2話
「ねぇ、私と一緒に堕ちよう?」
そこで俺がすぐさま頷かなかったのは、この日行った間違いばかりの行動の中でも、一番最悪な選択だったのかもしれない。
「あれ……輝君?」
こうやって、言い逃れる道がなくなったから。
「こんなところに座ってどうしたんですか? 体が冷えちゃいますよ?」
「桃々……」
未だ二人向き合ってしゃがみこむ俺たちを覗き込むかのように、上体を僅かに傾ける可憐な少女。
俺の、一番と言っていいほど関係が深い人物だった。
茶色く大きな瞳でこちらを映すその顔には、純粋な疑問が浮かんでいる。
それはそうだろう。俺たちの、幼稚園からの長い付き合いの中で、1度も見たことのない少女が俺に寄り添うかのように座っているのだから。
「輝君、その子は?」
そう聞かれて、どう答えるか迷う。素直に説明するべきか、偽るべきか。それとも、桃々を連れて即座に逃げるべきか。
ただ、先の少女は逃げの選択肢を与えてはくれなかった。
「センパイと知り合いなの?」
不意にそう発する。
俺は慌てて少女を見るが、そこにはもう先ほどのような狂気も暗さも感じられなかった。その瞳には皆と同じような生気が宿っており、浮かべるあどけない笑顔は、どこにでもいそうな可憐な少女のものにしか見えない。
「センパイ……? 輝君の学校のご友人ですか?」
「うん、いつもお世話になってるんだ。あなたは?」
「あ、輝君の友達の桃々です。よろしくお願いしますね?」
流れるように嘯く少女を俺の友人と理解して、誰にでも人当たりが良い桃々は、今回もまたにこやかに笑った。
そのあとも、俺が介入する暇も与えられぬまま、話の流れは固まっていく。
「お名前はなんですか?」
「桜だよ。……ちょっと色々あって、今日からセンパイの家に泊めてもらうことになっちゃって」
「えっ、輝君の家に!?」
「うん」
桜と名乗った少女は、苦笑しながら身の上を話した。
父親が浮気して出ていったこと。
それが原因で母親が今、心情に余裕がなくなっていること。
その余裕が戻るまで、なるべく負担をかけないよう桜だけ俺の家に泊まることになったこと。
大事になったら母親が尚更疲れるから、内密に、母親以外の誰にも言わず俺の家に泊まることになったこと。
故に、桃々にはそれを周りに言わないで欲しいこと。
あとは、父親逃亡の末の金銭的余裕の無さから、桜はもう学校には行かないこと、など。
多大なる嘘の中に、ほんの僅かな真実を混ぜて。
いかにも辻褄が合うかのように、まだ帰る家があるかのように。
桜はスラスラと吐ききった。
当然、その嘘が俺以外に見破られることはなく。
俺以外に知られることもなく。
「わかりました。誰にも言いませんから、安心してくださいね?」
桜を慰めるような桃々の気遣いは、なんの役割も果たさずに流れていった。
*
あれから間もなく、俺たちは家に戻ることになった。
その帰路につきながら思う。
先ほどの桜の言葉は、どこまで本気なのだろう、と。
もちろん全て事実の可能性はある。全てに裏がなく、本気で俺を貶めようとしてる可能性は大いにある。だが、偽りを含んでいるの可能性もないだろうか。
つまり、今の何も無い状態から、ただ何かを得たいだけだったとしたら。
隣で歩いている桜をこっそり横目に見る。
桃々に笑いかける少女は、先ほどの狂気の発言者とは全くの別人にしか見えなかった。少女はただ、一人の状態から抜け出したいだけなのではないのだろうか。もしそうだったら、俺は今少女の側にいてあげるべきだろう。同年代の女の子が、今にも自殺しそうな状況なのだから。
でも、もしアレが全て本気だったら。
本気で俺を貶めようと思っているのなら、今すぐ桜を振り切って逃げるべきだ。さもなければ、俺の周りに危害が及ぶ可能性がある。
例えば、桃々に。そうなってからでは遅い。その場合、いち早く桃々を桜から遠ざける必要があった。
桜がどちらなのかを見極めなければならない。
俺のアパートまでたどり着くと、そこで決意を固めた。
「なぁ、桃々。先に家に入ってご飯を作っててくれないか? 桜と二人で話がしたい」
「えっ……?」
桜が予想外そうに目を見開いた。
ただ、今度は俺が逃げる暇を与えない。
「話終えたらすぐ戻るから」
