止まったままの絆
聖都オクヘイムでの衝撃的な事件から、月日はあっという間に流れ、季節は巡った。レイがこの隊に入隊してから、すでに3ヶ月という月日が経過していた。
だが、あの事件以来、ノイの所在については依然として霧の中だった。決定的な手がかりすら掴めないまま、時間だけが無情にも過ぎていく。
レイが入隊する直前のことだった。ノイは「少しの間、休暇をもらって故郷に帰る」と隊長に告げ、聖都を離れたという記録だけは残っていた。その情報を頼りに、トリスタンや一部の隊士たちが慌てて彼の故郷の村へと急行したが、そこは既に数年前に閉鎖されたかのように、ただの廃墟と化しており、ノイの影も形も――そこに住んでいたはずの家族の気配さえも――一切残されていない、もぬけの殻だった。
「……ノイ、全然見つからないね」
宿舎の庭先で、アリスがぽつりと零した。その声には、隠しきれない疲労と喪失感が滲んでいる。
これまでどんな時も共にあり、冗談を言い合い、時には厳しく、時には優しく背中を押してくれた親友。そんな彼が、最初から偽物であったと知らされたあの日のショックから、アリスの心はまだ完全には立ち直っていなかった。
「あんなに……あんなに一緒にいたのに……。どうして、どうしてノイがいなくなっちゃわないといけないの……?」
アリスの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。それは昨日今日流した涙ではない。3ヶ月という長い時間、彼女が心の奥底に押し殺し続けてきた悲しみの決壊だった。
レイは、ただ黙って彼女の横に立ち尽くすことしかできなかった。
彼にとっても、ノイの存在は大きかった。たとえそれが「偽物」であったとしても、共に食事をし、汗を流し、笑い合った時間は紛れもない真実だったからだ。そのすべてが敵の欺瞞であったという事実に、レイの胸もまた鋭く抉られるような痛みを覚えていた。
沈黙が続く中、レイは必死に頭を巡らせた。何か、今の彼女を救う言葉はないか。彼なりにこれまで読んできた物語や、アリスの性格を考慮し、女性に対する知識のすべてを絞り出して、不器用な提案をした。
「……アリス。こういう時こそ、バッハちゃんの背中に乗るべきじゃないか?」
その言葉を聞いたアリスは、驚いたように顔を上げた。涙で濡れた瞳に、夕日の紅蓮の光が反射している。
「……バッハちゃんに?」
「ああ。君が言っていたろ。高い空から景色を見下ろせば、日々の嫌なことなんて忘れられるって。今は……今だけは、空の上に行こう」
レイの真っ直ぐな言葉に、アリスの頬がほんのりと赤らんだ。それが涙で熱を持ったせいなのか、それとも沈みゆく夕日の染色のせいなのか。それを確かめる術は、今の二人にはなかった。
「……うん、そうだね。行こう」
アリスは小さく、しかししっかりと頷いた。
遠くから愛竜バッハちゃんの鳴き声が聞こえる。二人は迷わずその背に飛び乗り、聖都の空へと舞い上がった。
心地よい風が二人を包み込む。先ほどまでの湿っぽい空気は、高度を上げるにつれて、澄み切った大気の彼方へと消えていった。
「……やっぱ、バッハちゃんの背中に乗ると気持ちがいいね!」
レイはそう言って、広大な地平線を眺めた。風が髪を揺らし、胸に溜まっていた重苦しい感情が少しずつ軽くなっていくのがわかる。
隣で竜の首を優しく撫でていたアリスも、ようやく安らぎを取り戻したような、穏やかな笑みを浮かべた。
「そうだね……。空の上は、誰の邪魔も入らないし。やっぱり、ここは落ち着くね」
眼下には、灯り始めた街並みが宝石箱のように並んでいる。ノイという存在の謎、敵の正体、これから先の戦い――それらは依然として重い課題として残されている。だが、少なくともこの瞬間だけは、二人は空という避難場所で、互いの鼓動を感じ合いながら、明日への活力を蓄えることができた。
聖都の夜は更けていく。伝説の竜の背で、二人は静かに明日を見据えていた。ノイを必ず見つけ出すという誓いを、胸の奥深くで改めて刻み込みながら。
