3話
「ふふっ……顔が赤くなってるよ、センパイ? ……私のことしか目に入らないくらい、私に夢中になるようにしてあげるから……覚悟しててね?」
脳に直接響くような甘い声に一瞬意識を持っていかれる。
だがなんとかそれを耐えきり、その捕まえられた腕を辛うじて払い除けた。
「あれ……どうしたの、お兄さん?」
その全ての思考を見透かしているかのように、桜は余裕の笑みを見せる。
俺はその余裕の無さで桜に負けてる気がして、話の主導権を握られるのが嫌で。
「いや……どうして急に惚れる惚れさせるの話になったのかと思ってな」
「あぁ、そんなこと。だって……お兄さんがわがままばっかり言うから、私が譲歩してあけだんだよ。もしそうしたら、お兄さんは桃々ちゃんの危害を気にしなくて良くなるし、無理矢理お兄さんから離さなくても済むからね」
名案でしょ? と。
一番初めの思いつきの時と、全く同じイントネーションで呟いた。
「でも、俺がお前に惚れるとも限らないだろ? 第一俺にはもう好きな人がいる」
「いや、お兄さんは絶対に私を好きになるよ」
確信めいた自信の笑みともに、至近距離で俺を見上げる。
そのまま桜は自身の右手を持ち上げて、その澄んだ髪を耳にかけた。顔が若干右に傾き、前髪が横に流れる。そのほんの少しの動きだけで、女の子特有の甘い香りが舞い上がり、俺の鼻をくすぐってくる。
僅かに顕になった真っ白いうなじが視界に入り、なんとも言えず、俺はこれ以上直視出来なくなって視線をよそにずらした。
そんな俺の反応に、桜は満足気に表情を崩す。
「それで、私はお兄さんと一緒に住むのを許可してもらえたのかな?」
重要なのはそこだ。
桜はもう桃々には手を出さないと言う。心底惚れなければ、俺が自ら何か大切なものを桜の思い通りに手放すなんてあり得ない。よって、俺が何かを失うこともなくなった。
つまり、桜を受け入れるデメリットが消えたのだ。
結果として、残るのは拠り所がない少女だけ。もちろんこうやって関わりあったあとでは、放っておけるわけがない。
「さっきの約束を守ってくれるならな」
「もちろん。お兄さんはただ、自分を惚れさせようとしてくる積極的な女の子を拾っただけだよ。しかもその女の子はお兄さんの好きにしていい」
「どうもしないって」
決まりだ。
いつもの平凡で、でも幸せな日常に、桜という少女が加わるだけ。
それだけなのだ。
今までの幸せは変わらない。
「ところでさ、今まで迷ってたんだけど、お兄さん呼びとセンパイ呼び。どっちが良い? 私が見たところ、センパイって呼んだ時の方が反応が良い気がしたんだけど」
「……知るか」
「ふふっ」
そんな俺の一つ一つの反応が面白いのか、心から楽しそうに笑った、そんな気がした。
「わかった。じゃあ、よろしくね……センパイ?」
「……あぁ、よろしく」
「そろそろ家に入らない? ちょっと寒くなってきちゃった」
「そうだな、桃々も待ってるし」
二人並んで肩を合わせ、アパートに入る。
ただ、横で歩く桜をチラッと横目に覗き見てみても、俺の心にはもう先ほどまでの不安は宿らなかった。
*
「お帰りなさい、輝君、桜さん。もうご飯できてますよ?」
「ありがとう」
玄関を開けると、エプロンを羽織った桃々が出迎えてくれた。
笑顔を見せる家庭的なその姿は、まるで新妻のようにしか見えなかった。
三人仲良く食卓に座り、声を合わせて“いただきます“をする。
「桃々、いきなり三人分作ることになって悪いな」
「いえいえ、二人分も三人分も変わりませんよ。そもそも輝君のご飯作りも半ば趣味でやってるようなものですし、遠慮なく食べちゃてください」
そうにこやかに返してくれるからありがたい。
今日のご飯はチキン南蛮だ。
やはり作り慣れてるだけあってとても美味しい。思わず無言になって箸を進めてしまう。
そんな俺を他所に、桜はふと箸を止めて桃々を見上げた。
「桃々ちゃんはさ、毎食センパイに作ってあげてるの?」
