家事はお手の物
博雅の話を聞いて思わず噴き出したシュテファンは、怒りを湛えた相手の視線に軽く咳ばらいをする。
「ケホケホ・・・それは災難だったね。」
「取ってつけたみたいに言ってんじゃねぇよ。お前、笑い事じゃないぞ?貞操の危機だぞ?お婿にいけなくなっちまうじゃねぇか。」
「まあ、その・・・英国はゲイも多いから。気を付けないとね。」
金髪の青年の言葉は、いかにも他人事っぽくそらぞらしい。
高校生みたいな顔をした東洋人の自分よりも、この美青年の方がよっぽどゲイに狙われやすいのではないか、と彼は考える。
「あんただって他人事じゃないだろ。そんだけ綺麗なら」
「いや、僕は生憎・・・・いや、幸運なことにそういう目に遭ったことは無いんだ。」
が、意外な事にシュテファンは、そういう経験はないらしい。
マジかよ、と小さく呟いてから新しい同居人は床を見る。
「シュテファン」
「ん?」
「あんた最後に掃除したのいつだ?」
「覚えてない。・・・と言うか、ここに越してきてから掃除らしい掃除をしたことがないんだよね。」
呆れたように口を開いた博雅を見て、シュテファンは苦笑する。
「だから、ハウスキーパーが欲しいって言ったんだ。今夜はもう遅いから、明日からよろしく頼むよ。・・・それから、僕の部屋には入らないで。どんなに散らかってるように思えても、いじられると困るものだらけなんだ。食事は君の好きな時間にどうぞ。その時に僕も在宅してるようなら声を掛けておくれ。居なかったら好きにして。食費はレシートをくれればその分支払うから、ご自由に。」
「そんな適当でいいのかよ?もっと細かい条件とか」
ルームシェアをするのに余りにいい加減な口約束では困る。後になってトラブルになることも多いのだ。そう思って、博雅は言葉を続けようとした。
しかし、部屋の借主の方は軽く手を振って会話を打ち切ろうとする。
「ああ、そうそう。水槽の世話にかかる費用もちゃんとレシートを取っておいて。僕の友達をよろしく。・・・じゃ、僕はまだ仕事をするので。おやすみ、ヒロ。」
素っ気なくそう言うと、彼はカップをキッチンのシンクに置いて自室へ戻っていく。軽く伸びをした後姿を最後に、ドアが閉まった。
「おやすみ、シュテファン。」
閉じられたドアに向かって夜の挨拶を口にした博雅は、再び視線を下へ向け、軽く床を足先で擦る。なんと、それだけでダークレッドの絨毯から白っぽい埃が立ったのだ。先日ここに来た時には気付かなかった。
昨夜まで彼が宿泊していた民宿だって、さすがにそんなことは無かった。狭くて小汚い宿だったけれども、一応商売上掃除は行き届いていたのだろう。
やれやれと周囲を見回し、掃除用具はどこにあるのかと探してみる。どこか見えない納戸のような場所があるのか、それらしいものは一切見当たらない。明日になったらシュテファンに聞いて見なくては。
そして、やっと気付く。
シュテファンがこれからまだ仕事をすると言っていたことを。
そう言えば、博雅は彼の仕事が何なのかまるで知らない。年齢も出身地も何も知らないままだった。
「まあ、これから聞けばいいか。」
二人分のカップをシンクで手洗いし、台の上に伏せた。
これから博雅の部屋となる殺風景な部屋の明かりを点け、ダイニングの照明を落とすと、視界の中に大きな水槽の中の魚たちが浮かび上がる。
「・・・綺麗だな。」
神秘的に輝く色とりどりの熱帯魚が、青い水槽の中で元気に泳いでいる。
シュテファンの友達は、闇の中で美しく輝いていた。
とても美しかったけれども、何故か、博雅には、その光景がひどく寂しく思えてならなかったのだ。
翌朝早くから起床してキッチンの冷蔵庫を覗いた博雅は、寂し過ぎる中身に呆れた。缶ビールが3本に、飲みかけのワインが一本に、バターが少し。冷凍庫に薄いトースト用のパンが2,3切れ入っているだけ。朝飯さえ満足に食えやしない。英国で美味なる食卓と言えば、イングリッシュブレックファーストだろうと言うのに。
