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ヘヴンズ・ドアー  作者: 浮草堂美奈
第九章 ベルリンの壁編
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八十話―マンリー

 追うか?

 ウラジーミルは、走り去るアントンと幾之助を見て、一瞬逡巡した。

 しかし、一瞬しかしなかった。

 ベルリンの壁の方で起こった爆発音に、そちらを優先すべきと踏んだのだ。

 彼の任務は壁の死守である。

 途中で拾った荷物おんなを脇に置き、ウラジーミルは走り出した。

 あちこちで民衆の声がする。

「壁が崩壊する!」

「壁が崩壊する!」

「壁が崩壊するぞ!」

 走りながら通信のイヤホンを耳に入れる。

「将軍、ベルリンの壁付近で爆発です」

 イヤホンの向こう。モスクワに居るKGB最高責任者は冷静に、落ち着いた声で命じた。

『パニックを壁に近づけちゃいけないよ。ベルリンの壁は、東ドイツの希望なんだ」

「Да(ダー)」

 民衆の声は歓喜に昂り始めた。

「壁が崩壊する!」


 幾之助とアントンは、ベルリンを走り抜け、ポーランドとの国境沿いの、製鉄所の町アイゼンヒュッテンシュタットの、中心地に飛び込んだ。

 そこはのんびりとした公園に見えていたが、巨大な労働者を象徴する壁画が、此処もDDRなのだと思い知らせる。

 壁画に描かれているのは、大きな掌、鳩、そして東ドイツ、ポーランド、ソビエトの国旗。

 その、掌の皺をなぞる様に、アントンは飛び降りた。

 下はコンクリートで固められている。

 そこに、固いブーツが降り立つ。

「貴方は何者です?」

 幾之助は答えず、斬撃を繰り出した。

 アントンの対応はベンチだった。

 斜め袈裟斬りに、ベンチを浮かせてぶつけたのである。

 幾之助は躊躇わず、ベンチを袈裟斬りにした。

 重たい木製のベンチが、バターでも切るように、ずばん、と割れた。

 アントンはまた空を駆け、地に降り立つ。路上駐車の自動車に触れる。

 ベンチが袈裟斬りにしている背後を、自動車が襲った。

 幾之助は轢き潰される直前に、上に跳んだ。

 ボンネットの上に飛び降りた幾之助を乗せた儘、自動車はベンチを撥ねた。

 そこで幾之助は息を飲んだ。

 ボンネットの更に上から、もう一つのベンチが落下してきたのである。

 疾走する車の上でバランスを取れる訳がない。

 幾之助はあっけなくベンチの下敷きになった。

 骨が圧し折れる音を自分で聞いた。

 しかし、ベンチは更に”降りて”来た。

 幾之助の体は、ベンチの下敷きになったまま、車にめり込んでいった。

 メキメキメキメキ

 嗚呼、これは私の体が潰れる音だ。

 幾之助はそれを自覚した。

 しかし、恐怖は無かった。

「貴方は何者です?」

 アントンが自動車の前に立った。

 幾之助は答える頃合いと判断した。

「日本武士団、飯塚幾之助」

 言葉を発すると同時に、口から血を吐き出す。

 恐らく、胃に穴のようなものが空いているのだろう。食道もかもしれない。

「何故、日本人が邪魔をするのですか?」

 幾之助は血をごぶと吐きながら答えた。

「貴方なら、ワロージャに……ウラジーミル大尉に勝てるかもしれないからですよ」

「日本とソ連は同盟関係に無いはずだ」

 幾之助は笑った。

 口を真っ赤にして、笑い声を上げた。

 その笑い顔は、標的を目の前にしたストーカーに似ていた。

「貴方は私とウラジーミルの関係を知らない」

「貴方はスパイなのですか?」

 笑い声と同時に血が飛び散るのも、幾之助は気にしない。アントンはそれに冷静になろうとしているが、不気味さに冷や汗が零れたのを、幾之助は確かに見た。

「良いですか。国家なんてものはね、便利なものですが、別に躍起になる必要はないのです。それより、目の前に強い雄がいるじゃないですか。ソ連最強、KGBのウラジーミル大尉という強い雄がいるじゃないですか」

 アントンは、動かない。剣鬼は笑い続ける。ボンネットに赤が飛び散る。

「私は雄です。より強い雄を噛み砕き、噛み千切り、骨まで貪ってやりたいという欲望は当然の事ではないですか。あれは私の肉です。あの雄は私の肉です。私が食らいつくべき肉です。他の誰にも渡してはならない、愛しい肉です。それをですねえ」

 アントンは息を呑んだ。

 幾之助の左腕は、間違いなくひしゃげていた。

 すなわち、幾之助は右手一本で。

 300キロ近くあるベンチを撥ね飛ばしたのである。

 しかし、アントンが驚愕したのはそれではない。

 飯塚幾之助が発した言葉だ。

「私の雄だ。貴女のような雌が彼に勝つなんて、あってはならない」

 幾之助は、車から、アントンの体の上に飛び降りた。

 そして、力任せにコートのボタンを引きちぎった。

 その下の白いシャツをびりびりに引裂いた。

 そこには小ぶりな乳房があった。

 アントンは悲鳴を上げた。

 それは、確実に女のものであった。

「貴女の能力は、重力を操るものでしょう」

 アントンは覆いかぶさる幾之助を押しのけようともがいた。

「しかし、制限がある。貴女は自分が触れた物の重力しか操れない」

 幾之助の右手がアントンの白い肌に食い込む。べっとりと血の手形が締め上げる。

「そして、自分以外の人間の体には、重力操作を使用できない。使えたならば、今頃私を撥ね飛ばしているはずだ」

 アントンの腹部を、幾之助の右手が押さえる。彼女は酷く暴れる。アントンの腹部は、腰骨が僅かに浮いた真っ白い女の腹部だ。

 幾之助がスラックスに手をかけた瞬間、アントンは絶叫した。

「やめてえッ」

 幾之助は執念に染まった笑顔で告げた。

「貴女のような女は、入念に心を折らねばならない」

 スラックスが引裂かれた。

 アントンの滲んだ視界に、壁画の掌にとまった鳩が見えた。

 鳩の瞳は笑っていた。


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