宿舎へと帰還したレイとアリスを待っていたのは、廊下の陰で待ち構えていたかのようなトリスタンの姿だった。
「……トリスタン隊長?」
「門限は破っていないぞ」とレイが即座に予防線を張るが、トリスタンはいつも通りの不敵な笑みを浮かべつつ、ただ一言「来い」とだけ告げて踵を返した。また何か理不尽な特訓でも始まるのではないかと、二人は顔を見合わせ、嫌な予感を抱きながらトリスタンの背中を追った。
通されたのは、隊の作戦会議が頻繁に行われる大広間だった。すでにそこには、シヴォンを筆頭に、遠征部隊の主要メンバーが厳しい面持ちで並んでいる。皆、トリスタンの纏う張り詰めた空気を察し、誰も口を開こうとはしなかった。
全員が揃ったことを確認すると、トリスタンは地図の広げられた中央のテーブルを叩き、静かに、しかし威厳のある声で口を開いた。
「皆、集まってくれてありがとう。これより、我が隊の次なる遠征先を発表する」
その言葉だけで、室内の気温が数度下がったかのような緊張感が走った。隊員たちは皆、ゴクリと喉を鳴らし、トリスタンの次の言葉を待った。
「次の遠征先は……ケルオス大陸だ」
ケルオス大陸――。
その名を聞いた途端、レイは戦慄に近い興奮を覚えた。かつてこの大陸は、人間とは異なる異種族たちが、人間と調和し、あるいは競い合いながら繁栄していた「異種族の揺り籠」として知られていた場所だ。妖精や巨人、その他数多の種族が闊歩していた楽園。しかし、それは遠い過去の話だった。
「ケルオス大陸といえば……世界樹が切り倒されたという伝説の地ですね」
ミカが冷静に補足する。その通り、この大陸の生命の源であった世界樹が何者かによって伐採されて以来、大陸の魔力バランスは崩壊し、純粋な異種族の個体数は激減した。しかし、ケルオス大陸の歴史はそこで途絶えたわけではない。長きにわたる混血の歴史を経て、今そこに住まう人間の多くは、妖精や巨人の血を脈々と受け継いでいるのだ。
「奴らの狙いはそこにあるのか?」とシヴォンが鋭く問いかける。
トリスタンは深く頷いた。
「ああ。神の釘が打ち込まれている大陸の一つだ。ルミナス王国のような悲劇を繰り返すわけにはいかん。我々の任務は、ケルオスに打ち込まれた『神の釘』の調査、そしてその周辺で蠢く敵組織の排除だ」
そして、いよいよメンバーの選抜が告げられる。レイは固唾を呑んで聞き入った。
「今回の遠征メンバーを発表する」
トリスタンの視線が、部屋を見渡す。
「まずは隊長である俺、トリスタン。そして副隊長ミカ。シヴォン、アレキドロ、コルドレン、ジオラ。――以上だ」
そこでトリスタンは一度言葉を切り、レイとアリスに鋭い視線を向けた。
「……そして、アリス。貴様には竜騎士としての偵察を任せる。最後は……」
レイは背筋を伸ばし、己の役割を待った。
「……レイ。貴様を今回の遠征メンバーに加える。入隊から3ヶ月、貴様の成長と、その血に宿る潜在能力に期待するぞ」
「はいっ!」
レイの声が、会議室の天井を突き抜けるほど力強く響いた。
「異議はないな。ケルオスは広大かつ険しい地だ。一寸先は闇、という言葉を肝に銘じておけ。本物のノイを探し出す手がかりも、あの過酷な土地のどこかに眠っているはずだ」
トリスタンの言葉に、一同が「御意!」と深く頭を下げた。
その場に集まった面々を見回すと、そこには単なる部隊を超えた、一つの家族のような結束があった。レイは、隣に立つアリスと視線を交わす。彼女の瞳には、まだ迷いも残ってはいるが、それ以上に「ケルオスこそがノイを見つける場所かもしれない」という、新たな希望が宿っていた。
かつての楽園であり、現在は魔力の病に蝕まれし地。ケルオス大陸。
そこにはどんな試練と、どんな真実が待ち受けているのか。レイは聖剣アスカリオンの柄を強く握りしめ、かつてない覚悟を胸に、この広大な世界の未知なる扉を開く準備を整えたのであった。
「よし、出発は明朝だ。各自、装備の最終確認を済ませておけ!」
トリスタンの号令とともに、部隊の士気は最高潮に達した。レイの騎士としての、そして自分の出自を探る旅が、いよいよ本格的に動き出そうとしていた。




