三十八話―人魚のこえ
「ウラジーミル大尉が最後に通信をした地域の電力が途切れました。今後の通信は不可能です」
KGBの長官、通称将軍がまなじりを下げる。
「ウラジーミル君、今度は何を壊したのかなー。まあ、日本のものだし、いいよねー」
くるくると座ったまま椅子を回す将軍に、局員の緊張が増した。怒っている。確実に。
「抗議が入った場合、如何致しますか?」
子供の遊びのように、椅子は回り続ける。
「入るよねー。たぶんねー。うちじゃないってごり押しして」
「え、しかし」
「ご・り・押・し・して?」
将軍の全く笑っていない目に、局員は黙って書類にそう記した。
ヘヴンズ・ドアー、それはヴァルハラへの門。
人の仲介者。
そして、仲介したものは見届ける義務が発生する場所。
「エミリー、急ぐよろし。早くしないとかたがついちまうある」
「オーライ、飛ばすぜえ」
軽い口笛。エンジンが唸りを上げる。
「和泉さん、大丈夫でしょうか」
「ソ連は戦士の和泉を欲している。命の別状はない」
「いえ、それより――なのですジャックさん」
依子の言葉が遮られる。
「おっし見えたぜ!」
エンジンが止まる。
車から飛び出すヘヴンズ・ドアーの面々。駆ける船着き場。そこでは、アールネがマスケットを構えたところだった。
「和泉君。君の狙いは分かったよ。ただ、それはあまり良くない手口だね」
「……」
和泉の頭が項垂れる。良い事をしているとは思っていなかったが、それを叱られるのはやはり辛い。
「わしにも君と同じ年頃の娘が居てね。まあ、大概アホだけど、嘘はつかないように言っているんだ」
向けられるマスケット。
「連れて帰ったら、たっぷりお説教だよ」
発砲。
クリスティーナはとっさに剣で受ける。半身の大きさの剣は凍って、軽い音を立て砕けた。とっさに剣を投げ捨て、凍傷を防ぐ。
その瞬間、幾之助が素早く駆け寄り、横なぎに払う。
獣の動きで飛びのき、回転して、後方の岩の上に降りた。その岩が蹴り飛ばされた。ウラジーミルだ。1トンはあるだろう岩が空を舞う。
「うわっ」
岩ごと海に落ちる身体。空中を舞う岩。
「姉さん!」
その手が掴まれ、空中から引き寄せられる。
「ハインリヒ!」
飛び出した筋肉質な大男。金髪と青い目がクリスティーナと同じ。
「ドイツ騎士団副団長、お久しぶりです」
姉の後を追ってきたハインリヒは、間一髪と息を吐く。
「久しぶりだな。幾之助。先日は世話になった」
「こちらこそ。さて、申し訳ありませんが」
振りかぶられる刀。
「死んでいただけませんか」
片手にぶら下げた姉に叫ぶ。
「姉さん! 罪の咆哮だ!」
「Ja!」
クリスティーナが吠える。ドイツ騎士団団長、クリスティーナの罪の咆哮、体力の驚異的増強!