「は、はい。なら先に失礼しますね」
桃々に家の鍵を渡し、その背中を見送る。
周りには人影も見えない。俺と桜の二人きりになった。
「それで、お兄さん。話って?」
その声音は、出会ったばかりの時のものに戻っていたような気がした。
「一つ尋ねたいことがあってな」
少女に真っ正直に向き合う。
やはりその瞳も、深淵を覗かせるものだった。
少女はあの時と何も変わっていない。途中で見せた生気も、上目ッ面でしかなかったわけだ。
俺は返事を半ば確信しながらも、一応口を開く。
「俺から無くそうって話、……どこまで本気だ?」
「そりゃあもう、全部だよ」
即答だった。
笑みを浮かべてそう答える桜を見て、俺は完全に悟る。この少女はもう、この世を諦めきっているのだと。本気で何も持たないのだと。
ならば、こちらからの要求はただ一つ。
「もう俺たちに関わらないでくれ」
俺は別に堕ちたいわけじゃない。桃々を巻き込みたいわけじゃない。
もちろん桜のことは心配だ。可哀想だと思うし、どうにかしてやれないかとも思う。ただそれ以上に、この少女と関わり続けるには、デメリットがでかすぎた。
桜は俺の発言に、静かにうつむいて反応を見せてはくれない。
「それは……なんで?」
「なんでもなにも……俺は何も失う気はないし、桃々に危険を侵させる気もない。それだけだ」
そう断言する。それは俺の本心だった。
ふーん、と。少女はつまらなさそうに足元の石を蹴る。
それは玩具を取り上げられた子供のようにも見えた。
それから暫く沈黙が続き、どうしようかと俺が視線をさ迷い始めた頃。
不意に桜が口を開いた。
「ところでお兄さんさ……桃々ちゃんのこと、好きなの?」
「え……?」
脈絡のないその質問に、俺はまともな返しが出来なかった。
「だから、お兄さんは桃々ちゃんのことが好きなのか聞いてるの」
「急になんで……?」
「いいから答えて」
少女の謎の圧力に俺は思わず答えてしまう。
「あぁ、好きだよ」
「へぇ……なんで?」
「小さい頃から仲良くしてるし、今もこうやって毎日ご飯を作りに来てくれてる。そんな献身的な可愛い女の子、好きにならないわけないだろう?」
それも俺の本心だった。
日頃から毎日顔を会わせてるんだ。意識しないわけがない。
そんな主張を聞いて、少女は尚も質問を続けた。
「なら、見た目だけで言ったら、私のこと可愛いと思う?」
またも質問の意味がわからなかった。が、桜の表情に冗談の色が見当たらなかったため、俺は真面目に思考を回した。
前髪に少し隠れる大きな目に、小さい口。後ろ髪は肩までかかっており、癖ッ毛1つない。
年齢は俺より僅かに下だろうか。羽織ったパーカーの輪郭からは、バランスの良い身体がうかがえる。
ものを満足に食べていないせいか若干痩せこけているものの、上目遣いでこちらを覗き込む少女は、余裕で美少女の域に入っていた。
「あぁ、可愛いと思う」
「そっか……」
そう素直に答えると、少女は嬉しそうにはにかんだ。そのあどけない笑顔を見て、先の会話がなく、桃々のことも知らなかったら一目惚れしたかもな、と不意に根拠もなく思った。
「お兄さんは、桃々ちゃんを傷つけたくなくて、自身も何も失いたくないんだよね?」
「うん」
「ならさ……」
そこで桜は、決意するかのように顔を上げた。
「私がお兄さんを、全力で惚れさせてあげるよ」
こちらを真っ直ぐに見つめる瞳には、強い意志がうかがえた。
俺はその突拍子の無さに、上手く反応を返せなかった。
「桃々ちゃんのことを忘れて、私のことしか考えられなくしてあげる。そしたらさ、桃々ちゃんのことなんて気にしなくてすむようになるし、私以外を失っても辛くなくなるでしょ?」
「な、何言って……?」
俺の動揺を、楽しそうに眺める。
それから桜は不意に目の前まで歩いてくると、俺の手を掴んで両手で挟み込むようにそっと握り、胸に抱いた。俺の手の側面に、何か温かくてしなやかな感触が宿る。
互いの息が届きそうになるくらいまで顔を寄せ、瞳満面に俺を映し、可憐に笑みを浮かべた。
「ふふっ……顔が赤くなってるよ、センパイ? ……私のことしか目に入らないくらい、私に夢中になるようにしてあげるから……覚悟しててね?」




