第70話 恩人との再会、新たな暮らし
聖都での張り詰めた空気を背に受け、ヘリオスがたどり着いたのは、穏やかな風が吹き抜けるミーナの家だった。
遠征の過酷な戦い、ロキとの死闘、そして仲間たちとの束の間の別れ――それらの激動の時間を経て、彼はようやく、自分が最も守りたかった日常の温もりへと帰ってきたのだ。
扉を開けた瞬間、飛び込んできたのは小さな人影だった。
「――お兄ちゃん……っ!」
そう叫びながら、マニーは全速力でヘリオスの胸元に飛び込んできた。その小さな身体はわずかに震えており、無事に帰ってきてくれたことへの安心感と、どこか不安が入り混じった切なさがひしひしと伝わってくる。ヘリオスは愛おしそうにその小さな背中を優しく抱きしめ、無事に生還できたことを全身で噛み締めた。
そして、そのすぐ後ろから、少し遅れてミーナがゆっくりと歩いてきた。
彼女の瞳には、あふれそうになる涙がたっぷりと溜まっていた。しかし、ミーナは泣き虫なところを見まいと必死に唇を噛み締め、涙を無理やり我慢するかのように顔をくしゃっと歪めながら、震える声でこう告げた。
「……おかえり、ヘリオス……!」
こらえきれずにつたった一筋の涙が頬を伝ったが、その表情にはこれ以上ないほどの安堵の笑顔が咲いていた。
兄の帰りを信じ、健気に待ち続けてくれた家族の元へと、ヘリオスは本当に帰ってきたのだ。こうして、ヘリオス、ミーナ、マニーの3人は再び一緒になり、穏やかで温かい日常の時間を共有し始めたのだった。
黒曜の谷での激闘からしばらくの日数が流れ、ヘリオスは心身の疲労を完全に癒やしていた。
ある日の夕げの席、ヘリオスはふと、静かな決意を込めて二人にこう切り出した。
「ねえ、ミーナ、マニー。少し遠くになるけれど……行きたい場所があるんだ」
「行きたい場所……?」
首をかしげるミーナとマニーに、ヘリオスは懐かしそうに目を細めて語り始めた。
「僕たちが今身につけているこの服をくれた人たちがいるんだ。以前、人里離れた村に住んでいる老夫婦の下へ行っただろう? あの二人にお礼を言いたいし、今の僕たちの姿を見せに行きたいんだよ」
ヘリオスのその言葉を聞いた瞬間、マニーはパッと顔を輝かせた。
「行く! マニーも絶対に行く! あの時のおじいちゃんとおばあちゃん、すごく優しかったもん!」
マニーの賛成に続き、ミーナも嬉しそうに微笑みながらうなずいた。
「私も、もちろん行きたい。ヘリオスを……ううん、私たちを助けてくれた人たちだもの。一緒にお礼を伝えに行きましょう」
こうして、ヘリオス一人ではなく、3人揃ってあの懐かしい村へ向かうことが決まったのだった。
旅立ちの準備を整え、穏やかな陽気の中、3人はかつて自分たちが歩いた道を再び一歩ずつ踏みしめながら、老夫婦の暮らす村へと歩み出した。
それから、およそ一ヶ月の月日が流れた。
険しい山道を抜け、豊かな緑に囲まれた静かな街道を進んでいくと、ようやく見覚えのある景色が視界に広がってきた。
「あ……! あの畑、見覚えがあるよ!」
マニーが声を弾ませながら指を差したその先には、広大な畑仕事に精を出す村人たちの姿があった。
さらに近づいていくと、農作業の手を止め、穏やかな笑顔で土をいじっている老夫婦の姿がはっきりと見えてきた。それは紛れもなく、かつて途方に暮れていたヘリオスとマニーに温かな食事を与え、この世界の行き先を示してくれたあの恩人たちだった。
「おじいちゃん……! おばあちゃん……!」
マニーが嬉しさのあまり走り出し、ヘリオスとミーナも笑顔を浮かべてその後を追う。
