雑巾を引き裂く悲鳴
曇り空の下で暫く座り込んだ後に、博雅は片づけを始める。
そろそろ片付けてアルバイトに行く時間である。荷物を宿泊施設に置いて、職場へ行かねばならない。
格安の民宿は相部屋なので、ルームシェアする相手に気を使うのが難点だ。何せ、ろくに英語を喋らないアラビア人だった。日中殆ど外出して過ごしている博雅と違って、彼はほとんど部屋にいるらしく、何をしているのかさっぱりわからない。トラブルが有ったわけではないが、意思疎通の難しいルームメイトにはいささか不安を感じている。
そしてそんな格安の部屋でさえ、来週にはまた部屋代を支払わねば追い出されてしまう。宿主は前払いで宿泊料さえ支払っていれば細かい事を言わない老人だが、宿泊客の素行についても一切口出しをしない。自分のいない間に荷物を弄られていたらと思うとぞっとするのだ。まあ、盗まれるような価値のあるものなど、博雅の荷物の中にはないはずなのだが。
翌週分の宿泊代がひねり出せないわけではない。そのためにアルバイトもやっているのだからどうにかなるだろう。
しかし、ゆくゆくは自分で部屋を借りたいのだ。自立して理想を言うならば自分だけの部屋にアトリエを設けたい。小さくても粗末でもいいからそういう場所が欲しい。そのためにはある程度の貯蓄もいる。
才能も後ろ盾も資金も無い博雅にとって、その理想は余りにも遠かった。
そう思うと、シュテファンの申し出は余りにも魅力的だ。無視するには勿体ない話だった。
ルームメイトのアラビア人は、同居して二か月にもなるが、未だにまともな話をした事も無かった。
それを思うと、出会ってほんの数時間一緒に過ごしただけであれほど多くの情報交換をしたシュテファンと自分とはよっぽど相性がよかったのだろうか。国籍や民族が違うと言う条件は全く同じだと言うのに、博雅は彼に好感を抱いたし、シュテファンの方も博雅に対して好意的だった。
彼は名前と住所と連絡先を博雅に明かした。勿論、博雅も自身の置かれた状況と事情は差し支えない程度に彼に明かしたのだが、それでかまわないと言ってくれたのだ。
昨日の劇的かつ恥ずかしい邂逅を思い出す。長い間彼の事を美女だと思って疑いもしなかった自分は、みっともないことこの上ない。その事に怒りもせずただ笑い飛ばしただけで博雅を許してくれた青年は、小汚い部屋でその日の稼ぎを指折り数える東洋人には眩しいほど美しかった。
申し訳ないとか遠慮とかは日本と違ってこの国では美徳ではない。だからそれは理由にはならないが、博雅には気になる点がある。シュテファンにとって、こんな冴えない東洋人と同居することに一体どんなメリットがあると言うのだろう。ボランティア活動にしては少々偏ってはいないか。
公園近くの飲食店は夜の11時に終わる。絵筆よりも重いものを持ったことは無い、と自負していた博雅にとって飲食店のウェイターはかなりの重労働なのだ。元々は坊ちゃん育ちの彼にとって、接客業など不向きである、と思っている。
そんな博雅が冷や汗をかきながら手に持てる限りの荷物を抱えてシュテファンの住まいを訪ねたのは、僅か二日後のことだった。
顔色を青くしたり赤くしたりしながら呼吸も荒く入り口に立ち尽くす東洋人を見て、思わず金髪の青年は尋ねる。
「・・・ど、どうしたの?ま、いいや入ってよ、中で話を聞くよ。」
「ど、同居させてくれ・・・っ!急で悪いが今夜からっ!!荷物は全部引き払ってきたから!!」
凄い剣幕に気圧されるように後ずさったシュテファンが、崩れるように部屋へ入ってきた彼を迎え入れる。
「勿論、いいけど。僕の方から言い出した事なんだし。・・・ていうか、もっと早く来るかと思ってた。君に振られたかと思ったよ。」
金色の眉をハの字にして、ちょっと情けなく笑う青年は相変わらず綺麗だった。
綺麗、というか、なんだかカワイイ、と一瞬思ったのは気のせいだ。博雅にも気の迷いくらいある。特に今は動揺しているのでこれだけの美丈夫を前にしておかしな想像をしても有り得ない話ではない。そう、とにかく今の博雅は動揺している。
抱えた荷物を案内された部屋へ置いてくると、シュテファンはのんびりと紅茶を淹れていた。
ダイニングキッチンと思われる場所で立ったままカップを差し出したシュテファンに、博雅は短く礼を述べて受け取る。濃く淹れた紅茶に冷たいミルクが入って温度は飲み頃だ。
「・・・で?血相変えてこんな時間に来たのはどうして?何か大きな事件でもあったの?」
不意に尋ねられ、口にした紅茶を噴きそうになりつつ、博雅はゆっくりと口元を押さえた。
外は真っ暗になっている。普段ならば博雅も副業のウェイターに精を出している時間帯だ。他人を訪ねるべき時間は過ぎていた。
「そりゃ、訊くよな。言いたくないが、訊きたいよな、そりゃ。」
「どうしても言いたくないのなら無理には聞かないけど・・・。」
「いや、言う。実は・・・。」
空になったカップをテーブルに置くと、着ていたジャンパーを脱いで両手で畳む。椅子に掛けることもせず博雅が語ったのは、つい数時間前に起こった出来事だった。
アルバイト先である飲食店で工事が始まり、一週間ほどの休みをもらう事になった博雅が珍しく上機嫌で缶ビール片手に民宿へ戻ってきたのは夕食時である。バイト先で余ったからと譲ってくれたのだ。ひさしぶりの晩酌が嬉しくて鼻歌交じりに宿へ戻ってきた彼は、共同シャワーブースを借りてさっぱりすると、宿の備品である冷蔵庫に入れて置いたそのビールが無い事に気が付いた。シャワーを浴びる僅かな時間くらい大丈夫だろうと高を括っていたのが間違いだったのだろう。民宿に誰かに持っていかれてしまったらしい。そういうことはまああるので、仕方なく舌打ち一つで諦めた。だが、そのビール缶が同じ部屋で寝泊まりしているアラビア人のベッド脇に置かれていたのを見て、流石に温厚な博雅も怒った。
「そのビールは俺のだぞ。何故勝手に持ち出して飲んだりしたんだ?それは俺のだったのに。ちゃんと名前も書いておいただろうが。」
声高に相手の身勝手な行動を非難する。童顔の東洋人は大人しいと思って舐められては困るので、言う時にはちゃんと言わねば。
するとベッドで背を向けて横になっていたアラビア人はおもむろに起き上がって博雅の方を見上げた。立ち上がってみれば、博雅よりガタイがいいが大柄ではない。名前さえ知らない異国人のルームメイトを睨み付けると、彼は真っ赤な顔をしていた。そして、無言でいきなり博雅に抱き着いてきたのだ。
「ぎょええええ!!」
そのルームメイトが抱き着くなり尻の辺りを撫でまわしてきたために、ボロ雑巾を引き裂くような悲鳴が博雅の口から飛び出した。