ドライオの日常
「うおっ」
戦士の叫び声にドライオは振り向いた。
ちょうど、巨大な甲虫の脚を切り払った拍子に足をもつれさせた戦士が斜面を転がり落ちていくのが見えた。
「ルビオ!」
返事はなかった。
「ったく」
ドライオは戦斧をひと振りして自分の目の前の魔物を威嚇すると、身を翻した。
熊のような巨躯からは想像もつかない俊敏さで、飛ぶように走って魔物を置き去りにすると、斜面の縁に足を掛けて下を覗き込む。
「生きてるか」
ドライオの呼びかけに、土と草にまみれた戦士が片腕を上げる。
「すまねえ。足を挫いた」
「ならそこでじっとしてろ」
そう言い捨て、ドライオは振り向いた。すでに魔物は彼の背後に迫っていた。
大人の背丈ほどもある甲虫。交互に動く三対の脚が地面を抉って土煙を上げている。
その後方からは、さらに二体の甲虫が迫ってきていた。
「悪かった、俺たちが悪かった」
ドライオは言いながら、戦斧を振り上げる。太陽が刃の上で鈍い光を放つ。
「お前らの巣に踏み込んだのは俺たちの間違いだ」
甲虫の木の枝のような二本の前脚がドライオを捕えようと動いた。それと同時に、巨大な裁ちバサミのような牙でかぶりついてくる。ドライオはそれをかわしざまに、斧を甲虫の頭に叩き込んだ。
「だからもうこの辺で手打ちにしねえか」
そう叫びながら、頭部を失って痙攣する甲虫の背に駆け上ると、そこを踏み台にして次の獲物目がけて跳躍する。
落下の勢いをつけた巨体から繰り出された一撃は、甲虫の鋼板のような外殻を打ち砕いた。体液をまき散らして暴れる甲虫の頭部を叩き潰すと、ドライオは振り向きざまに斧を振るう。
だが、戦斧は空を切った。最後の甲虫は恐れをなしたように背を向け、元来た巣穴の方へと戻っていったからだ。
「ふう」
頬に飛んだ甲虫の体液を太い腕で拭うと、ドライオは荒れた野原の向こうに目を向けた。
壊れた馬車が一台、車輪を上に向けてひっくり返っていた。ついさっきまで動いていた証拠に、まだ右の車輪だけがごくゆっくりと回り続けていた。
魔物の餌食となった憐れな馬の死骸の脇には、肥った男の上半身が転がっていた。
敢えて近づいて確認するまでもなく、男の命はすでに失われていた。
ドライオはため息をついて、斜面の縁に歩み寄る。
「終わったぜ」
下に向かって声をかけると、どうにか起き上がろうともがいていたルビオは、額に脂汗をにじませて強張った笑みを浮かべた。
「そりゃよかった。さすがドライオだ、助かったぜ」
「さて。助かったかと言えるかな」
ドライオは戦斧を背負い直すと、斜面を慎重に下った。
「立てるか」
転がったままのルビオの脇に腕を差し込むと、軽々と彼を立ち上がらせる。ルビオも恵まれた体格をしていたが、ドライオはその彼が貧相に見えるほどの巨漢だった。
「いてえ」
ルビオは顔を歪めて呻いた。
「右足は折れてるかもしれねえ」
「そうか。まあここからはゆっくり行けばいい」
「そんなこと言ってもよ。あの守銭奴の親爺が許しちゃくれねえだろ。一日の遅れはいくらの損だとかうるせえんだから。怪我した護衛のペースになんか合わせちゃくれねえだろ」
「いやあ、もう何も言わねえと思うぜ」
「え? どういうことだ。急に物分かりが良くなったのか」
「まさか。もう俺たちの護衛の仕事は終わりってことだ」
「何でだよ。俺たちはクビか。虫どもは追い払ったんだろ」
斜面から這い上がったところで、ルビオはドライオの言葉の意味を理解して「ああ」と唸った。
「死んじまったのか、あのおっさん。だから動くなって言ったのに」
「巨甲虫は動くものに反応する。だから馬車の中でじっとしてりゃよかったんだがな」
ドライオは淡々と言った。
「虫が俺たちの方に向かってきたところで、俺たちを置き去りにして逃げようとしたんだ。その結果があのざまだ」
「意地汚ねえ嫌な雇い主だったが、ああなっちまったら憐れなもんだな」
