最近寝たきりなんだよな…)
この家のおばあちゃんは、周りと馴染めないの俺に唯一優しくしてくれた人だった。
小学生になりたての俺は元気いっぱいだった。でも、段々と表情が暗くなる俺に、おばあちゃんは切ない顔をしてお菓子をくれて、沢山お話を聞いてくれた。
成長していくにつれて世間から切り離される俺は、外に出ることも少なくなり、早10年。タイミングも合わず会うことは無くなった。
母伝に、天ぷらや漬物を俺にくれた。その度に、俺の様子を聞いていたと、大きくなってから聞いた。
こっそりと五月雨の様子を伺うと、ある部屋の窓を覗き込んでいた。その目からは大粒の涙が溢れている。
もしかして、昨日の死んでしまうと言っていたのは…。
「………」
俺に、恩返しができるだろうか。
.
庭から出ていく蛇を呼び止める。俺と会うとは思っていなかったのか、とても驚いた様子だった。
意を決して、俺は宣言する。
「お前の頼み、協力するよ。ただし、どうなるかは俺にもわからない。人間に使っていいものなのかも。どうなるのかも…」
その言葉に、五月雨の止まっていた涙が溢れ始めた。首を垂れて、静かに泣いている。
『あぁ、ありがとう。本当に、ありがとう』
.
白綴の言いつけを破るのは気が引けた。手土産を握る手が、じっとり汗をかく。
「行こう、五月雨様」
『えぇ』
次の日の朝、お見舞いと評してその家のチャイムを押した。肩には五月雨を乗っけている。
迎えてくれたのは娘さんで、俺を見てギョッとしていた。
「あら、有馬さん家の。珍しい、いきなりどうしたの」
「あの、すみれさんのお見舞いにと思いまして。突然申し訳ありません」
ぺこりとお辞儀をして、見舞いの品を渡す。娘さんはスリッパを出してくれ、どうぞと言ってくれた。
「驚いただけよ。さ、上がって」
昔の関係を知っていたからか、快く上げてくれた。蛇は当然見えていないようだ。
お婆ちゃん、ーーすみれさんは微かに呼吸を感じさせながら、そこにいた。
「お母さん。蛍くん来てくれたわよ」
弱る母に娘が言う。すると、ゆっくりと重い瞼が上がった。
「ほ、蛍くん…?蛍くんなの?こちらにいらっしゃい」
辛いであろうに、暖かな笑みを浮かべ俺に手を伸ばす。慌てて近くに行って手を握ると、骨だけの手はとても冷たくて驚いた。
こちらを見ている目は白く濁り、俺のことは見えていないようだった。
「すみれおばあちゃん。久しぶり。ごめん、顔を合わせなくて…」
「いいのよ。それより、こんなに大きくなって。学校はどうかしら?」
「………うん。上手くやってるよ」
「そう、よかった」
苦しいのか、息が荒い。この人はどこまでも優しかった。その優しさを長年無碍にしたような感覚に苛まれ、体が重くなる。
娘さんは、その光景を見ていると、突然鍋を火にかけたままだった!と慌てて出て行ってしまった。
(これはチャンスなのではないか)
またとない機会。五月雨も、視線をよこしてくる。
今だ、と本題を伝えた。
「すみれさん、実は」
五月雨のことを話した途端、すみれさんの細い目が大きく開かれる、
「蛍くん、なんで、なんで五月雨様のこと…」
「本人から、貴方を助けたいと申し出があったから。すみれさん、あの」
「どうせ、死にかけの私を元気にしたいとでも言ったのでしょう?」
「えっ…」
何もかも知っているとばかりのその表情は、どことなく呆れているようだった。
「馬鹿ね、あの子は…。私は老衰なのよ。病気でもなんでもない。人間の摂理なの。
…ただ、一つ願うなら、あの子と…、五月雨様ともう一度目を見てお話がしたかったわ……。こんな目だもの、普通の景色すら見えないわ」
残念そうに呟くその言葉にはっとした。
できるかもしれない。俺に、治せるかもしれない。
「…チャンスが、あるとしたら?」
「えっ?」
「五月雨様を一目観れるかもしれないチャンスがあったら、すみれおばあちゃんはどうする?」
おばあちゃんは一度口を閉ざした後、決心するようにしかと、俺の方を見た。
「…そのチャンスがあれば、ぜひ。もう死にかけの私に何も失うものはないもの。蛍くん、できるの?」
「成功、しないかも」
お婆ちゃんは、俺の手を握りしめる。大丈夫だと、いうように。
こんな頓珍漢なことを言い出す俺を何も言わず信じてくれる。昔からそうだ。
お婆ちゃんも、俺と同じ景色を見ていたから、俺の苦労が手に取るように分かったのだろう。何年も、心配をかけてしまった。
涙が畳に落ち、染み込んでいく。
(本当に少量なら、白綴みたいに回復できるはずだ)
指をほんの少し傷つける。赤い線が浮かぶだけの量。奇跡が起きますように、そう願わずにはいられなかった。
優しく、おばあちゃんの額に指を乗せた。
その時。
触れた先から、緑の線がおばあちゃんの目に入って行った。するする、白い瞳孔を覆い尽くし、やがて消える。
五月雨は慌てて肩から降りる。おばあちゃんの顔に擦り寄り、声をかけ続けた。
『すみれ、すみれ!アタシよ、五月雨!ねぇ、すみれ!』
「…五月雨様、なの…-??」
『!!すみれ!アタシのことわかるのね!!』
驚きに見開かれた瞳は、しかと五月雨様を捉えていた。
五月雨は言葉にならないのか泣き続け、それに呆れたように、すみれおばあちゃんは優しく撫でた。
「あぁ、何年ぶりかしらね。貴方が見えなくなって、私はぽっかり心に穴が空いたようだった…」
『…仕方ないわ。残念だけど、見えなくなるのが殆どだもの』
「でも、蛍くんのおかげよ。こうしてもう一度お話できた。私は充分幸せでした」
『?すみれ?』
はぁ、はぁ。不自然に長くなっていく呼吸。五月雨様を撫でる手がポトリと落ちる。慌てて、にじり寄り、その手を拾う。
「すみれおばあちゃん!」
『すみれ!!』
「あぁ、もうダメみたい。最後に貴方と、蛍くんに出会えてよかった。心残りだったのよ。あとね、五月雨様」
『なに?すみれ、』
「大好きよ、本当にありがとう」
『すみれ!!アタシも貴方のことを愛しているわ!だからお願い!死んではダメよ!目を開けなさい!』
「ありがとう、」
何かを吐き出すように一呼吸した後、すみれさんはこの世を去った。
.
今日はすみれお婆ちゃんの告別式の日だ。
とても穏やかな寝顔で、この世を去ったのだと母が聞いたと言った。
告別式に五月雨様を誘ったが、静かに首を振った後、その姿を消してしまった。
(…ショック、だろうな)
境界を超えた愛情というのが、2人の中には存在していた。愛する人を失う悲しみは、果てしないものだろう。だが、最後に立ち会えたのは、話す事ができたのはとても安心できたのではないだろうか。
告別式会場に立ち込める、焼香の香り。お婆ちゃんの写真の前に立ち、手を合わせる。
「お婆ちゃん、ありがとう」
『こちらこそ、』
弾かれたように見つめた写真は、穏やかに笑っていた。




