第1話 となりでいいですか?
人は、人生で一度だけ「絶対に間違えちゃいけない選択」をする。
俺にとってそれは、四月の始業式の日の、あの教室のドアだった。
——開けなければよかった。
そう思ったことは、一度や二度じゃない。
でも同時に、あのドアを開けなければ、俺はたぶん一生、何も知らないままだった。
だからあの日の選択は、間違いでもあり、正解でもあったのだと思う。
ただ一つ確かなのは——あの教室に入った瞬間から、俺の人生は、静かに壊れ始めた、ということだ。
⸻
ドアの前で、俺は一度だけ深呼吸をした。
廊下はまだ朝の匂いが残っていて、ワックスと少し古い木の混じった、現実的すぎる匂いだった。新学期の朝は、どこの学校でも同じだ。
クラス替え。
それだけで、世界がリセットされるような気がする。
うまくやればやり直せるし、しくじれば終わる。
俺はどちらにもなりたくなかった。
ただ、目立たず、でも完全に消えない、その中間にいたかった。
そんな都合のいい場所があるのかは知らないけど。
ドアの小窓から教室を覗くと、半分くらいの生徒がもう席に着いていた。笑い声が重なって、薄い膜みたいに空気を覆っている。
知っている顔は三人。話したことがあるのは一人だけ。
終わったな、と思った。
——いや、まだだ。
俺はドアを開けた。
その瞬間、教室の空気が一瞬だけ止まった。
笑い声が途切れて、ペンが机に当たる音がやけに大きく響く。
そして、全員が俺を見た。
……違う。
正確には、「俺の後ろ」を見ていた。
「遅いよ」
背後から声がした。
女の声だった。落ち着いていて、妙に輪郭がはっきりしている。
「入るなら、さっさと入れば?」
振り返ると、黒髪の女子が立っていた。
特別目立つわけじゃない。制服もきちんと着ている。どこにでもいそうな、普通の女子。
でも、目が違った。まっすぐすぎる。視線をそらさない。相手の中身を覗き込むみたいに、じっと見てくる。
「……ごめん」
なぜか俺は謝っていた。
彼女は軽くうなずくと、俺の横をすり抜けて教室に入った。
その瞬間、また空気が動く。
さっきの視線は、俺じゃなかった。
最初から、彼女だった。
——なんだよ、これ。
俺は妙な違和感を抱えたまま、黒板の座席表を見た。
窓側、後ろから二番目。
悪くない。
むしろ理想だ。
ここで静かに一年を終える。
そう決めて席に向かい——固まった。
隣の席の名前。
さっきの女子だった。
嫌な予感しかしない。
俺はゆっくり座った。
手のひらが、少し汗ばんでいる。
「よろしく」
横から声。
見なくてもわかる。
「……ああ、よろしく」
彼女は少しだけ笑った。
でもそれは、楽しそうな笑いじゃなかった。
何かを知っている人間の笑い方だった。
「ねえ」
声を潜める。
「君さ、自分がどうしてこのクラスにいるか、ちゃんとわかってる?」
心臓が、強く鳴った。
「……は?」
「わかってないなら、いいよ」
彼女はあっさり言った。
「その方が、面白いし」
⸻
その日の帰り道。
俺は結論を出していた。
あいつには関わらない方がいい。
理由は説明できない。
でも直感は、だいたい当たる。
だから距離を取る。
そのはずだった。
「ねえ」
背後から声。
「一緒に帰ろうよ」
終わった、と思った。
⸻
「篠崎っていうの」
歩きながら、彼女は言った。
「お前は?」
「……一応、聞くんだな」
「一応ね」
軽い。
でもどこか、芝居みたいだ。
「藤井」
「知ってる」
即答だった。
俺は足を止めた。
「は?」
「藤井慎也。中学は二組。部活は帰宅部。小学校のとき——」
彼女は一瞬だけ、こちらを見る。
「川で溺れかけた子、助けなかったよね」
呼吸が止まった。
「……なんで、それ」
誰にも言っていない。
忘れようとして、忘れられなかった出来事。
小学生のとき。
川で足を滑らせた同級生。手を伸ばせば届いた。でも俺は——動かなかった。怖かったからだ。結果的に、その子は別の大人に助けられた。
誰も責めなかった。
でも俺は、自分を責め続けた。
「なんで知ってる」
「知ってるから」
答えになっていない。
「気持ちは? あのとき」
「……やめろ」
「逃げたよね」
「やめろって言ってるだろ」
声が少し強くなった。
篠崎は立ち止まった。
そして、じっと俺を見る。
「ねえ」
「……なんだよ」
「今日、帰り道で転ぶよ」
「は?」
「段差。あそこ」
彼女が指さす。
ただの歩道だ。
「……意味わかんねえ」
「まあいいや」
彼女は歩き出す。
俺も無意識に後を追う。
数歩先。
——ガツン。
つま先が引っかかった。
体勢を崩して、派手に転ぶ。
「っ……!」
膝に痛みが走る。
「ほらね」
上から声。
見上げると、篠崎がいた。
表情は、やっぱりどこか変だった。
「なんで……」
「簡単だよ」
彼女は言った。
「何回も見てるから」
⸻
沈黙が落ちた。
「……どういう意味だ」
「そのままの意味」
篠崎はしゃがみ込んで、俺の目線に合わせる。
「私は、何度もこの時間をやり直してる」
冗談に聞こえなかった。
なぜか。
たぶん、さっきのことがあるからだ。
「……ループってやつか」
