第73話 看守を助けた男は、まだ逃げたい
呼子が鳴ったのは、高警戒区画の運動場へ向かう廊下を歩いていた時だった。
駆けてきた看守へ医務室への連絡を頼み、俺は開いた内扉の手前で足を止めた。もう一人が外へ通じる扉を閉めてから、こちらを振り返る。
「看守が一名、転倒して負傷しています。ブラムは、そこの椅子から動かさないようにしています」
壁際の長椅子に座った男の両手には、既に手枷が掛かっていた。
その指と袖口に、血が付いている。
ブラムの前に立つ看守は、腰の剣へ手を添えたままだったが、抜いてはいなかった。少し離れた敷石の上では、別の看守が額へ布を当て、苦しそうに息を吐いていた。
「頭を打った。俺が支えていたところへ、そいつが来たんだ」
ブラムが顎で看守を示す。
「状況は二人から聞く。今は、そのまま座っていろ」
俺は負傷した看守の方へ寄った。
目は開いており、呼びかけにも答える。ただ、腕をついて起きようとすると、顔を歪めて手を引いた。
「立とうとするな。ラッセルを呼んでいる」
「申し訳ありません。足を滑らせまして……」
「それは後で聞く。今、どこが痛むかを伝えてくれ」
濡れた石の上には、短く擦れた靴跡が残っていた。洗って干した麻縄が風で揺れ、その下で、看守の落とした帽子だけが水を吸っていた。
◇
ブラムをここへ出す時は、看守を二人付けている。
移動中の手枷は、区画内へ入って戸を閉め、作業の準備を確かめてから外す。ほかの囚人と一緒にはせず、麻縄を長さごとに揃える仕事を、単独で続けさせていた。
危険がなくなったから、そうしているわけではない。
二度の逃走未遂があり、護送中には看守の鼻を折っている男だ。本人も、逃げる機会があれば考えると隠していない。
その男が、負傷した看守に手を貸していたという。
医務室からラッセルが来ると、ブラムの前にいた看守が、俺へ声を落とした。
「最初は、何をしているのか分かりませんでした。倒れた者のすぐそばにいたので、近づくなと命じました」
「危害を加える動きがあったか確かめたいので、指示を受けた時の様子も話してくれ」
「自分から近づいたんじゃない、こちらへ倒れてきたんだと。その時は、まだ片手で頭を支えていました」
看守は言葉を切り、石床の低い段差を見た。
転んだ者は、そこへ半身を乗せる形になっていたらしい。ブラムが腕を差し入れなければ、頭がもう一度、石の縁へ落ちる位置だったという。
「手を離せと言いかけましたが、支えているのが見えたので、そのまま動くなと伝え直しました。応援が来てから、こちらで身体を支え、ブラムを離しています」
「その順でよかった。手を離させることだけ急げば、負傷者をまた落としたかもしれん」
看守は小さく息を吐いたが、剣へ置いた手をすぐには外さなかった。
「ただ、鍵も届く所にありました。何をするつもりなのか、こちらには分かりませんので」
負傷した看守の腰には、この区画で使う鍵が革紐で留められている。房の鍵をまとめて持ち歩いていたわけではないが、取られれば、それで済む話でもなかった。
「警戒を解く必要はない。負傷者を助けたことも、鍵へ手が届いたことも、両方残してくれ」
ラッセルが布を取り替えながら、看守へ具合を尋ねている。
吐き気の有無や、転ぶ前に目が眩んだかを聞いていたが、ここで原因を決めつけることはしなかった。額の傷だけ見て仕事へ戻すわけにもいかず、医務室で診るという。
呼ばれて来た看守たちが移動を手伝った。
その間、ブラムは長椅子から動かなかった。運ばれていく者を目で追い、扉が閉まると、自分の袖口へ視線を落とした。
「この血を洗わせてくれ。乾くと、布が硬くなる」
◇
作業はその場で打ち切った。
ブラムを移す前に人数と持ち物を確かめ、応援の看守二人へ引き継ぐ。運動場に残した縄は、看守が束ねて片づけた。
引き継ぎの途中、ブラムが鼻で笑った。
「助けた後も、二人で連れていくんだな」
