孤独な旅の行き先
だけどそれが行けなかった。その経験こそがロンドン中を震わせる元凶で全ての始まりであることを僕はまだ知らなかった。
仄暗い部屋で一日を過ごす退屈な日々を送る子供にはそれはあまりにも刺激が強すぎた。ママの首を切り裂いたあの感触にママを感じてしまうようになってしまった。あの感触にこそママの魂が宿っているという取り返しのつかない勘違いによって、それまでのママとの記憶が全て上書きされてしまった。
ママが入っていた"入れ物"から腐敗臭が漂い始めた頃、薄汚れた思い出の家を出て僕はママを探す旅に出た。太陽はとうに沈み冷えた石畳の冷気が足先から登ってくる。飛び出してきた野良犬の姿と鳴き声が虚ろな瞳と耳から体の中へ入り込む。
その犬を追い払うように暗闇から一人の女性が姿を表す。月明かりが照らしたその姿はママによく似ていた。その人はお気に入りだという階段の踊り場まで僕を案内するといくつか階段を上がって座ると僕の目を見て話始めた。
「さっきのワンちゃん貴方のお友達だったかしら?険悪な雰囲気だったから追いやったけど……余計なお世話だったかしら。」
そう言って立ち上がりフラフラとよろめきながら僕がいる踊り場まで一段一段階段を降りる。そうして僕の前まで来るとしゃがんで目線を合わせそのまま話を続ける。
「ところでこんな夜中に一人きりでどうしたの坊や?娼婦宿を探していた…訳じゃなさそうだし…。」
「マーサ!何処の客を引っ掛けてんのか知らないけどアタシは先に行くからねー?」
「今行くわ。」
一本入った路地の先から声が響く。姿は見えなかったがそのやり取りからこの女の人がマーサという名前だということを知る。マーサは声のする方から僕に視線を戻すと頭を撫でながら別れの言葉を告げる。
「ごめんなさい私もう行かなきゃ駄目なの。あ、そうだ!こんな街で夜中に一人で出歩くなんて危ないわ。これは私から坊やへプレゼント。この奇妙な出会いに感謝、ってところかしら。」
マーサがくれたのは細いナイフだった。ママ以外から何かを貰ったのは初めてだった。マーサは嬉しそうにする僕を見て満足そうに微笑む。
「品が無いなんて言わないでよ?それに無いより有った方がいいっていうでしょ?なんせこんな街だしね…。もう少し大人になったら相手してあげるわ。それまで元気でね。"バラの王子様"。」
どこで付いたのか分からないがいつの間にか胸についていた一枚のバラの花弁を綺麗な指で指してその人は離れていく。
「待って。」
意思に反して…いや、自分自身の欲望を満たすために出た声にその人は立ち止まりもう一度背を落とす。意識が弾け気付いたときにはその人は…マーサは息絶えていた。切り裂かれた喉とお腹からは目が離せなくなるほど綺麗な鮮血が流れ出ている。僕の手にはポケットに閉まってあったペンナイフが握られていた。
母を探す旅の最初の犠牲者だった 。
自分が引き起こした惨劇を前に僕は何が起きたか分からずその場を逃げ出した。再び意識を失い目を覚ますと目の前にはあの薔薇園があった。不安と後悔が感情を支配しようと押し寄せる波の中に一滴の幸福感が混じっていた。
ナイフが握られたままの赤く濡れた手を見ると僅かに震えていた。それと同時にあの時感じた肉を裂く感覚が鮮明に浮かび上がってくる。マーサを刺した瞬間、確かにママはあの場にいた。僕の方を見て微笑んでた。乾いた笑いを溢して行く宛もなく闇夜に歩き始めた。
それからおよそ三週間後。1888年8月31日。
僕の目の前には名前も知らない女の人が倒れていた。ナイフに伝わる感覚だけじゃ満足出来なくなった僕はポケットに入れていた赤いガラス片に持ち替えて何度も何度も突き刺した。動かなくなったその人の前に座ってお腹から溢れた中身を口の中へと放り込んだ。肉を食べればママが戻ってくる気がして無我夢中で食べた。ガラスに映った僕は何故か幸せそうな満面の笑みを浮かべていた。
僕の旅は終わらない。ママが消えそうになる度に同じようなことを何回も繰り返した。世間では連続殺人だなんだと騒がれていることを無知な僕は知る由もない。殺人犯の異名が僕と同じ名前だということも。
ママを探す旅は意外な形で幕を閉じる。心の汚れを現したような混濁した水路の端で僕は蹲っていた。あれからまともなご飯を食べていなかった僕は栄養失調により痩せ細りあの日のママのような身体になっていた。
高揚していた感情はとうに冷め、そのやけに冴えた思考が真実を照らし出す。分かっていながらも否定していた罪の重さがまとめて体にのしかかり押し潰す。
後悔と反省が反復する脳内で自らの命に迎えが来ていることを感じる。大好きだったママにちゃんと恩返しをしたかった。次こそはママを助けたい。ママだけじゃなくて困っている人がいたらみんな助けてあげたい。その誓いを待っていたかのように意識は永遠の眠りについた。
しかし現実は残酷だ。聞き入れられる事の無かった願いは湾曲し意外な形で叶うことになる 。大きく開いた悪意の口が僕を呑み込んだ。あの日僕が彼女達にやったみたいに善意の心を食い散らかしてその身を奈落へ堕としていく。
乾ききった脳足りんの身体は体を欲す ……。




