母の愛
木々が穏やかにざわめく村の裏手の丘。レイに導かれ、静寂に包まれたヘリオスの墓の前に立ったジンガーは、深く帽子を脱ぎ、じっと十字の碑石を見つめた。
「……遅くなって、すまなかったな」
かつて共に戦い、命を預け合った友の眠る場所で、ジンガーの呟いた声には、長年胸に秘めていた切なさと確かな決意が滲んでいた。
その傍らで、レイもまた父親の墓石にそっと手を合わせ、心の中でまっすぐ語りかけた。
(父さん……見ててよ。俺、父さんの代わりにあの約束を果たすよ。みんなを守るために、俺も戦うから)
胸の奥にあった迷いが完全に晴れ、代わりに熱い決意が満ちていくのを感じながら、レイは一度家へと戻った。旅立ちの支度を急ぐため自室の机に向かったその時、ふと視界の端に一冊の古いアルバムが飛び込んできた。
それは、レイがこれまで大切に撮りためてきた写真たちをまとめたものだった。
ページをめくろうと手を伸ばしかけ、レイの手がピタリと止まる。
一番最初のページに挟まれていたのは、一枚の写真だった。
それは、レイが10歳の誕生日を迎えたときに、かつてヘリオスの仲間だったレオンから贈られた特製の写真機で、レイ自身が初めてシャッターを切った記念すべき写真だった。
写真の中には、若き日の母・ミーナ、優しく微笑む叔母のマニー、そしていつも温かく自分を見守ってくれていた老夫婦――ケルトとマーサの姿があった。もちろん、その中心には、幼くて少し照れくさそうに笑っているレイ自身の姿が写っている。
穏やかで、かけがえのない日常のワンシーン。
これから自分が飛び込もうとしている過酷な戦いの世界と、今こうして手元にある温かい思い出の数々が、レイの胸を優しく、そして強く締め付けるのだった。
「これを持っていこう」
レイはアルバムからその大切な一枚を取り出し、しっかりと自分のポケットにしまい込んだ。
そして旅立ちの支度を終え、リビングへと戻ると、そこには静かに待つ母・ミーナの姿があった。
ミーナは息子を見据え、切なさと誇らしさが入り混じった優しい笑みを浮かべて言った。
「もう……行ってしまうのね」
「うん。必ず、帰ってくるよ」
そのまっすぐな決意に満ちた返事を聞いた瞬間、ミーナの胸の奥で、セピア色の過去の記憶が鮮やかに蘇った。
それはかつて、この静かな村でヘリオスとロキの凄まじい激闘が繰り広げられたあの日――戦いへと赴くヘリオスが、ミーナに遺した最後の言葉と全く同じだったのだ。
(あぁ……本当に、親子ね……)
胸が締め付けられるような切なさを覚えながらも、ミーナは泣き顔を見せないようにしっかりと唇を引き締め、我が子の門出を笑顔で見送ろうと決意した。
「ちょっと待ってて」
そう言ってミーナが奥から戻ってきたとき、その手のひらには小さな布袋が乗せられていた。中から取り出されたのは、かつてヘリオスとミーナが永遠の愛を誓い、婚約した際に身につけていた思い出の指輪だった。
「これ……お父さんが遺してくれた、大切なお守りよ。きっと、父さんがいつでもあなたのことを見守ってくれているわ」
ミーナは優しくレイの手を取り、その指輪をそっと握らせた。
ミーナは優しくレイの手を取ると、その指輪をそっと持たせた。そして、言葉にできないすべての想いを込めて、愛おしい我が子を強く抱きしめた。それは、どんな防具よりも温かく、レイの勇気を満たしてくれる母の愛情そのものだった。
「……行ってくるよ、母さん」
温もりを胸に焼き付け、レイは家を後にした。
少しずつ遠ざかっていく息子の後ろ姿を見送りながら、ミーナの目からあふれ出た涙が頬を伝う。その背中には、かつての英雄ヘリオスの面影が、確かに重なって見えた。
「ねぇ、ヘリオス……。レイ、いつの間にかあんなに大きくなったよ。なんだか、背丈もあなたに似てきたみたい……」
空に向かってそっと呟きながら、ミーナは涙を拭い、精一杯の笑顔で手を振った。
「――いってらっしゃい、レイ」
村の出口へと歩き出したレイは、そこで待ち構えていたジンガーと合流した。
「しばらく村には戻れないぞ。……ちゃんと、家族に別れは告げてきたか?」
ジンガーの問いかけに、レイは微塵の迷いもない真剣な瞳で頷いた。
「あぁ、もちろん」
その少年離れした強い決意を宿した目を見て、ジンガーは頼もしいものを見るように小さく笑った。
やがて、ジンガーたちが拠点としている開けた場所へと到着する。
そこには、腕を組んで待っていたノイが「遅かったじゃないか」と呆れたような、しかしどこか嬉しそうな顔をして立っていた。さらに、傍らにはヒューガの姿と、頑丈な馬車、そしてその下で魔力手錠をはめられ、悔しそうに地団駄を踏んでいる巨漢のガルドが転がっていた。
「待たせたな」
ジンガーが声を張り上げると、一同は一斉に視線を向けた。ガルドは悪態をつくように吐き捨てる。
「ふん……好き勝手にしやがって、後悔する日が来らぁ!」
周囲の喧騒をよそに、ジンガーは馬車の綱を握りながら、集まった仲間たちを見渡した。
「これから聖都に戻る。このガルドという危険な男を連れてな……。そこでだ、ヒューガ、お前はどうする?」
