七十九話―ダンス
12月のベルリンの寒気を、旋風のようにアントンの心が突っ切っていく。
「さあ! ウラジーミル大尉!」
アントンが飛び乗ったのは10トントラック!
壁に向う喧噪の前に居るウラジーミル。
10トントラックの位置は、木製の小屋を二つ挟んで200メートル、
トラックの運転座席の箱の上で、分厚いコートが翻る。
アントンが居るのはあくまで運転席ではない。その屋根の上だ。
それにも拘わらず、トラックは急激に発進した。
ウラジーミルは気付いていない。
群衆に溶け込むようにしている。
ごく自然な仕草で通信機を取りだそうとしている。
周囲の人々は気付かない。
ベルリンの広場はカリーブルストやクレープを買い求める人々がいた。
しかし、小屋に隔たれて見えないトラックに気付く人間など誰もいない。
何故なら、エンジン音を発しておらず、車輪も回っていないのだから!
「」Jetzt geht's los!」(いきますよ!)
アントンの掛け声と同時に、更に異常な事が起こった。
トラックが勢いよく上昇したのだ。
飛行機ですら滑走路が必要だというのに、10トントラックは何の準備運動も必要とせず、アントンを屋根に乗せた儘、勢いよく空を駆け上がったのである!
風を切る感覚に、アントンは胸を躍らせた。
びゅうびゅうと耳元を通り抜けるのは、まさしくソ連の番犬を屠る悪魔の嘶きの風音であった。
木製の小屋の屋根に車輪がぶつかった。
小屋はひしゃげて、屋根は丸ごと木端微塵に吹き飛んだ。
アントンはその小屋の中の鉄製の枠を確認した。
物置小屋に偽装されていたが、中は鉄で囲われた、ソ連の監視施設であった。
分厚い鉄は無残に曲がり、カラシニコフなどの銃がむき出しで空から見えた。
「さあ! 大尉! 悪魔と踊りましょう!」
もう一つの屋根の向こう、ウラジーミルは目前にいた。
上空から襲ってくるトラック。
しかも先日のバスの何倍もの重量。
仕留められる!
アントンのは犬歯を見せて笑った。
灰色の男が潰れる!
その直前であった。
アントンは大きく身を引いた。
トラックに座るようにしていた体を離したどころか、宙に投げ出したのだ。
それはまさに本能であった。
ただ、その場に居たら死ぬと感じ取った、戦士としての経験からくるカンだ。
反動で吹き飛ぶようになったアントンは、空中で体勢を立て直した。
そして、ギリっと歯を食いしばった。
ウラジーミルを押しつぶすはずだったトラックが、真っ二つに割られたのだ!
その割られた面が切断面であると、アントンは認識した。
10トントラックを一刀両断した者がいる!
即座にアントンは結論を出す。
ウラジーミルの能力ではない。
何者か、伏兵がいる。
空中のアントンは、一人の男を捉えた。
捉えるのに努力は必要なかった。
その男は両断されたトラックの中心にいた上
袴姿の和服だったのである!
「誰だ!」
アントンは空中から声を上げた。
群衆は轟音を上げて落ちたトラックに悲鳴を上げて、前回のバスとウラジーミルが闘った時のように、悲鳴を上げて逃げ始めた。
アントンに意外だったのは、ウラジーミルも驚いたように目を見開いていた事だ。
上空からのトラック襲撃に驚いたというより、その和服の男の出現に驚いたとしか思えなかった。
「貴様……」
ウラジーミルを振り返らず、その黒髪黒目の男は言った。
「飯塚幾之助と申します。貴方は、私と」
男が日本刀を振り上げた。
そして、軽い動きでアントンに向って監視小屋の小屋の残骸を駆け上がり、
「踊りましょう!」
握りしめた秋水を振り下ろした!
速い!
アントンの移動はギリギリとなった。
目の前を日本刀が斬り裂いた感触が確かにあったのだ!
空気が両断された。
さっきのトラックも両断された。
刃が当たれば、アントンも両断されるだろう。
目の前に死が見えた。
しかし、それはアントンに取って、テロを始めた時からあまりに身近なものだったので
「良いでしょう……!」
即座に幾之助に自分を追わせて、その場を離脱するという冷静な判断は可能。
この二人を同時に相手にするより、この飯塚幾之助という男を殺してから、ウラジーミルを殺す方が確実。
「光栄の至り! ワロージャ!(ウラジーミルの愛称)戴きましたよ!」
広場から離れるように、空を舞うアントンの後を、幾之助は追う。
アントンの勝算も知らずに追う。
離れた、ベルリンの壁の付近で爆発音が上がる。
続け様の異常事態に、群衆は悲鳴を上げて逃げ惑い、とにかく壁から離れようとする者と、とにかく壁に向おうとする者で、体をぶつけあった。
壁の方から走って来た、痩せた女が転ぶ。
それを多数の男達の、とにかく走りたい足が踏みつけようとする。
女は悲鳴を上げて体を蹲らせる。
しかし、想像した痛みは来なかった。
女がぎゅっと瞑った目を開いた時、パニックの群衆と僅かに離れた木陰に、彼女は置かれていた。
退避のさせ方は、まさに置かれるという表現が正しかったが。
女は、群衆をかき分けてベルリンの壁に向い、走る灰色の髪の男を見た。
また、爆発音が轟いた。
体に染み入るその音に、女はぽつんと呟いた。
それはヴァルハラに来てから、ずっと願い続けていた事。
「壁が……崩壊する……?」
東西統一後に生まれた女は、崩壊を身をもっては知らない。
ただ、灰色の男が視界から消えてからも、スカートを抱えてその場に蹲っていた。
「壁が……崩壊する!」
その予感があれば、また踏み殺されかけようとも、その場を離れる事はできなかった。
スカートを握る指に力は入り続ける。
膨れ上げる怒声と悲鳴の中、女は呟き続けた。
「壁が崩壊する! 壁が崩壊する! 壁が崩壊する!」