ハインリヒの体に狼の毛が生えはじめる。同時に、筋肉が膨れ上がる。
そのまま、ハインリヒは自分が飛び出した草むらに姉を投げた。
そしてまた叫ぶ。
「姉さん! 剣を!」
鳴る風切音。その身の丈ほどの巨大な剣を、ハインリヒは受け止めた。なおかつ両手に一本ずつ構えた。
「へえ、姉ちゃんに助っ人か。その剣、どれくらい重てえんだよ?」
イェンセンに剣を向け、厳しい目つきで答える。
「一本2トン! そして助っ人ではない。姉さんの話をきちんと聞かなかった後悔を晴らしに来ただけだ」
クリスティーナが飛び跳ねて、ハインリヒの元に戻る。
「鉄血のラインバッハ姉弟、いざ参る!」
重厚な騎士の存在感が放たれ、空気が震えた。
即座にウラジーミルに振り下ろされる双剣。両端を握った特殊警棒で受けるウラジーミル。その足元のコンクリートに罅が入る。拮抗する力はお互いに身動きを許さない。
「得もしねえのに」
イェンセンの口に注がれる酒。
「同感です」
火が吹かれる前に突進する幾之助。
その目の前の地面が、凍る。
アールネのマスケットの仕業だ。
状況は完全に乱戦。立ち止まった幾之助を狙うクリスティーナの爪が、紙一重でかわされる。頬にかすった風圧で傷ができる。
「お兄様!」
ようやく乱戦の中に入った依子が叫ぶ。戦闘のすさまじさに入れなかったのだ。
「依子! 加わらないのなら離れなさい!」
「いえ、後ろに! 私共の後ろに!」
必死の訴えに、全員がそちらを向く。そして、動きが止まる。
痩せた、堅気には見えない男。
阪口が立っていた。
汚いものばかり見て生きてきた。
ドブの腐った町で生まれ、ドブの腐った町で生きた。
ドブの腐った町を少し離れると、とても綺麗な子供がいた。
ドブの腐った町に連れ帰った。
綺麗なものが、俺の目玉に映る日々が続いた。
汚い世界が、少しずつ――。
「近寄るなッ!」
とっさの叫びは的確だった。しかし、叶えられなかった。
阪口は和泉に走り寄り、和泉はそれを受け止め、そのまま
海に飛び込んだ。
静かに聞こえる歌声。涼しく、爽やかな声。
次の瞬間、起きる爆発。
水柱が海上に噴き上げる。
水しぶきはきらきらと舞い、美しく落ちていく。
無音の世界に響く、最後の人魚の歌。
それは、真っ赤に染まった水面にエコーしていた。
ジャックの頭に、阪口と和泉の記憶が流れ込んでくる。
つまり、二人は死んだ。
「OH……」
エミリーと紅玉も近寄り、赤い海を見つめる。
「あーーーーー! くっそ!」
イェンセンの嘆きが響く。国民を三度奪われた。一回目は誘拐。二回目は殺害。三回目は、たった今。国王としてこれほど悲憤慷慨することがあろうか。少なくとも、このあけっぴろげな王が絶叫するにふさわしい。
「和泉さん……」
俯く依子に、ジャックが問う。
「君は予想していたのか」
「少し……。和泉さんは、覚悟を持った目をしてらっしゃいましたから」
その向こうでは、クリスティーナが十字を切る。
「君たちの先にマリアの加護を」
祈りに組んだ手に、雫が落ちる。清廉潔白な彼女は、誰よりもショックを受けているのだろう。
「姉さん……」
小さく震える肩をハインリヒが抱き寄せるが、それは振りほどかれる。
「ハインリヒも祈りなさい」
拒絶のために振りほどかれたのではないと分かると、ハインリヒも手を組んだ。
「何も得るものがないですね」
幾之助はため息を付き、刀を仕舞う。
「いや、そうでもない」
アールネに、ウラジーミルが向き直る。
感傷に浸る気はない。それが凍てつく大地を見つめる番犬の精神。
「フィンランド元帥、貴様の命だけでも獲得させてもらう」
その絶対凍土の地に侵略されし国の元帥も、温くはない。
「娘の結婚式が控えてるんだ。KGBの命を手土産にするよ。だけど、わしには聞いておかねばならないことがある。和泉君にあの作戦を教えたのは誰かな? いや、彼が自分で考えたのなら、仕方ないと思うんだけどね」
一瞬、ぶれるヘヴンズ・ドアーの面々の瞳。
「君たちか。悪い子たちだ」
放たれる冷たい殺気。クリスティーナが慌てて叫ぶ。
「待ってくれ! 元はと言えば私のせいだ!」
アールネはその叫びを軽く無視した。
「いい子になるプレゼントをあげよう」
「いらねーよ!」
マスケットから索状が抜かれた瞬間、エミリーの銃が火を噴いた。
しかし、アールネは倒れなかった。それどころか傷一つない。当たっていない!
「エミリー!」
紅玉の鋭い声が飛んだ。




