ソフィア7
国王の名の元に、急ぎ王太女の婚約者の発表の準備が行われている最中。
「お部屋までエスコートする栄誉を頂けますか」
「……えぇ」
いつもの自分なら、部屋に戻る程度のことでエスコートなど頼まない。だが自分の相手が定まったことを急いで広めなければならない事情もある。
(エステルとカークの耳にも、もう届いているのかしら)
かつての乳兄弟はこの知らせに何を思うだろう——。恋心には蓋をして鍵をかけたが、今からやってくる未来への戸惑いが、自分を過去へと押し戻そうとする。
こんなことでは駄目だと自分を叱咤しながら、隣を行く青年を見上げた。たった今自身の婚約者に納まった、つい先ほどまでただの王女と官僚の関係でしかなかった相手。
「ランバート卿の周囲の方々は納得されているのよね」
「兄と妹、それに親戚に知らせるのはこれからになりますが、反対する者はありませんよ」
「そうではなくて……」
彼の年齢は二十五だったか六だったか。優秀な男で、王立大学をソフィアと同じ最短の五年で卒業していたはずだ。文官として登用されてわりとすぐに宰相に見出され、異例の若さで補佐に抜擢されたのは記憶に新しい。加えて伯爵の肩書きもある。名も実も、見た目も備わった男性が、浮いた噂ひとつないというのもおかしい。
もしや将来を約束した相手がいたにも関わらず、貰い手のない自分の婿がねとなるよう、父王や宰相に迫られ、断れずにいるのではないか。ソフィアがそう考えたのも無理ないことだった。
「どうぞご安心を。二十一で文官となり、仕事に邁進しているうちに今回の魔獣暴走の災禍に見舞われました。あまりの忙しさに恋人を持つ暇などありませんでしたので」
ソフィアの思惑を言い当てられ、思わず鼻白んだ。しかしすぐに彼が優秀な男だったことを思い出す。自分が言外に込めた意味くらい、簡単に見抜いてしまうだろう。
彼の能力であれば未来の王配として、国の舵取りをしていかねばならない自分の十分な支えとなるはずだ。父や宰相が少ない候補の中から推すだけのものがある。この選択は想定外だったが、悪いものではないはずだ。
「ランバート卿、どうもありがとう」
「どうかユリウスとお呼びください。ソフィア様」
「……ユリウス殿。今後ともどうかよろしく」
執務室に戻ったソフィアが、彼のエスコートから手を引こうとしたとき。
「少しお話をさせて頂いても?」
ユリウスにそう微笑まれ、ソフィアは頷いた。手を引いたまま室内に移動した彼は、この二年間常に開け放たれていた執務室の扉を、片手で閉めた。
「ランバート卿!」
「緊急の事態ですのでご容赦を。扉の外の護衛には伝えてあります」
未婚の男女が扉を閉じた部屋で二人きりになるなど、たとえ婚約者であっても許されることではない。羞恥と怒りで声を荒げそうになったソフィアは、けれど彼の力強い腕に抑えられ、息を呑むことになった。
「ランバート卿! いったい何を……っ。婚約の話が出たからといって、こんな」
「英雄殿への思いは断ち切ることができましたか」
「……っ」
彼の鋭い瞳と思いもかけぬ名前に、ソフィアはさらに息を呑んだ。
「……な、何を」
ソフィアがカークに思いを寄せていたことが、周囲に知られているはずがないのだ。なぜなら自分は完璧な王太女として、常に微笑みと冷静の仮面を被ってきたのだから。カークと結ばれたエステルに、ソフィアもカークのことが好きなのだと思っていたと言われたくらいだから、完璧ではなかったのかもしれないが、それでもカークはただの乳兄弟だと説明すれば、妹はあっさり納得してくれた。
だから今自分が行うべきことは、否定することだ。ソフィアは崩れかけた仮面を即座に付け直した。
「いったい何を言われるのかと思えば……。そんな戯言を確認するために扉を閉めたのですか」
ユリウス・ランバートと言えば、宰相が一目置くほどの優秀な人材というほかには、何も特徴がない男のはずだった。
だが人畜無害だった彼の腕にソフィアは今絡め取られている。
「ひとつ忠告申し上げます。あなたが英雄カーク・ダンフィルに抱いていた思いは、決して恋などではありませんでしたよ。せいぜいが身近な同世代の異性への憧れという範疇です」
