現実も異世界もバグだらけ
「おはよう。いや、ほとんど寝てないだろうけどな」
早朝のオフィス。先輩の鈴木さんが、苦笑まじりに声をかけてきた。この人もまた、目の下にクマを作っている。
「お疲れ様です。鈴木さんもあんまり寝てないっすよね。結局、夜中じゅう監視の手配やら何やらでバタバタしてたわけだし……」
俺は自分のデスクへ戻り、パソコンのディスプレイをもう一度チェックする。先ほど動作テストを終えた受発注システムに問題はなさそうだ。アラート画面は出ていないし、ログを見てもエラーは発生していない。どうやら徹夜で行った障害対応はうまくいったらしい。
そこへ慌ただしい足取りでやってきた上司の田中が、ひときわ大きな声を上げた。
「後藤! おまえ、よくやってくれたな! こっちはもう問題ないってことでいいんだよな?」
「はい、ひと通り検証は終わってます。朝イチで再度チェックしましたが、今のところ大丈夫です。あと、念のために監視スクリプトも追加してあるので、万が一エラーが出ればすぐにアラートが飛びます」
「そうかそうか! さすがだなあ、徹夜でよくまとめた。正直、もっと時間がかかるかと思ってたんだが……」
田中が珍しく素直に礼を言う。それだけ今回の障害は会社にとって大問題だったのだろう。だが俺は、このあとまた別の火種が待っているような気がしてならなかった。
こういうときこそ油断は禁物だ。システムなんてものは、一つ直せばどこか別の部分がおかしくなる――まるでいたちごっこのように。
その予感はすぐ的中する。ほどなくして取引先の「オクタヴィアシステム」の新人マネージャー、村田詩織からチャットメッセージが届いた。彼女はいつも申し訳なさそうに追加のバグ対応を依頼してくるのだ。今回も同じ流れらしく、「すみません、また不具合が見つかりまして……」という頭を下げるような文章が並んでいる。
「まあ、そうなるよな……」
俺は苦笑しながらチャットを読み進める。どうやら高額商品の受注登録時だけエラーメッセージが返される現象が起きているらしい。優先度は高めだ。すぐに直さなければ納期に支障が出るという。
「後藤くん、悪いけどまた頼めるかな」
鈴木が気まずそうに声をかけてくる。社内で手が空いているエンジニアがいないらしい。みんなほかの不具合や別プロジェクトのトラブルで手一杯のようだ。
「もちろんやりますよ。今夜も多分、泊まりになるかもですね」
俺は苦笑して答えた。正直、寝ずに作業するのはきついが、村田――彼女が追い詰められているのもわかる。度重なるシステム障害で社内外から責められっぱなし。新人なのに責任ばかり負わされ、あちこちに頭を下げる日々が続いている。チャット越しにも、その必死さは伝わってきた。
「村田さんも辛いんだろうな……」
そうつぶやきながら、俺はキーボードを叩き始める。まずはクライアント側のログをチェックし、原因箇所を洗い出す作業だ。高額商品を登録するときだけ起きるなら、金額の桁数や税率計算あたりが怪しい。夜通し働いた頭は重いが、誰かがやらなければならない。
午前中いっぱいを使い、バグの可能性をリストアップ。午後からは、簡単な修正を入れてはテストを回す。何度かエラーが出るが、一つずつ修正し、再度テストを走らせる。
そうこうしているうちに、気がつけば定時を過ぎていた。普通なら社食やコンビニで夕食を買うところだが、急な睡魔が俺を襲い、デスクで30分だけ仮眠をとることにする。
「深夜にはまた雑多な問い合わせが来るだろうし……今のうちに少し休もう」
椅子の背もたれを倒し、自前のアイマスクをかぶる。ほんの数十分だけでも眠れれば違う。ふと、意識が遠のく間際、脳裏には異世界での出来事が浮かんだ。
(リリア、元気かな……今頃ジュリエンヌに変なちょっかい出されてないといいけど。あの魔法の呪文はどういう仕組みだったんだろう。もう少し解析できれば、リリアの詠唱事故も減らせるかもしれないのに……)
そんなことを考えていると、自分が少々馬鹿らしく思えてくる。――徹夜明けによく見る幻覚めいた夢じゃないか。でも、どうも生々しい。リリアの真剣な眼差しや、学園のざわめき、そしてプログラミングのような魔法――。
「いやいや、何考えてんだ俺……もう寝よう」
そうつぶやいて、俺は静かに目を閉じた。
***
ぱちり、と目を開くと、薄暗い部屋の天井が見えた。
オレンジがかった光に照らされて、あちこちに古めかしい装飾がある。
会社の蛍光灯の光ではないし、当然俺の家の天井とも違う。
(あれ……会社じゃ、ない……? まさか!?)
狭い布団に寝かされている俺は、慌てて上体を起こした。
となりの丸いサイドテーブルにはハーブの入ったポットや古風なランプがある。どうやら朝方らしい空気感だ。
そんなことを考えていると、部屋のドアが開き、リリアが入ってきた。
「あ、起きたの?」
リリアはいつも通りツンとした態度だが、その顔にはどこか安堵の色が浮かんでいる。
(嘘だろ……また”こっちの世界”に転移してきたのか!?)
どうやら俺は、またこの異世界に戻ってきたらしい。てっきり夢だったと思っていたから、驚きは大きい。でも、こうしてリリアと再会できることに、どこかほっとした気持ちもある。
「……何よ、そんなすっとぼけた顔して」
「あ、ああ……いや、何でもないよ]
はっきりと見えるリリアの顔。リアルすぎる布団の手触り。やはり、ここはただの夢じゃない。
自分の状況を理解して冷静さを取り戻すと、リリアのことが気になり始める。
「……リリア、ちゃんと寝たのか? 目の下、少しクマがあるように見えるけど……」
俺は布団から出て彼女に近づきながら声をかける。心配する気持ちからの言葉だが、リリアは途端にむっとした顔になった。
「……少し寝たわよ」
「……少しって、大丈夫なのか? 夜遅くまで魔法の練習とかしてないかなって思って……」
「私の勝手でしょ。余計なお世話!」
リリアはイライラを隠そうともせず、こちらを睨みつける。たしかに、こうした言葉は彼女にとって鬱陶しいかもしれない。それでも、大人としてはどうしても放っておけない。
「あのさ、小言を言って悪いけど、寝不足は本当に良くないんだよ。次の日のパフォーマンスがすごく下がるから。俺だってこの前、仕事で……」
「もう! 子ども扱いしないでったら! ほっといて!」
リリアは苛立ちを隠さないまま、急に踵を返してドアをバタンと乱暴に閉める。残された俺は、彼女の後を追うべきか迷いながら、仕方なく学生寮の廊下へと出た。
まるで反抗期の子どもと親みたいなやり取りだな……と自分で思わず苦笑する。確かに押し付けがましかったかもしれないが、素直に忠告を聞き入れられないのは、思春期の子供なら普通の事だろう。
ともあれ、彼女はもう学園の授業へ向かったのだろう。俺もあとを追う形で敷地内を歩き始める。