小さな紙切れに必要と思われる食材を書き出して、童顔の東洋人は静かに部屋を出る。昨夜遅くまで仕事をしていたと思われる同居人を起こさぬように。
初夏とは言え早朝はまだ肌寒い。重ね着したシャツの襟を閉めて、通りを歩きだし、朝市をやっている最寄りの場所を目指す。ロンドン市内ではあちこちで朝市やら蚤の市が開催されているのだ。
地下鉄ならば一駅分先に、外国人も多く訪れる有名なマーケットがある。博雅が辿り着いた頃には、そこそこの賑わいを見せていた。通りを歩いた先には大型のスーパーマーケットも有り、蚤の市に合わせているのか、比較的早い時間から開いている。乳製品やら調味料などはそこで買うのが手っ取り早いだろう。
市場の賑わいを思うと、店内は空いていた。所々でエプロンをかけた店員がまだ品出しの途中らしく作業していた。エントランスから朝日が入る青果売場で、まばらな客が足を止めている辺りで、ブルネットの店員は忙しそうに林檎やらオレンジやらを棚に陳列している。
「・・・ん」
その様子が妙に印象に残って、しばし足を止める。
黒髪のスーツ姿の女性が、店員の隣りで黄色い果実を手に取っていた。こんな朝早くから食材を買いに来るスーツ姿はちょっと珍しいと思って思わず目線がそこに集中する。
しかも、振り返った顔は若い東洋人女性だった。ストレートの長い黒髪が肩まで伸びて、きちんとメイクされた顔は地味でも派手でもなく無難に仕上げられている。そう、ちょうど日本の女性誌あたりで推奨されているような、可愛らしいけれど大人っぽい印象だ。
濃紺のビジネススーツがいかにもキャリアらしく見えるが、顔立ちは目が大きくて可愛いらしい。鼻や口が小作りなので無難なメイクもよく似合っている。
旅行者ならばともかく、働いている日本人がこの辺のスーパーマーケットへ足を運ぶのは意外だった。博雅はよく似顔絵描きをここからそう遠くない公園で営んでいるが、日本人のビジネスマンは余り見かけなかった。もっとも、スーツを着ていなければわからないので、博雅の目もあてにはならない。
いつまでも見惚れていたせいか視線に気付かれ、店員が不審そうな目でこちらを見た。
博雅は泡食って買い物籠を引き寄せ、必要な食材をそこへ放り込んでいく。
買い物から戻り、ダイニングテーブルの上に朝食の準備が整った頃には、さすがに夜なべの同居人も部屋から出てきた。ねぐせのついた長い金髪を、無造作に右肩で一つにくくっている。欠伸を一つして、ダイニングの椅子に腰を下ろしたシュテファンは、その緑色の瞳を見開いた。
「わーぉ・・・。なんて充実した朝ご飯。おはようヒロ。朝から、凄いね。」
「おはようシュテファン。典型的な英国式朝食を出しただけだ。食べない食品があったら教えて置いてくれ。次回からは避ける。」
白いTシャツの上に濃い茶色のガウンをはおっただけの青年は、大仰に驚いた風を装って両手を広げて見せる。
シリアルやらベーコンやらサラダや果物など、テーブルの上が狭く思えるほどの品数が揃っていた。黒いサロンエプロンをかけた博雅が落としたばかりのコーヒーをカップに入れ、テーブルの上に置く。
「わっ・・・うちコーヒーメーカーなかったのに。」
「今は個別にドリップ出来るのが手に入るんだ。好きなら、また買ってくるぞ。」
嬉しそうにコーヒーの香りを吸い込み、一口飲んだシュテファンが嬉しそうに言った。
「ひゃー、美味しい。久しぶりだ、うちで淹れた奴。君、料理も上手いねぇ。」
「朝飯が済んだらいいんで、掃除用具がどこにあるのか教えてくれ。」
「OK。」
さっそく朝食にかぶりつく同居人は腹を空かせていたらしい。機嫌良く食べ始めたシュテファンを見て安堵のため息をついた博雅も、エプロンをはずして彼の向かい側に座った。