「お前をここへ出す時の人数だ。今日の出来事だけで減らす話にはならん」
「減らせとは言ってない。倒れた奴を俺に背負わせて運ぶと言い出さなかったから、まだましだと思っただけだ」
冗談か、本気でそう警戒していたのかは、顔からは読めなかった。
ただ、負傷者を背負わせれば、そちらへ両手を使わせたまま移動させることになる。途中で放り出されても、立ち止まられても、看守が対応しなければならない。
目の前で手を貸したからといって、そのまま役割を増やせる男ではなかった。
手を洗う場所へ連れていくと、看守が水差しを傾けた。ブラムは手枷を掛けたまま指を擦り合わせ、流れた赤い水を見下ろしていた。
看守が差し出した布には、しばらく手を伸ばさなかった。
「さっきの奴は、死なずに済みそうなのか。頭から、ずいぶん血が出ていた」
「医務室で診ている。今のところ、私から言えるのはそこまでだ」
「分からないなら、分からないでいい。俺のせいで倒れたことにだけは、するなよ」
「誰も、そういう扱いでは記録していない。転ぶ前に何があったかは、本人にも聞く」
ブラムは布を取り、指の間まで拭いた。
「昔なら、俺がそばにいただけで殴られただろうな」
俺が返事をする前に、付き添いの看守が口を開いた。
「そばにいたからこそ、お前が頭を支えていたところも見ている。そのことまで消して書くつもりはない」
ブラムは看守の顔を見た。
礼は言わず、使った布を返したが、それ以上は悪態もつかなかった。
◇
午後、俺はグラッドと運動場を見に戻った。
転倒した場所は、ほかの石より表面が磨かれていた。雨に濡れた靴で向きを変えたところ、足を取られたらしい。負傷した看守自身も、医務室でそう話している。
ノエラに見てもらうまでは、そこを通る作業を止めた。濡れた場所へ砂を撒くだけで足りるか、石を据え直す必要があるかは、見ずに決められない。
グラッドは壁際の長椅子と扉を見比べた。
「一人が倒れれば、残った一人で負傷者とブラムの両方を見ることになりますな。呼子が使えて、近くの者が来たから持ちこたえましたが」
「応援が来るまで、あの看守はブラムへ近づかずに済んだ。そこは、今の配置が働いたところだろう。ただ、支えていた本人に暴れる気があれば、もっと難しくなっていた」
「助けてくれたから、次も助けるものとして組むわけにはいきませんか」
「ああ。本人にも、そのつもりで見ていると伝えた」
グラッドは少し眉を上げた。
「それで腹を立てませんでしたか。せっかく助けたのに、という不満は出そうですが」
「まだ、何を考えて手を貸したのかまでは聞けていない」
運動場の隅では、片づけ忘れた短い麻縄が、水溜まりの縁に引っかかっていた。
俺が拾うと、グラッドが束を受け取った。そこで話を切り上げ、看守からの聞き取りを済ませてから、もう一度ブラムの所へ向かった。
◇
ブラムは房内で、まだ湿った袖を指で摘んでいた。
俺の後ろに看守が残るのを見てから、寝台へ腰を下ろす。
「助けた理由なら、倒れてきたからだ。考える前に手が出た。そういうことまで、うまく説明できると思うなよ」
「最初から、感心するような答えを求めてはいない。あの時、お前にはどう見えていたかを聞きたい」
男は顔をしかめた。
廊下を通った看守の鍵が鳴り、ブラムの目が一瞬、戸の方へ動く。俺がそれに気づいたのを見ても、誤魔化そうとはしなかった。
「鍵には届いた。革紐の先に見えていたから、引けば取れるかもしれないと思った」
「鍵だけで外へ出られるわけではないが、どこまで行けると考えた」
「鍵一本で黒塔の門が全部開くとは思ってない。取った後で、もう一人をどうするかもある。だが、普段より近くにあったのは確かだ」
ブラムは両手を広げ、先ほど血の付いていた掌を見た。
「こっちは、頭を受けた腕を抜くかどうか考えていた。動けば、あいつがまた石へ落ちる。向こうの看守は剣に手を掛けている。そこで鍵を掴んだら、頭を支えていたなんて話は通らんだろう」
