素体記憶"ジャック・コンヒュロン"
1886年 イギリス
ロンドン ホワイトチャペルの一角
鼠が這い回る薄汚れた床を壁際まで歩き、背伸びをして8歳の僕には少し高い場所に付けられた窓を開く。
「あーもう…。また開かなくなってる…。」
渋い窓枠を叩くようにして押し付けると耳に残る怪音と共にひび割れたガラスがはまった窓が開く。室内の陰気な空気を洗い流すように、朝の香りを閉じ込めた風が柔らかに流れてくる。清々しい感情とは裏腹に眠たがりの瞼はどんどん下へ下がってくる。
「あら、もう起きてたのね。ジャックいい子にしてた?」
玄関と呼ぶには粗末な造りのそこに立てつけられた扉が開いて大好きな人の声が耳を起こす。
「おかえり、ママ。」
ママは僕を抱きしめると朝食の準備を始めた。
僕はジャック・コンフュロン。ママの名前はロゼ。今はこうしてホワイトチャペルにあるボロ倉庫に住んでるけど、ママが言うには僕がまだ今よりもっと小さかった頃にフランスから越してきたらしい。
ママにパパのことを聞いてもいつも言葉を濁してはぐらかされてたからどんな人で今どこにいるのかは分からない。ママは夜お仕事に出て行って今みたいに朝になると帰ってくる。
通りを歩く子供達から僕の服装やママのことをからかわれることなんてしょっちゅうだったから裕福じゃないってことは理解してた。それでもママとこうして笑いながら朝ごはんを食べる時間が嫌なことを忘れさせてくれた。
朝ごはんを作ったママはそのまま倒れるように寝てしまうから日中は独りぼっちだった。学校には通っていなかったから昼間は通りを端から端まで意味もなく歩いたり、公園の鳩を眺めてたりした。
バラが好きだったママのために、家から少し離れた所にあるバラ園からくすねた一本のバラをプレゼントしてあげたら"バラの王子様ね"なんて呟いて頭を撫でてくれたことを覚えている。
それから二年の月日が流れる。
赤黒い染みがこびりついたシーツが敷かれたベッドの横に立ち、そこへ横たわる人を見下ろす。。細い息を吐き今にも事切れそうなママの体のあちこちには膿が浮かび崩れていた。骨に皮が張り付いたような手を握ったところで握り返してくれることもない。
ママは一年ほど前に病気にかかり、瞬く間に悪化していった。薬を買ってくると言っても何の病気か教えてくれなかった。スラム街に住む小さな子供のお願いを街のお医者さんが聞いてくれるはずもなく、力の無い僕にはママの側にいて湧き出る膿を拭ってあげるくらいしか出来なかった。
通りから聞こえてくる街の喧騒が、幸せになることを夢見た僕らを笑ってる気がして悔しさにも似たよく分からない感情がこみ上げて涙と一緒に溢れる。握った掌に落ちた涙に反応したのか、ママは僕の手を弱く握り返すと乾いた唇を開いて一つのお願いを呟いた。
「ジャック…こんな頼りないお母さんでごめんね。あなたに頼むべきじゃないことは分かってるけどお母さんにはあなたしかいないの。お願いだからもう楽にしてちょうだい。」
初めはママが何を言っているのか分からなかったが、その言葉が頭の中でいつまでも反響したせいで理解したくなかったその言葉を理解する。
ママの手を離し窓辺へ向かう。石を投げ込まれて大きく穴の開いた窓。背伸びをしなければ届かなかった高い窓も今は容易に開けられる。こちら側に落ちたガラス片を一つ拾ってベッドへ戻った。
いつもの場所から摘んで、ベッド脇の机に置かれた一本のバラをママの胸へ移動させる。
頼りなくなんかなかったよ。
僕のために働いてくれてありがとう。
いつも優しく撫でてくれてありがとう。
疲れてるのに朝ごはんを作ってくれてありがとう。
街の子供達に殴られて怪我した僕を心配してくれてありがとう。
僕の話を聞いてくれありがとう。
バラを飾ってくれてありがとう。
星がよく見える丘に連れて行ってくれてありがとう。
僕が作った焦げたご飯を美味しいって食べてくれてありがとう。
ママと喧嘩したときに、僕が悪いのに空き地まで迎えに来てくれてありがとう。
産んでくれてありがとう。
「ありがとう。」
収まるはずもない無数の思い出を無理矢理詰めこんだ五つの音を吐き出してからガラスをママの喉に突き刺した。無知な僕にはどうすれば一番楽に死ねるかなんて分からなかった。
涙で視界が滲んだせいで、ママの苦しむ顔を見ないで済む代わりに手に伝わってくる肉を裂く感触だけがはっきりと記憶に刻まれる。感じるのは猛烈に吐き気を催すその感覚とママの口と喉から漏れる嗚咽に似た音だけ。ママの意思とは別に、痛みから体は抵抗してみせるが痩せ細った病体では意味のない事だった。
暴れていた手足が完全に動かなくなり軋んでいたベッドからも音が消える。視界は未だ滲んだまま戻らない。ママを見た最後の記憶が苦しんでいる顔じゃなくて微笑んでいたもので終わったのは一人になった僕に与えられた僅かな幸運だった。




