印という名の翳り
僧の確信は静かに広がっていた。
夜ごと怯えた者たちがその周りに集まった。穏やかな声。揺るがぬ言葉。理解してくれる人。屋敷の底に、その確信はゆっくりと根を張っていった。
◇
だが、その同じ夜に、古い話もまた囁かれ始めていた。
怖い夜には、人は古いものを思い出す。夜更けには、底冷えがした。竈の残り火がわずかに赤く照るほかは、あたりは暗かった。その火を囲むように、若い女中たちが肩を寄せ合っていた。表では蹂躙の噂が屋敷じゅうを冷やし、誰もひとりで床に就くのを怖がっていた。
厨の隅で、年嵩の女中が若い者たちに低く語った。遠い昔から、この世には聖女がおられる、と。
どこにおわすのか、誰も正しくは知らない。ただ、在る。世が翳るたび、人が呑まれるたび、その方は遠くからじっと見ておられる。それが聖女というものだと女中は言った。
「その方が来てくださるの」若い女中が身を寄せた。「わたしたちを、救いに」
年嵩の女中は首を振った。「さあねえ。聖女は、戦う方じゃない。来て、敵を討つ方でもない。ただ遠くから、ずっと見ておられる。それだけさ」
若い女中たちは黙りこんだ。救いに来るのでないなら、その方が見ておられて、何になるのか。誰も口には出さなかったが、暗がりの中で、めいめいがそれを思った。残り火がひとつ、ぱちりと爆ぜた。
その話をアリシアは廊下の途中でふと耳にした。
聖女。——遠い伝説の言葉だった。彼女はそれを自分とは何の関わりもない古い物語として聞き流した。女神だの聖女だの、そんなものが自分に関わるはずもない。そう決めて、通り過ぎた。
◇
その夜、アリシアは寝室でひとつの古い品を手にしていた。
それは、ちょっとした手すさびだった。眠る前、燭台のそばで、彼女はときおりその品を取り出した。指先で冷えた手触りを確かめ、ひとめぐり眺めて、また戻す。それだけのことを、もう何年もくり返していた。今夜も、頭の半分は崩れかけた屋敷の采配に置いたまま、指だけがひとりでにそれをもてあそんでいた。
母から、そのまた母から伝わったという、小さな印。家の記録よりもずっと古い。誰が最初に持っていたのか、もう誰も知らない。刻まれた紋様は擦り切れて、半ば読めなかった。
手のひらに載せると、ひやりと重かった。金物とも石ともつかぬ、古い冷たさだった。縁は長い年月に撫でられて、丸く擦り減っていた。指の腹でなぞると擦り切れた紋様の窪みがかすかに引っかかった。何度なぞっても、それが何の形なのかは読み取れなかった。
ただ古いだけの品だった。何の力もない。彼女はそれをいつものように宝石箱の底へ戻した。
蓋を閉ざせば、それきりだった。古い品は古い品のまま、暗がりへ戻っていった。
それが何の印なのか、彼女は知らなかった。知ろうとも思わなかった。
◇
その翌朝、庭の隅にノエラが立っていた。
いつからそこにいたのか、わからなかった。古い壁の染みのように朝の大気の一部のように、ただ在った。誰の目にも留まらず、誰の記憶にも残らず。
ただ、その佇まいにひとつ、何かが足りなかった。
うまくは言えない。影が一つ分薄い。気配が半分だけ欠けている。庭の鳥の声さえ彼女のあたりだけ拍を一つ落とすようだった。そこに確かに在るのに何かが一つ、満ちていなかった。
朝の光も、彼女の輪郭のところで、わずかに薄まって見えた。風が頬を撫でていく感じが彼女の立つあたりだけ、どこか遠かった。誰かがそこにいる、という当たり前の手応えが半分だけ抜け落ちていた。
理由は誰にもわからなかった。ノエラ自身さえ、たぶん。
ノエラはただ、目を伏せて立っていた。何かを待つでもなく何かを探すでもなく。自分に何が足りないのかも知らぬまま、半ば透けたように朝の中に在った。
朝の光が庭を滑っていった。ノエラはそこに在った。欠けたまま、静かに。
その朝も、世界の上辺は輝いていた。だがその輝きのあちこちの遠い縁で——名も知れぬものがそれぞれに、静かに息づき始めていた。互いを、知らぬまま。