ジンガーの問いかけに、ヒューガは愛用の槍を肩に担ぎ、フッと不敵な笑みを浮かべた。
「悪いなジンガー、俺は個人的に追いたい情報があるんだ。聖都へ戻るなら、俺のことはここに置いていくんだな」
その意志の固い返答を聞いたジンガーは、深く追及することなく、静かにうなずいて了承したのだった。
「そうか。無理はするなよ」
いよいよ出発の時が訪れた。
「では、ここでさらばだ!」
ジンガーの合図とともに馬車が力強く走り出し、静かな平原を進み始める。
揺れる馬車の中、退屈を嫌うノイは、さっそく興味津々な顔で隣に座るレイに話しかけた。
「なぁなぁ、レイ! 実際にその『龍の力』ってやつに目覚めたんだろ? 一体どんな感じがするわけ? 身体中がビリビリしたりすあんの!?」
レイは少し苦笑いをしながら答えた。
「うーん……よくわかんないけどさ、なんだか体の底から熱いものがフツフツと湧き上がってくる感じかな」
ノイは頭にクエスチョンマークを浮かべたように首をかしげた。
「へぇ……いまいちよくわかんねぇなそれ!」
車内が和やかな空気に包まれたのも束の間、ふと、馬車の隅で固く縛られていたガルドが、恨めしそうな声で吐き捨てるように言った。
「フン……いまに見ていろ! 俺はいつか必ず、その龍の力とやらを『あの方』に献上してやる……!」
その捨て台詞を聞き、ノイは呆れたように大きく息をついた。
「おいおい……お前、まだ現実が見えてないわけ? 何回言ったら理解できんだよ。お前はもう、あのロキとかいう野郎に使い捨ての駒として切り捨てられたんだっての。誰も助けになんて来ないの!」
ノイの容赦ない現実の突きつけに、ガルドはぐっと言葉を詰まらせ、悔しさに顔を歪めながら再びうなだれたのだった。車内に張り詰めた空気を断ち切るように、前方の御者台からジンガーの鋭い声が響いた。
「気を抜くな、油断するなよ。……あの男が何を考えているのか、今の俺たちには全く分からない。そもそも、さっき目の前に現れたあの姿ですら、本当の『実体』じゃなかったかもしれないんだからな。無論この男もだ」
ジンガーがそこまで厳戒な態度をとるのには、確たる理由があった。
かつて世界を揺るがした『六人の大罪人』の1人――あのバルドと死闘を繰り広げた際、死力を尽くして捕らえたと思ったその男が、実は巧妙に作られた幻影か何かで、本物の実体ではなかったという苦い過去のトラウマがあったからだ。
その緊迫した説明を聞いていたノイは、ふむふむとうなずきながらも、どこか呑気な表情で隣に転がるガルドの巨体をじっと見つめた。
「ふーん……。本物かどうか、確かめてみるか」
突然、ノイが悪戯っぽくニヤリと笑い、縛られているガルドの脇腹あたりを指先でチョキチョキと突き始めた。
「なっ……! てめっ、何をする気だ……っ! やめろ、くすぐったい……!!」
全身をガチガチに拘束され、魔力を封じられているガルドは、強面な巨漢からは想像もつかないような情けない笑い声を上げながら必死に身をよじらせた。
そのあまりのシュールな光景に、ノイはケラケラと楽しそうに声を上げて笑う。
「あははっ、めっちゃ効いてるじゃん! おいレイ、お前もやってみろよ、面白いから!」
ノイに誘われ、レイは「え、俺も……?」と戸惑いつつも、恐る恐るガルドの反対側の脇腹をつんつんっと突いてみた。
ガルドの体:クスクスッ……!
その瞬間、ガルドの身体の構造がぐにゃりと歪み、なんともう一組の腕がニュッと生えてきて、自分自身で脇腹を守ろうとバタバタともがいた。
計四本の腕で必死にくすぐりを防御しようとするガルドの姿は、先ほどまでの恐怖の巨漢の面影を完全に消し去っていた。
ノイはその様子を面白そうに眺めながら、満足げに手を叩いた。
「なーんだ、やっぱバッチリ実体じゃん! ……ふーん、やっぱりお前、すっかりあのロキとかいう野郎に捨てられたんだな。こんな無様な姿、あいつは絶対に見ちゃいねぇっての」
ノイが呆れたように再度トドメの一言を浴びせると、ガルドは四本の腕をがっくりと床に垂らし、恥辱と絶望にまみれて再びうなだれるのだった。
目の前で繰り広げられているあまりにもシュールな光景に、レイの胸のつかえがスッと消えていくのを感じた。
(……なんか、さっきまであんなに怖かったのに)
恐怖が和らいだレイの心に、ふと別の感情――いたずら心がむくむくと湧き上がってくる。
レイは懐から、レオンから10歳の誕生日に贈られた大切な写真機をスッと取り出した。
カシャッ!
静かな車内に、シャッター音が軽やかに響き渡る。
二本の腕をバタバタさせながらガタガタと震える巨漢の姿が、鮮やかに写真機のレンズに収められた。
レイはニヤリと不敵な笑みを浮かべ、満面の笑みでガルドに言い放った。
「いやぁ、こんな羞恥の姿を写真に撮られちまってさ……あんた、本当に可哀想だな」
精神的ダメージまで完璧に抉り取るような少年の容赦ない一言。
プライドをボキボキにへし折られたガルドのHP(精神力)は、すでに完全に底をついていた。
――この瞬間、ガルドのライフはもうゼロだった。




