掌という名の答え
握りかけの手がひらいていった。
◇
ひとつずつ。指の中で。
十何年、采配のために握り潰してきた拳だった。情けを握り込み、慈悲を握り込み、誰にも開いて見せず、ただ家を守るためだけに握りしめてきた手だった。つい先夜も、路頭に迷うと縋った男爵の猶予を、この手は握り潰した。一つずつ、指の中で。握る——それだけがこの手の知っている形だった。
その指がいま一本ずつ伸びていった。少年の業のほうへ。
顔は氷のままだった。眉ひとつ動かさない。まなざしは凍てついたまま。緩んだのは、指だけだった。冷たいまま、強いまま、ただ向きだけを変えて。
指の関節が軋んだ。節の奥で、骨が鈍く鳴った。十何年、握る形に固まった指だった。伸ばそうとするとこわばった筋が引き攣れる。爪が手のひらに彫り込んできた古い痕がひらくにつれて、白く、長く伸びた。
握り締めるより、ひらくほうがずっと力が要った。
掌が開いた。
◇
——流れ込んできた。
最初に来たのは、匂いだった。掘り返したばかりの底のほうの土の匂い。北から来た荷の匂い。トマの体から、最後まで消えなかったあの匂い。それが堰を切って、ひらいた掌から腕へと這い上がってきた。
匂いの次に来たのは、顔だった。
ひとりの女が子供の片方きりの靴を胸に押し当てて、北の街道を見ていた。すり減った小さな靴だった。息子は夜のうちに北へ歩いていった。呼ばれて。女はその靴を何年も胸に当てて、もう戻らないと知りながら、それでも街道の先を見つづけていた。アリシアの知らない女だった。会ったこともない。なのに、その悲しみが靴の重さごと、掌から流れ込んできた。
次の顔が来た。路頭に迷うと縋って、退けられた男爵。次の顔。期日に間に合わず、家を畳んだ商人。次の。また次の。——アリシアが切り捨て、見ないことにしてきた者たちの顔が顔の上に重なっていった。彼女が一つ握り潰すたびにこぼれ、地の底へ落ちて、低いここへ流れ着いていたその顔のすべてが。
そして——重さが来た。
顔の数だけ。匂いの数だけ。質量を持って、ひらいた掌から、腕を、肩を、背骨を、伝い落ちてきた。
これが業だった。
ことばではなかった。ひとつひとつに顔があり、匂いがあり、片方きりの靴があった。それを全部いっぺんに浴びて、たった一人で抱えて、少年は溺れていたのだ。——彼女が拾えずに捨ててきたものを、この子が代わりに拾っていた。
重みが肩から背骨を伝い、腰へ、膝の裏へと落ちた。膝が沈みかけた。足の裏が敷石にめり込み、爪先が割れた。
彼女は退かなかった。
歯を食いしばり、足を踏ん張り、沈みかけた背を、十何年この家を支えてきたその同じ強さで押し返した。迎えた。こらえた。また来た。また受けた。摘み取りはしない。終わらせもしない。ただ、器として。来るものを受け、こらえ、また受けた。——かつて決戦の夜、八人が生身で闇を受け止めたように。ブルーノが割れた拳で。マルコが裂けた背で。いま、彼女がひらいた掌で。
額に汗が浮き、こめかみを伝って、灰の上に落ちた。腕が小刻みに震えた。それでも掌は、ひらいたまま閉じなかった。来るものを、ひとつ残らず。
◇
痩せた、幼い顔が彼女を見上げた。
頬はこけ、血の気のない唇は薄くひらいていた。目の下に拾いすぎた者の昏い隈。——子供の顔だった。世界じゅうの痛みを浴びつづけてなお、まだ子供の。
その目が初めて業でないものを映していた。
聖女は言った。アリシアは生まれつき拾う側として生まれた、と。視えて、嗅げて、届いてしまう側として。——この子も、同じだった。同じ生まれの、けれど鎧を持たなかった子。アリシアが面の下へ封じてきたものを、この子は封じられず、ただ浴びつづけていた。
誰も、こんなふうに触れてはこなかった。みな、この子から逃げた。討とうとした。手を伸ばしてきた者なら、いた。だがそれは、業を奪うため。利用するため。——迎えに来た手は、ひとつも、なかった。業でないものがこの子に届いたのは、生まれて、初めてだった。
少年の唇が震えた。声にはならなかった。ただ、その目がまっすぐ彼女を見ていた。
震える唇の端から、細い息が漏れた。その目のふちで、何かが盛り上がり、光った。
少年の目から、黒い涙が零れた。
◇
業の色をした、涙だった。
拾いすぎて、溜め込みすぎて、自分の悲しみと人の業の境さえ分からなくなっていた少年の、いちばん奥から滲み出たものだった。黒く、重く。——けれど、涙だった。初めて受け止められた者の、零れるよりほかなかった一滴。
黒い涙が頬を伝い、顎の先から、灰の上に落ちた。
落ちて——灰になった。
燃え尽きたのではない。消えたのでもない。抱えきれずに荒れ狂っていたものが受け止められ、行き場を得て、静かに降りていった。ひと粒。また、ひと粒。少年の目から黒い涙が落ちるたびにそれは灰になって、彼の足もとに降り積もっていった。
少年は、業を負う者のままだった。
涙が涸れても、拾う質は消えない。世界の痛みを浴びる宿命も、何ひとつ無くなりはしない。明日も、この子は拾うだろう。——ただ、ひとりでは、なくなった。それだけ。荒れ狂っていた蒼い闇が彼の周りで、ゆっくりと凪いでいった。
討ったのではない。終わらせたのでもない。受け止めた。——ただ、それだけのことが十何年できなかったのだ。誰にも。この子にも。自分にも。
少しはなれて、ノエラが目を伏せた。自分の輪郭がなぜかいま、ほんの少しだけ濃くなった気がして。なにかが満ちて降りたのを、知らぬまま感じて。——さらに遠く灰の積もる庭の縁で、あの聖女がそれを見ていた。何も言わず、何もせず。ただ、長く待たれていたものがいま一つ満ちるのを、見届けるために。
◇
そのとき、彼女の両の手がほのかに灯った。
左の小指に解が点った。竜のように。流れる水のように。からまったものを、ほどく形に。
右の小指に希が点った。火の鳥のように。昇る焔のように。消えかけたものへ、もう一度火を移す形に。
ずっと白いままだった、二本の小指。八つが満ちてもなお夜の色のままだったあの二本。
聖女がいつか言った。「二つ、まだ白い」と。「——時が満ちれば」と。何が満ちるのかは、告げなかった。
その時がいま、彼女の掌の上で満ちていた。
アリシアは、ひらいた掌を見た。
采配という名の問い。問いという名の淵。——その答えがいま、ここにあった。握り潰すための手では、なかった。摘み取るための手でも、突き放すための手でもなかった。受け止めるための手だった。ひらいて、こらえて、降ろしてやるための。
つい先夜、この手は、縋る者の猶予を握り潰した。一つずつ、指の中で。
いま、この手は、ひらいたまま、ひとりの子供の業を受けていた。一つずつ、指の中へ。
冷たいまま。強いまま。——ひらいたまま。
令嬢の掌は、閉じなかった。




