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はまゆうSF短編集  作者: はまゆう


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1/5

第1話 となりでいいですか?

 人は、人生で一度だけ「絶対に間違えちゃいけない選択」をする。


 俺にとってそれは、四月の始業式の日の、あの教室のドアだった。


 ——開けなければよかった。


 そう思ったことは、一度や二度じゃない。


 でも同時に、あのドアを開けなければ、俺はたぶん一生、何も知らないままだった。


 だからあの日の選択は、間違いでもあり、正解でもあったのだと思う。


 ただ一つ確かなのは——あの教室に入った瞬間から、俺の人生は、静かに壊れ始めた、ということだ。



 ドアの前で、俺は一度だけ深呼吸をした。


 廊下はまだ朝の匂いが残っていて、ワックスと少し古い木の混じった、現実的すぎる匂いだった。新学期の朝は、どこの学校でも同じだ。


 クラス替え。

 それだけで、世界がリセットされるような気がする。

 うまくやればやり直せるし、しくじれば終わる。

 俺はどちらにもなりたくなかった。

 ただ、目立たず、でも完全に消えない、その中間にいたかった。

 そんな都合のいい場所があるのかは知らないけど。


 ドアの小窓から教室を覗くと、半分くらいの生徒がもう席に着いていた。笑い声が重なって、薄い膜みたいに空気を覆っている。

 知っている顔は三人。話したことがあるのは一人だけ。

 終わったな、と思った。

 ——いや、まだだ。

 俺はドアを開けた。

 その瞬間、教室の空気が一瞬だけ止まった。

 笑い声が途切れて、ペンが机に当たる音がやけに大きく響く。

 そして、全員が俺を見た。

 ……違う。

 正確には、「俺の後ろ」を見ていた。


「遅いよ」

 背後から声がした。

 女の声だった。落ち着いていて、妙に輪郭がはっきりしている。

「入るなら、さっさと入れば?」

 振り返ると、黒髪の女子が立っていた。


 特別目立つわけじゃない。制服もきちんと着ている。どこにでもいそうな、普通の女子。

 でも、目が違った。まっすぐすぎる。視線をそらさない。相手の中身を覗き込むみたいに、じっと見てくる。


「……ごめん」

 なぜか俺は謝っていた。


 彼女は軽くうなずくと、俺の横をすり抜けて教室に入った。

 その瞬間、また空気が動く。

 さっきの視線は、俺じゃなかった。

 最初から、彼女だった。

 ——なんだよ、これ。

 俺は妙な違和感を抱えたまま、黒板の座席表を見た。

 窓側、後ろから二番目。

 悪くない。

 むしろ理想だ。

 ここで静かに一年を終える。

 そう決めて席に向かい——固まった。

 隣の席の名前。

 さっきの女子だった。

 嫌な予感しかしない。

 俺はゆっくり座った。

 手のひらが、少し汗ばんでいる。

「よろしく」

 横から声。

 見なくてもわかる。

「……ああ、よろしく」

 彼女は少しだけ笑った。

 でもそれは、楽しそうな笑いじゃなかった。

 何かを知っている人間の笑い方だった。

「ねえ」

 声を潜める。

「君さ、自分がどうしてこのクラスにいるか、ちゃんとわかってる?」

 心臓が、強く鳴った。

「……は?」

「わかってないなら、いいよ」

 彼女はあっさり言った。


「その方が、面白いし」



 その日の帰り道。

 俺は結論を出していた。

 あいつには関わらない方がいい。

 理由は説明できない。

 でも直感は、だいたい当たる。

 だから距離を取る。

 そのはずだった。


「ねえ」

 背後から声。

「一緒に帰ろうよ」

 終わった、と思った。



「篠崎っていうの」

 歩きながら、彼女は言った。

「お前は?」

「……一応、聞くんだな」

「一応ね」

 軽い。

 でもどこか、芝居みたいだ。

「藤井」

「知ってる」

 即答だった。

 俺は足を止めた。

「は?」

「藤井慎也。中学は二組。部活は帰宅部。小学校のとき——」


 彼女は一瞬だけ、こちらを見る。


「川で溺れかけた子、助けなかったよね」


 呼吸が止まった。


「……なんで、それ」


 誰にも言っていない。

 忘れようとして、忘れられなかった出来事。

 小学生のとき。

 川で足を滑らせた同級生。手を伸ばせば届いた。でも俺は——動かなかった。怖かったからだ。結果的に、その子は別の大人に助けられた。


 誰も責めなかった。

 でも俺は、自分を責め続けた。


「なんで知ってる」

「知ってるから」

 答えになっていない。

「気持ちは? あのとき」

「……やめろ」

「逃げたよね」

「やめろって言ってるだろ」

 声が少し強くなった。


 篠崎は立ち止まった。

 そして、じっと俺を見る。

「ねえ」

「……なんだよ」

「今日、帰り道で転ぶよ」

「は?」

「段差。あそこ」

 彼女が指さす。

 ただの歩道だ。

「……意味わかんねえ」

「まあいいや」

 彼女は歩き出す。

 俺も無意識に後を追う。

 数歩先。

 ——ガツン。

 つま先が引っかかった。

 体勢を崩して、派手に転ぶ。

「っ……!」

 膝に痛みが走る。

「ほらね」

 上から声。

 見上げると、篠崎がいた。

 表情は、やっぱりどこか変だった。

「なんで……」

「簡単だよ」

 彼女は言った。

「何回も見てるから」



 沈黙が落ちた。

「……どういう意味だ」

「そのままの意味」

 篠崎はしゃがみ込んで、俺の目線に合わせる。


「私は、何度もこの時間をやり直してる」