「そう」
「証拠は?」
「今ので十分でしょ」
否定できない。
偶然にしては、出来すぎている。
「全部同じなのか」
「ほとんどね」
「ほとんど?」
「変えられないことがある」
彼女の声が、少しだけ低くなる。
「特に、人の選択は」
嫌な予感がした。
「君は毎回、同じ選択をする」
胸の奥が、ざわついた。
⸻
「何が起きる」
俺は聞いた。
「このままだと」
篠崎は少しだけ黙ってから言った。
「来月、クラスの子が一人、壊れる」
「壊れる?」
「死ぬ、って言った方がいいかな」
軽く言う。
でも内容は重すぎる。
「原因は?」
「いくつもある。でも一番大きいのは——」
彼女は俺を見る。
「君の選択」
意味がわからない。
「俺が何をするっていうんだ」
「しないんだよ」
即答だった。
「君は、何もしない」
息が詰まる。
「それが、問題」
⸻
それから数日、俺は落ち着かなかった。
篠崎の言葉が、頭から離れない。
信じる理由はない。
でも、否定もできない。
あいつは確かに、未来を当てた。
それに——
あの川のこと。
知っているはずがない。
「ねえ」
隣から声。
「考えた?」
「……何を」
「変えるかどうか」
簡単に言う。
「変えたらどうなる」
「わからない」
「は?」
「変えたことないから」
つまり——
「全部失敗してるのか」
「そうなるね」
篠崎は少しだけ笑った。
「でも今回は違う気がする」
「なんで」
「君が、少しだけ違うから」
意味がわからない。
でも、どこかで引っかかる。
⸻
事件は、思ったよりあっさり起きた。
放課後。
クラスの女子が、屋上にいるという噂。
ざわつく空気。
教師が走る。
俺は、廊下の端で立ち止まっていた。
——まただ。
体が動かない。
行くべきだとわかっているのに。
関わりたくない。
怖い。
「ほらね」
隣で、篠崎が言った。
「いつもこう」
俺は何も言えない。
「君は、見てるだけ」
その通りだ。
「でもね」
彼女は続ける。
「一つだけ、違うことがある」
「……なんだよ」
「今回は、私がいる」
彼女は俺の手を掴んだ。
強く。
「一緒に来る?」
逃げ道はあった。
振り払えばいい。
いつも通り、何もしなければいい。
それで、全部同じになる。
安全だ。
傷つかない。
——でも。
ふと、あの川の光景がよぎる。
伸ばさなかった手。
見ていただけの自分。
胸の奥が、痛む。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。
そして——
「行く」
自分でも驚くくらい、はっきり言った。
篠崎の目が、ほんの少しだけ見開かれる。
でもすぐに、笑った。
今度は、本当に少しだけ嬉しそうに。
⸻
屋上のドアを開ける。
風が強い。
フェンスの向こう側。
一人の女子が立っていた。
背中が、小さく見える。
「やめろ!」
誰かが叫ぶ。
教師の声。
でも届いていない。
俺は、少しだけ前に出た。
足が震えている。
でも止まらない。
「おい」
声をかける。
彼女が、ゆっくり振り返る。
目が合う。
その瞬間、わかった。
あのときと同じだ。
川のときと。
ここで動かなければ、たぶん一生後悔する。
俺は、手を伸ばした。
「こっち来い」
震えている。
情けない声だ。
でも、出した。
彼女は少しだけ迷ってから——
フェンスの内側に戻った。
⸻
全部が終わったあと。
夕焼けの中で、俺は屋上に座り込んでいた。
「ね」
隣で篠崎が言う。
「変わったでしょ」
俺は空を見上げる。
「……ああ」
「初めてだよ」
彼女の声は、少しだけ柔らかかった。
「君が、選んだの」
選んだ。
その言葉が、妙に重い。
「これで終わりか」
「どうかな」
篠崎は立ち上がる。
「明日にならないとわからない」
「また戻るのか」
「その可能性もある」
振り返る。
「でもね」
「なんだよ」
「たぶん今回は、大丈夫」
根拠はなさそうだった。
でも、不思議と納得できた。
⸻
翌朝。
教室のドアの前に立つ。
見慣れた光景。
でも、少し違う気がする。
俺は深呼吸をして、ドアを開けた。
空気は、普通だった。
誰も止まらない。
誰も見ない。
——戻ってない。
席に向かう。
隣の席。
篠崎がいる。
普通に座っている。
普通に、こっちを見る。
「おはよう」
「……おはよう」
少しだけ間が空く。
「覚えてる?」
彼女が小さく聞く。
「ああ」
全部覚えている。
川のことも。
屋上のことも。
全部。
「そっか」
篠崎は少しだけ笑った。
今度は、ちゃんと普通の笑いだった。
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たぶんこれは、やり直しじゃない。
俺が初めて、ちゃんと選んだ一日だ。
そしてたぶん、これからも。
間違えることはある。
逃げたくなることもある。
でも——
あの日、手を伸ばしたことだけは、たぶん消えない。
隣で、篠崎がノートを開く。
「ねえ」
「なんだよ」
「となりでいいですか」
俺は少しだけ笑った。
「最初からそうだろ」
教室のざわめきが、少しだけ心地よく聞こえた。
⸻
(完)