「そうですよ」
「なんで?」
「輝君は自炊が出来ないのに一人暮らしを始めちゃうんですから。やはり食事は大事ですもんね」
仕方ない子です、と楽しそうに笑った。
そんな姿を見ていると、なんだか申し訳なさがこみ上がってくる。
「いつも迷惑かけるな」
「いえいえ、こっちもやりたくてやってるので、輝君は全く気にしなくて大丈夫ですよ」
「でも、一緒に住んでるわけじゃないんでしょ? 毎日わざわざ作りに来るのも大変じゃない?」
桜がもっともな疑問を投げ掛ける。
ただそこにも、俺が桃々に頭が上がらない大きな理由があった。
「あー、私隣の部屋に住んでるのでそこは問題ないんですよね」
「えっ!?」
驚く桜に桃々が苦笑して経緯を話した。
俺は元々小さい頃から、事情があって、桃々の家族に(ご飯も含めて)色々お世話になっていた。だから俺が高校に入るに伴いアパートを借りることになった時も、真っ先に桃々達に話した。
ただ、今まで家事のほとんどを桃々達に依存していた俺を、当然皆は心配してくれた。とりわけ桃々はそれが激しく、元々実家から通う予定の彼女だったのだが、その家と俺のアパートが遠いことがわかると、彼女だけでも俺の部屋の近くに引っ越すのだと、彼女の母親に直談判してくれたのだ。
母親も俺を心配、また信頼してそれを寛大に許可してくれたおかげで、今に至る。
だから俺は尚更桃々に頭が上がるわけがなかった。
話を静かに聞いていた桜は、少し思案したあとこちらを向いた。
「センパイの小さい時の事情って?」
「……色々あったんだよ」
俺は苦味潰したような顔を浮かべてるのを自覚して暫く口をもにょもにょさせたが、やがてバツが悪くなって誤魔化すように再び肉を頬張った。
俺がこれ以上話す気がないのを悟ったのか、桃々の方に視線を向けて説明を求める。が、輝君が話さないなら私も話しません、と断られたらしく、諦めて箸を持ち直していた。
「ふぅ……ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
それからは暫く黙々と食べ、一番先に完食したのは俺だった。
お腹も十分膨れ、今すぐ布団に飛び付きたくなる、が。
「お風呂も沸かしといたので、お好きな時にどうぞ」
「ほんと、なんか至れり尽くせりだなぁ……」
彼女の気の回り具合に感服する。
俺は礼を述べて、遠慮なく入らせてもらうことにした。
*
センパイが部屋から出ていくのを、ご飯を咀嚼しながら見送る。
その結果今この場には、桃々ちゃんと二人きりになった。
だから、センパイが居るところでは話せないことも遠慮なくすることが出来る。
「ねぇ、桃々ちゃん」
「はい?」
私は今までの会話の中で、半ば確信に近いものに変わった疑問をあえてぶつけた。
「桃々ちゃんさ……センパイのこと好きでしょ?」
「えっ……?」
私がしたかった話は、これだ。
疑問じゃなくて、断定。私にとってこれはただの確認作業にしかすぎない。
だから、いきなりこう聞かれた桃々ちゃんが、頬を赤く染め上げるのも予想の範囲内。
「ど、どうしてそう思ったんですか?」
「だって、余程好きじゃないと、こうやってセンパイに世話をやき続けるのは無理だよ」
「でも、純粋に手助けの気持ちで……とかは考えたりしないんですか?」
「引っ越しまでしたのに?」
私の言及からもう逃げられないことを察したのか、桃々ちゃんは観念したかのように苦笑した。
「言い返す言葉もないですね……そうです、私は輝君が好きですよ。だから少しでも輝君の力になりたいんです」
「やっぱり」
相変わらず頬を染めて、でも瞳には強い意志を宿してそう言いきった。
その姿は、まるで先ほどの輝の告白の時と重なって見えた。
「でもどうして急にそのようなことを?」
ただ、これから先の反応は予測出来ない。
予測するには、私と彼女の出会いが短すぎた。
故に、ここからが勝負所となる。
「実は、私もセンパイのことが好きなんだ」