 冗談に聞こえなかった。

 なぜか。

 たぶん、さっきのことがあるからだ。

「……ループってやつか」

「そう」

「証拠は?」

「今ので十分でしょ」

 否定できない。

 偶然にしては、出来すぎている。

「全部同じなのか」

「ほとんどね」

「ほとんど?」

「変えられないことがある」

 彼女の声が、少しだけ低くなる。

「特に、人の選択は」

 嫌な予感がした。

「君は毎回、同じ選択をする」

 胸の奥が、ざわついた。



「何が起きる」

 俺は聞いた。

「このままだと」

 篠崎は少しだけ黙ってから言った。

「来月、クラスの子が一人、壊れる」

「壊れる?」

「死ぬ、って言った方がいいかな」

 軽く言う。

 でも内容は重すぎる。

「原因は?」

「いくつもある。でも一番大きいのは——」

 彼女は俺を見る。

「君の選択」

 意味がわからない。

「俺が何をするっていうんだ」

「しないんだよ」

 即答だった。

「君は、何もしない」

 息が詰まる。

「それが、問題」



 それから数日、俺は落ち着かなかった。

 篠崎の言葉が、頭から離れない。

 信じる理由はない。

 でも、否定もできない。

 あいつは確かに、未来を当てた。

 それに——

 あの川のこと。

 知っているはずがない。

「ねえ」

 隣から声。

「考えた?」

「……何を」

「変えるかどうか」

 簡単に言う。

「変えたらどうなる」

「わからない」

「は?」

「変えたことないから」

 つまり——

「全部失敗してるのか」

「そうなるね」

 篠崎は少しだけ笑った。

「でも今回は違う気がする」

「なんで」

「君が、少しだけ違うから」

 意味がわからない。

 でも、どこかで引っかかる。



 事件は、思ったよりあっさり起きた。

 放課後。

 クラスの女子が、屋上にいるという噂。

 ざわつく空気。

 教師が走る。

 俺は、廊下の端で立ち止まっていた。

 ——まただ。

 体が動かない。

 行くべきだとわかっているのに。

 関わりたくない。

 怖い。

「ほらね」

 隣で、篠崎が言った。

「いつもこう」

 俺は何も言えない。

「君は、見てるだけ」

 その通りだ。

「でもね」

 彼女は続ける。

「一つだけ、違うことがある」

「……なんだよ」

「今回は、私がいる」

 彼女は俺の手を掴んだ。

 強く。

「一緒に来る?」

 逃げ道はあった。

 振り払えばいい。

 いつも通り、何もしなければいい。

 それで、全部同じになる。

 安全だ。

 傷つかない。

 ——でも。

 ふと、あの川の光景がよぎる。

 伸ばさなかった手。

 見ていただけの自分。

 胸の奥が、痛む。

「……くそ」

 小さく吐き捨てる。

 そして——


「行く」

 自分でも驚くくらい、はっきり言った。

 篠崎の目が、ほんの少しだけ見開かれる。

 でもすぐに、笑った。

 今度は、本当に少しだけ嬉しそうに。



 屋上のドアを開ける。

 風が強い。

 フェンスの向こう側。

 一人の女子が立っていた。

 背中が、小さく見える。

「やめろ!」

 誰かが叫ぶ。

 教師の声。

 でも届いていない。


 俺は、少しだけ前に出た。

 足が震えている。

 でも止まらない。

「おい」

 声をかける。

 彼女が、ゆっくり振り返る。

 目が合う。


 その瞬間、わかった。

 あのときと同じだ。

 川のときと。

 ここで動かなければ、たぶん一生後悔する。

 俺は、手を伸ばした。

「こっち来い」

 震えている。

 情けない声だ。

 でも、出した。

 彼女は少しだけ迷ってから——

 フェンスの内側に戻った。



 全部が終わったあと。

 夕焼けの中で、俺は屋上に座り込んでいた。

「ね」

 隣で篠崎が言う。

「変わったでしょ」

 俺は空を見上げる。

「……ああ」

「初めてだよ」

 彼女の声は、少しだけ柔らかかった。

「君が、選んだの」

 選んだ。

 その言葉が、妙に重い。

「これで終わりか」

「どうかな」

 篠崎は立ち上がる。


「明日にならないとわからない」


「また戻るのか」

「その可能性もある」

 振り返る。

「でもね」

「なんだよ」

「たぶん今回は、大丈夫」

 根拠はなさそうだった。

 でも、不思議と納得できた。



 翌朝。

 教室のドアの前に立つ。

 見慣れた光景。

 でも、少し違う気がする。

 俺は深呼吸をして、ドアを開けた。

 空気は、普通だった。


 誰も止まらない。

 誰も見ない。

 ——戻ってない。

 席に向かう。

 隣の席。

 篠崎がいる。

 普通に座っている。

 普通に、こっちを見る。

「おはよう」

「……おはよう」

 少しだけ間が空く。

「覚えてる?」

 彼女が小さく聞く。

「ああ」

 全部覚えている。

 川のことも。

 屋上のことも。

 全部。


「そっか」

 篠崎は少しだけ笑った。

 今度は、ちゃんと普通の笑いだった。



 たぶんこれは、やり直しじゃない。

 俺が初めて、ちゃんと選んだ一日だ。

 そしてたぶん、これからも。

 間違えることはある。

 逃げたくなることもある。

 でも——

 あの日、手を伸ばしたことだけは、たぶん消えない。

 隣で、篠崎がノートを開く。

「ねえ」

「なんだよ」

「となりでいいですか」

 俺は少しだけ笑った。

「最初からそうだろ」

 教室のざわめきが、少しだけ心地よく聞こえた。



(完)

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