「あなた、いったい何を……」
「想像してみてください。もし英雄に選ばれたのがカーク・ダンフィルでなく、エステル様だったらどうでしょう」
「え……?」
「あなたは妹姫の剣の誓いを受け取り、戦線へと彼女を送り出しましたか? 魔獣という人の理を理解できぬ獣の餌になるかもしれない役目を、エステル様に負わせたでしょうか。その尊い身体を貪られ肉片となり、遺体すらも戻らぬまま深い森の奥で朽ち果てる——そんな可能性がある場所に、国のために死に物狂いで働いてこいと追い立てたでしょうか」
彼の言葉を受けて、ついその光景を想像してしまった。深緑の騎士服に身を包んだエステルが聖剣を自分へと捧げる姿を。討伐隊の先頭に立って振り返ることなく旅立っていく姿を。見たこともない魔獣を倒すために剣を振るうエステルに、突如として鋭い牙が襲いかかる。その攻撃を躱すことができず、魔獣に喰いつかれ苦しみながら倒れる、大切な大切な妹姫——。
「やめて! そんなこと、あの子にさせられるわけがないでしょう!?」
「それが答えですよ、ソフィア様」
「————!!」
蒼白となったソフィアに、ユリウスは畳み掛けた。
「あなたがカーク・ダンフィルに抱いていた思いは断じて恋などではない。本物の恋なら、自分の命と引き換えにしてでも相手を守りたいと願うものだ。現に私は——あなたのためなら死ねる。一度破滅しかけた命を、あなたに救ってもらったのだ。もう一度、今度はあなたのために捨てろと言われるなら本望だ」
息をつく間も無く、ユリウスはソフィアの首元に顔を寄せた。ぞわりとソフィアの背筋が震える。数分前に婚約の約束を交わしただけの男に許される距離ではなかった。ソフィアが声を上げれば、さすがに足止めされている護衛騎士たちがなだれ込んでくるだろう。
だが彼女は何かに絡め取られたかのように動けなかった。やがて彼の息づかいがソフィアの鎖骨の辺りまで降りてきたかと思うと——熱を持った際どい感触を刻んだ。
(キス、された……いえ、違う、これは)
舐められたと気づいた瞬間、ごく至近距離で彼の瞳が仄暗く揺れる様が見えた。
「……今は政略でもかまいません。必ずあなたを溺れさせてみせます。私が、本物の恋を教えて差し上げましょう。焦がれて、何を押してでも手に入れたいと……そのためにはなりふり構っていられぬような、すべてを投じるほどの恋を」
吐息が絡むほどの距離で、目線だけを上げてそう言い切った彼は、唇をつけたままのソフィアの鎖骨に歯を立てた。
「……いっ!」
痛みのあまり悲鳴が口から溢れ、生理的な涙が目尻に浮かんだ。いつの間にか両手を掴まれ、身動きを封じられたソフィアは、白々と息をするしかない。
「キスマークなんて簡単に消える印で満足できるはずないでしょう。ここまで来るのに十年かかったのです。この程度だって物足りないくらいですよ。あなたを愛するのも、傷つけるのも、もう私だけです」
赤く腫れた鎖骨に今度こそ間違いなく舌を這わせ、ユリウスはようやく身体を起こした。されるがままのソフィアは、かつてないほどの混乱に襲われていた。考えなければならないことが山のようにあるのに、鎖骨から広がる甘い痛みにくらくらして、頭が回らない。
「十年っていったい……」
ようやく口にできた言葉がそれかと、内なる冷静な自分が呆れる。こぼれたソフィアの言にユリウスはまた仄暗く瞳を揺らした。
「……十年前、私はあなたに救われました。そのときから、この身と心はあなたに捧げると決めたのです。聖剣に頼らねばできぬ誓いに劣るとは言わせません」
そしてユリウスは目尻に残ったままだったソフィアの涙に唇を寄せた。
「あなたを泣かせるのも、生涯に渡って私だけです。憶えておいてくださいね」
痛みとは真逆の、けれどよく似た熱に翻弄されて、ソフィアは頷くよりほかなかった。
その日の午後は体調不良を理由に、生まれて初めて執務を放棄した。
ベッドに横たわっているうちにいつの間にか眠ってしまったソフィアは、夕方、目を覚ます。
夢すら見ずにぐっすり眠れたのは、ずいぶん久々のことだった。




