八十一話―ファウスト
犯されながらアントンという名を騙る女は叫ぶ。
「余は一ドイツ人なり! 余はドイツ人なることに随喜の涙を流さん!」(フリードリヒ・フォン・シュトルベルク)
本当の名前はアントンじゃない。
本当の名前は―『アナ、西で待ってる……!』。
「青年の頃から私は、二つの理想を抱きつづけた。一つは自由にして単一のドイツであり、いま一つは働く民衆の解放すなわち階級支配の廃絶である!」(ヴィルヘム・リープクネヒト)
アナの父はナチス党員だった。
1960年5月、ナチス狩りから逃れる為、一家は偽造パスポートによって、西ドイツへの逃走を図る。
「ドイツ語が響き、天上の神がドイツ楽曲を歌うところすべて、これがドイツ人の祖国であるべきだ!」(エルンスト・モーリッツ・アルント)
アナに用意されたのは、18歳の少年のパスポート。
『良いかい? しっかり服を着込んで、口を利いちゃいけないよ。家族みんなで西で暮らすんだ』
「Wir sind das volk!」(われわれが人民だ!)
家族は西に行く境界線を越えた。
「Deutschland einig Vaterland!」(ドイツはひとつの祖国!)
最後のアナを見つめて、管理官は問うた。
『アントン?』
「Deutschland einig Vaterland!」(ドイツはひとつの祖国!)
彼が眉を顰めた瞬間、後ろのもう一人がアナを思いっきり突き飛ばした。
『きゃあッ』
「Deutschland einig Vaterland!」(ドイツはひとつの祖国!)
悲鳴を聞いた管理官は言った。
『男装した女だ。入国を許可できない』
「Wir sind ein Volk!」(われわれはひとつの民族!)
1961年8月ベルリンの壁を乗り越えようとしたアナは、ソ連軍によって射殺される。
「wir wollen raus……」(われわれは出て行きたい)
ブスッ。
妙に鈍い音と共に、アナの腹に今までより激しく血が飛び散った。
伸し掛かっていた幾之助が、ゆっくりと倒れていった。
アナは呼吸が上手くできず、ただ涙に濡れた瞳で隣にゆっくりと倒れていく幾之助を見た。
その後ろに人が居るのにようやく気付いた。
「いい加減にしなさいよ」
そこに居たのは大柄な筋肉質の男だったが、口調は女のものだった。
幾之助を刺したのであろう、大型のナイフは血に濡れていた。
「誰……です……邪魔をする……な」
幾之助が息も絶え絶えに言う背を、その男は踏みつけた。
「アンタ、オカマなめんじゃないわよ。アンタを同じ目に遭わせてやっても良いんだからね」
短く刈り上げた頭を振り返って、幾之助は犬歯を笑みに剥いた。
「ふ……ふふ……スペイン軍特殊部隊隊長じゃないですか……」
「だったらどうなの? また穴増やされて突っ込まれたい訳?」
がくがくと体が上手く動かない。
スペイン軍特殊部隊隊長、パブロ・ロハス・エスペホ。接近戦のスペシャリストであり、最も特技とするものは暗殺。
彼の情報が頭をぼんやりと行き来する。
「いいえ、ここまで心を折ってしまえば、もう彼女はウラジーミル大尉を追わない……」
そして、幾之助は言った。
「アントンさん、貴女に言いたい事がある」
アントンは答えない。
しかし、幾之助は告げた。
「留まれ、いかにもお前は美しい」
そのまま、ふらふらと幾之助は体を起こし、歩き出した。
「待ちな!」
パブロの声にも振り返らず、幾之助は逃亡し始める。
「パブロ……さん……」
アントンの声に、パブロは慌ててそちらに顔を向けた。
「無理するもんじゃないわ」
「ベルリンへ……」
「え?」
パブロの声が焦る。
「ラースローが……壁を爆破しているはず……」
ヴァルハラのベルリンの壁は、東西ドイツを現世より分厚く分担し、丸っきり向こうの様子が分からない堅牢さだ。
「あのね、壁が壊れてるとは限らないし、貴女には休息が必要だわ」
パブロの声をかき消すように、アナは絶叫した。
「wir wollen raus!」(われわれは出て行きたい!)
パブロが怯んだ仕草をした後、溜息を吐く。
「なんでアンタ達みたいな……傷ついてばかりの女がこの世に居るのかしら」
そして、脳裏に浮かんだ女と重ねながら、パブロは呟く。
「あたしがアンタを助けた……いえ……助けるには遅すぎたけどとにかく……はね……アンタと同じ目に遭って人生が狂った女が身近にいるのよ」
そして、ごつごつした手を差し出した。
「それでもアンタ達は向かうのね。分かったわ、あたしには止められない。ただ、そのラースローという男に連絡させて。彼が絶対必要になるの」
アナがぼそぼそと呟く通信の番号を、耳で覚える。
「行きましょう。あたしには止められない」
自分の着ていたコートをかける、血とそれ以外のもので汚れた。
民衆を食い止めるだけで、ウラジーミルの全力は消費された。
彼は民衆の前に、自動車や電柱といった、重量物を投げ続け、どうにか壁に近づけないようにするだけで手一杯だった。
否。
それができたというだけで、彼は十分に称賛に値するだろう。
しかし、ラースローを止める事はできなかった。
ラースローは、壁の目の前で、馬を出現させた。
突然、地上に馬が降り立ったのである。
そして、その馬に飛び乗ると、彼は壁に突進し、そして、壁の直前で、思いっきり飛び降りた。
馬はそのまま壁に突進し、体当たりと共に爆発した。
ラースローの能力、騎馬型爆弾。
それは確かに壁に大穴を空けたのだ。
(参考文献:ドイツ国民とナショナリズム 1770‐1990 オットー・ダン著 末川清 高橋秀寿 姫岡とし子訳 名古屋大学出版会)