「鍵を取ろうとすれば、看守は止める。それはお前も分かっているはずだ」
「だから取らなかった。それで、助けた分だけ逃げる気がなくなったとでも思われたら、迷惑だ」
顔を上げた男の目には、笑いがなかった。
監獄にいる者が手を貸せば、相手への信頼や反省を読み取りたくなる。だが、ブラムの言葉は、こちらが欲しがる答えから遠ざかる方へ進んでいた。
「お前が逃げる機会を窺っていることは、忘れていない」
「警戒するなら、今まで通りにしておけ。あいつが死ねば、ここへ出る話まで潰れそうだと思ったのもある。全部俺のせいじゃなくても、看守が足りなくなれば房へ戻されるんだろう」
「人員が足りなければ、作業を止めることはある」
「壁を見て暮らすのは、もう御免だ。だから、あいつにも生きていてもらいたい」
男はそこまで言って、寝台の端を掌で撫でた。
損得だけで、倒れてきた身体を咄嗟に支えたのか。それとも、支えた後で自分に通じる理由を探したのかは、本人にも分からないのかもしれなかった。
俺が決めてやる必要もなかった。
「手を貸したことは記録する。だが、それを理由に手枷や付き添いを減らすことはしない。作業を再開できるかは、場所と人員を確かめてから伝える」
「助け損だと言いたくもなるが、それを聞くのは嫌だろうな」
「不満は聞く。ただ、お前が望む変更を、礼の代わりに約束することはできん」
ブラムは口の片端を上げた。
「そこまで言うなら、袖の血くらいは落としてくれ。飯の時まで付いていると、気分が悪い」
「着替えを回せるか、担当に確かめさせる」
戸を閉める時、ブラムはもう一度、負傷した看守の具合が分かったら教えろと言った。
◇
夕方、医務室へ寄ると、看守は寝台で目を閉じていた。
眠っているのかと思ったが、俺の声を聞くと返事があった。額には清潔な布が巻かれ、痛めた腕は身体の横へ置かれている。
ラッセルは、そのまま休ませると言った。額の傷の処置は済んだものの、頭を打った後の具合を見ておく必要があり、腕についても痛みが強い間は勤務に出せないという。
ブラムが身体を支えていたと伝えると、看守は天井を見たまま、ゆっくり頷いた。
「覚えています。自分でも起きようとしたんですが、腕に力が入らなくて。あいつに、動くなと言われました」
「本人も、倒れてきたところを受けたと言っていた」
「礼を言いたいですが、それで、あいつの付き添いに出た時に甘くなるのは困りますな」
看守は言い終えてから、乾いた唇を舐めた。
「いや、今すぐ勤務へ戻すつもりで話さないでください。立つと、まだ頭に響くので」
「そこまで人手を惜しんではいない。礼は伝えるから、今は休んでいろ」
帰りに、担当の看守へブラムへの伝言を頼んだ。
治ったとは伝えず、手当てを受けて医務室で休んでいることと、本人が礼を言っていたことだけを。
その後、運動場で二人に付いていた看守が、聞き取りの記録を持ってきた。ブラムを警戒していた理由も、支えた手を離させずに待たせた判断も、自分の言葉で書かれている。
最後には、応援が来るまでのおおよその時間があった。
俺はそれを読み終え、記録を閉じる前に、負傷した看守の搬送を手伝った者の名を確かめた。
ブラムへ背中を向けずに済むよう、一人が戸口に残っていた。誰に命じられたわけでもなく、運び手が足りているのを見て、その位置を選んだという。
明日の配置を相談するためにグラッドを呼ぶと、廊下の奥から夕食を運ぶ車輪の音が近づいてきた。ブラムの房の前でも荷車は止まり、いつもと同じ食事が、鉄格子の内側へ差し入れられた。
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YouTubeショート動画作ってみました。
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