足音に気づいた老夫婦がゆっくりと顔を上げ、近づいてくる3人の姿を認めた。その瞬間、老夫婦の目を見張った瞳が、みるみるうちに驚きと深い歓喜の色へと変わっていく。
「おや……お前たちは……っ!」
しばらくぶりに見るヘリオスとマニーの姿。以前よりも少し大人びて、しかしあの時と変わらない優しい眼差しをした二人の成長した姿を目の当たりにし、老夫婦はこらえきれずにとろりとした涙を大粒に零した。
「よく……よく帰ってきたねぇ……! 無事だったんだねぇ……!」
おばあちゃんは手にしていた農具をそっと落とし、しわの刻まれた手で自分の顔を覆いながら、とめどなくあふれる涙をぬぐった。おじいちゃんもまた、あふれる感情を抑えきれずに力強くうなずきながら、二人の頭を優しく撫でるように手を差し伸べた。
「遠いところを、よくぞここまで無事で戻ってきてくれた。お前たちが元気な姿を見せてくれただけで、わしらはもう十分すぎるほど嬉しいよ……」
懐かしい温もりに包まれながら、ヘリオスたちは深く頭を下げて感謝の言葉を伝えた。
しかし、その最中、おじいちゃんはふと気づいたように首をかしげ、優しい笑みを浮かべながらこう言った。
「そういえば……お前たち、あの時はいろんな事情があってバタバタしていたから、肝心な名前を聞きそびれていたんじゃよ。今度こそは、ちゃんと知っておきたいと思ってね」
おばあちゃんも、ほう、と相槌を打ちながら優しい瞳でヘリオスとマニーを見つめる。
「そうだねぇ。いつでもお前たちのことを思い出せるように、今度こそ二人の名前を教えておくれ」
その言葉に、ヘリオスはふっと柔らかな笑みを浮かべ、傍らに立つ女性に視線を向けながら胸を張って答えた。
「はい。僕はヘリオスです。そして、この子は妹のマニーで……こちらは、僕の幼馴染のミーナです」
名前と関係性を告げた瞬間、老夫婦の顔に一層深い温もりの笑顔が広がり、穏やかな村の空気が優しく三人を取り囲むのだった。
ヘリオスがハッキリとそう告げると、老夫婦はふむふむと優しくうなずき、それからしわの刻まれた目を細めて、並んで立つヘリオスとミーナをじっと見つめ直した。
しばらく二人の顔や、寄り添う様子を眺めていたおじいちゃんは、何かを思いついたように急に破顔し、お腹を抱えるようにして声を上げて笑い出した。
「おや、そうかい! 幼馴染かぁ!」
おばあちゃんも、おじいちゃんの意図を察したのか、クスクスと上品に笑いながら口元に手を当てる。
「いやぁ、すっかり見違えたからねぇ。すっきりと頼もしくなったヘリオス君の横に、こんなに可愛らしいお嬢さんが寄り添っているもんだから、すっかりてっきり……ねぇ?」
おじいちゃんが面白がるようにポンと手を叩き、満面の笑みでこう続けた。
「わしらはてっきり、二人はいい仲――つまり、婚約者だと思ったよ!」
その言葉が投げかけられた瞬間、静かな村の空気がフッと変わった。
「こ、婚約者……っ!? な、何を言ってるんですかっ、おじいちゃん!」
ヘリオスの顔から一瞬で血の気が引いたかと思うと、次の瞬間には耳の先までカッと真っ赤に染まった。あまりの突然の言葉にどう反応していいか分からず、彼は慌てて両手をブンブンと横に振る。
隣に立っていたミーナの動揺は、それ以上だった。
「なっ……! ち、違います、そんなんじゃ……っ!」
ミーナもまた、トマトのように顔を真っ赤に染め上げ、恥ずかしさのあまり俯いてしまった。トントンと足元を見つめたまま、両手で自分の熱を持った頬を必死に押さえる。幼馴染という関係ゆえに、お互いを大切に想い合ってはいるものの、こうして真っ向から「婚約者」などと言われてしまっては、恥ずかしさでその場にしゃがみ込みたい心境だった。