ルビオは足を引きずりながら馬車に近づく。
「くそ、歩けねえ。せめて馬だけでも残ってりゃあ、それに乗っていくのによ」
「後で杖を作ってやるよ」
ドライオは裏返った馬車に歩み寄ると、縁に手を掛けた。
「よっ」
軽い掛け声とともに腕の筋肉がぼこりと盛り上がり、馬車はきしみながら横に回転した。
「相変わらず、とんでもねえ馬鹿力だな」
ルビオが呆れた顔をする。
「これでも若いころに比べりゃ衰えたんだ」
そう言いながらドライオはもう一度力を込めて馬車を転がす。馬車は大きく揺れた後で、屋根を上にして止まった。
ドライオは続いて雇い主だった男の遺体に歩み寄る。
「俺たちを囮にして逃げるつもりだったんだろうが、失敗だったな」
そう言って、遺体に屈みこむ。
「あの虫どもは真っ先に逃げるやつが一番うまいって知ってるんだよ」
ぼそぼそと祈りの言葉を呟く。馬車を覗き込んでいたルビオが「なあ、ドライオ」と振り返った。
「そのおっさんが死んじまった以上、もう報酬はねえ。どうする、ここに乗ってるあいつの持ち金だけでも分け合わねえか」
「お尋ね者になっても割に合うくらいの現金は持ち歩いてねえと思うがな」
「ほとんどは証文だ。現金はそんなにねえが、ここまでの報酬にはなるかな」
「やめとけやめとけ」
ドライオは遺体を抱きかかえる。溜まっていた血がどぼりと流れ落ちて、草を赤く染めた。
「そういう真似してるとな、刃に良くねえもんが溜まるんだ。切れ味が鈍って、自分の命を縮める。お前だって戦役で山ほどそういうやつらを見てきただろ?」
「あんたが生き残ったあの戦役を俺たちの経験した普通の戦役と一緒にしないでくれ。だがまあ、そういうもんかもしれねえが」
ルビオは未練がましい声で馬車を見た。ドライオは遺体を少し離れた地面の上に下ろした。
「この辺に埋める。いいな?」
「ああ。手伝うよ」
「怪我人は大人しくしてな」
ドライオは、なおも名残惜しそうに馬車を振り返っているルビオを見た。
「遺品を全部まとめて、虫の頭と一緒に次の街の連絡所に届け出りゃ、多少の金はもらえるだろう。それで我慢しろ」
「まあ、あんたがそう言うなら」
ルビオは渋々頷く。
「だがそんなもんは、二人で分けたらガキの小遣いに毛が生えたような額だろ?」
「俺の分もお前にやるよ」
「え」
ルビオは驚いたようにドライオを見た。
「どうして」
「その足じゃしばらく働けねえだろ。俺はこの通り元気だからな。仕事は見つかる。自分の食い扶持くらい自分で稼ぐさ」
「すまねえ」
「だから野盗みたいな真似はやめとけ」
そう言うとドライオは戦斧を地面に振り下ろした。土が飛び散る。
「なあ、ドライオ」
地面に座り込んだまま、ルビオが言った。
「それなら代わりに、あんたに一つ仕事を譲るぜ」
「仕事?」
ドライオは再び戦斧を振り上げ、地面に振り下ろす。
「何の仕事だ」
「護衛の目的地がフィルスの街だっただろ? 実は俺、もうそこで次の仕事が決まってたんだよ。だがこんな足じゃできねえから、あんたに譲るよ」
「何の仕事だって聞いてんだ」
手を休めることなく穴を掘りながら、ドライオは言った。
「最近は妙に頭を使う繊細な仕事が多いからな。そういうのは無理だぜ、もっと若いのに譲ってやれ」
「大丈夫だ。俺たちみたいな戦役帰りのロートルでも務まる、単純なやつさ」
ルビオは言った。
「なにせ、ただの荷物運びだからな」
「労役なら、やらねえよ」
「違うって。何かの実査だか探索だかのお供って聞いたぜ。とにかく旅の間、荷物を運ぶだけでいいんだってよ。そのくせ、報酬は破格なんだ」
ルビオの言葉に、ドライオはしばらく黙って穴を掘っていたが、やがて人ひとりが横たわれるほどの穴ができると、ようやく彼を振り返った。
「きな臭い感じは否めねえが」
ドライオは言った。
「金はいいんだな? フィルスに着くまでに、ゆっくり聞かせろ」