赤面して視線を泳がせるヘリオスと、すっかり顔を覆って俯いてしまったミーナ。
そのあまりにも分かりやすい二人の反応を見て、周囲にいた村の人々や老夫婦は、さらに楽しそうに目を細めて笑い声を大きくした。
そんな照れくさい空気を一番の特等席で眺めていたのは、もちろんマニーだった。
「あははっ! お兄ちゃん、顔がまっかっかだよ! ミーナ姉ちゃんも、茹でダコみたい!」
マニーは両手を腰に当て、お腹を抱えてケラケラと楽しそうに笑いながら、二人をこれでもかと茶化し立てる。
「もう、マニー……っ! 茶化さないでよ……!」
ミーナが真っ赤な顔のまま恥ずかしそうにマニーを窘めるが、マニーはますます面白そうにニヤニヤと笑うばかりだ。
かつて途方に暮れてたどり着いたこの場所で、まさかこんな微笑ましい冷やかしを受けることになろうとは――。
張り詰めていた旅の疲れやこれまでの緊張も、この温かな笑い声の中にすっきりと溶けていくようだった。
真っ赤になった顔を隠すように俯くヘリオスとミーナ、そしてそれを楽しそうに茶化すマニー。
老夫婦の優しさに包まれた温かな時間は、どこまでも穏やかに流れていくのだった。
賑やかな笑い声がひとしきり落ち着いたあと、おじいちゃんは温かな目を細めながら、ヘリオスたちに優しく問いかけた。
「それで、お前たちはこれからどうするのかね? またすぐに遠くへ旅立ってしまうのかい?」
その質問に、ヘリオスは迷うことなく、しっかりと首を横に振った。
「ううん、もう当分の間はどこへも行かないよ。……これからは、この村で、おじいちゃんたちと一緒に暮らします」
その言葉に、ミーナとマニーもパッと顔を輝かせ、力強くうなずいた。
「うん! マニーもずっとここにいたい!」
「私も、賛成よ。ヘリオスと一緒に、ここで静かに暮らせたらいいなって思ってたから……」
驚いた顔を見せたあと、老夫婦は満面の笑みを浮かべ、まるで本当の孫を迎えるかのように嬉しそうに目尻を下げた。
「そうかい、そうかい! それはありがたい。この家も広かったし、若い者が増えるだけで一気に賑やかになって嬉しいねぇ」
歓迎の言葉に胸をなでおろしたヘリオスだったが、ふと隣に立つミーナの顔を見て、何かを思い出したように首をかしげた。
「そういえば……ミーナ、一つ気になっていたんだけどさ。聖都の大学のほうは大丈夫なのかい? 僕が遠征で長く家を空けていた間、ずっと聖都に残ってもらっていたけれど……」
ヘリオスのその心配そうな問いかけに、ミーナはクスッと小さく微笑み、誇らしげに胸を張ってみせた。
「ふふっ、心配いらないわよ。もう全部終わらせてあるから。ヘリオスが旅に出ている間、私はずっと聖都に残って、マニーの面倒を見ながら勉強を続けていたし……実は、無事に大学を卒業したの!」
「えっ、本当かい……!? 留守を任せっきりだったのに、いつの間に……」
ヘリオスが驚きのあまり目を丸くすると、ミーナは少し照れくさそうに頬を染めて笑った。
「いろいろ大変だったけど、無事に卒業証書も受け取ってきたわ。だから、これからはもう何の心配もいらないのよ」
彼女の努力を聞いたヘリオスは、感心したように深くうなずき、胸のつかえが取れたような清々しい笑みを浮かべた。
こうして、ヘリオス、ミーナ、マニーの3人は、かつて自分たちを救ってくれた老夫婦の家へと身を寄せ、一緒に暮らすことになった。
大陸を揺るがした激闘の日々も、ロキの行方や未来への不安も、この穏やかな村の温かな空気の中では遠い出来事のように感じられた。
かつての過酷な旅を経て、ようやくたどり着いた場所で、3人はかけがえのない、穏やかで平穏な日々を心ゆくまで過ごしていくのだった。




