1話
次話のみ一時間後に更新。
3話以降は毎日22時に更新予定。
ふと、胸の辺りの感触に引きずられて微睡みから目が覚める。未だ不覚醒な目を薄く開くと、黒く澄んだ大きな瞳と至近距離で目が合った。
「おはよう、センパイ……」
俺の腕の中に横たわる少女の、小さく可憐な口の端が僅かに釣り上がる。それは、聴いた者の心を躍らせるような透き通った声音だった。ほぅ……とその吐息が俺の首筋に当たる。
後ろ髪は肩にかかるかかからないか程度で、その長い前髪は僅かに少女の瞳を隠していた。ゆったりとした白いパーカーの隙間から、その胸元が見えそうで見えない絶妙な位置を保っている。
「ねぇ……今、私のココ見たでしょ?」
そう言いながら、少女は俺の胸元を指でなぞる。首筋から下へ、鳩尾付近までくるとまた上へ。
「気のせいだよ……」
「ふふっ、見たかったら見てもいいんだよ……センパイ?」
不敵に笑った少女は、今度は俺の右手を捕まえると、優しく導くようにその手を動かしていった。その行き着く先は、思春期の、まして寝起きで思考停止した高校生には到底抗えるものではなく、俺は導かれるままに……
ーーーガチャッ
不意に部屋に響く扉の音。それで急に我に帰った俺は、今の状況を俯瞰し慌てて手を引っ込めた。
「あっぶねぇ……」
「むぅ……あとちょっとだったのに」
少女は可愛らしく頬を膨らませると、それからニヤッと笑って部屋に入ってきた人に目を向けた。
「おはよう、桃々ちゃん」
「はい、おはようございます。……何故輝君の布団に潜り込んでいるのかは後で聞くとして、早く輝君から離れてください」
桃々ちゃんと呼ばれた少女は、俺の布団の元までやって来ると先の少女が被っていた掛け布団の部分だけ剥ぎ取った。
「うわっ……寒い。桃々ちゃん朝から手厳しいなぁ……」
「そうですね。こんなことしてなかったらもっと優しかったかもですね」
ブルッと震える少女を冷たくあしらうと、今度は穏やかな目を俺に向けてくる。
「輝君も起きてください。朝御飯が冷めちゃいますよ?」
「あぁ、ありがとう」
そう言って優しく微笑みかけてきた。
少女の名前は桃々。俺の古くからの幼馴染みで、訳あって毎日ご飯を作りに来てくれている。髪はロングのストレートで、右上に花の髪止めをつけており、膝まである薄ピンクのエプロンは、少女の家庭感を否応なしに引き立てていた。
「センパイ、早く食べよ?」
そう手を差し出してくる少女に礼を述べながら捕まり、起き上がる。それを受けて、少女は満足そうに笑みを浮かべた。
それだけ見ると、数日前自殺しようとしていた人の表情には全く見えなかった。
*
ある秋の夜の、とっくに日がくれた頃。冷たい風が頬を撫でる中、俺は速足に家に帰っていた。家の近くにある大きな橋をそそくさと横切って行く。そこまでは、普段の日常だった。
ただ、その日、普段と違ったことが1つだけあった。
「……ッ!? おい! 何してんだよ!」
橋を半分近く過ぎたところで、ふと縮こまった目線を上げると、橋の手すりの上に垂直に立った少女の人影が視界の端に入った。
俺は半ば反射的に、慌てて少女の手を掴んで手前に引っ張る。少女は体にほとんど力を入れてなかったらしく、あっさり俺の方に倒れ込んできた。
少女の体と縺れ、少女に乗っかられる感じで俺も尻餅をつく。
『大丈夫か?』
咄嗟にそう言おうとして、言えなかった。
少女の瞳が目に入ったから。真っ黒一色で、何も思ってないような、逆に全てを恨んでいるような、全てを諦めているような、そんな目だった。
あぁ、自殺をしようとしたんだな、と。
俺は瞬時に理解出来た。と同時に、どうすれば良いかもわからなくなった。顔も全く知らない、まさに自殺を試みていた同年代の女の子。なんて声をかけたら良いのかがわからない。どう扱ったら良いのかがわからない。
そんな俺の動揺が見てとれたのか、少女はそこで不意に口を綻ばした。
「どうしたの? お兄さん。私が自殺しようとしたの、そんなに驚いた?」
違う。自殺に驚いたんじゃない。君の瞳に驚いたんだ。
俺が沈黙を保つなか、少女は続ける。
「自殺を止めることが出来て、今どういう気持ち? 誇らしいのかな? 満足気かな?」
「…………」
「お兄さんは、自殺をしようとした人に、どういう言葉を投げ掛けるつもりだったのかな? ……それとも、何も考えてなかったのかな?」
そうだ。だから、本当に追い込まれた人が、こんなにも無感情な目を、声を持ってるなんて、こんなにも狂気に満ちているなんて、夢にも思わなかったんだ。
自殺を止められてイラついているのだろうか。表情からは全くわからない感情を抱えて、少女は口数多目に畳み掛けてくる。
「そんなに怖がらなくていいのに」
「…………」
「……じゃあさ、これも何かの縁だと思って私の話を聞いてよ。私を助けたツケだと思ってさ」
俺はすぐさまコクリと頷いた。そうじゃないと、どんなことをされるかわからなかったから。少女が何を思っているのかがわからない、その不気味さが怖かった。
少女はそれを満足気に見届けてから、身の上を話し出した。
少女には、皆と同じように両親がいたこと。
皆とは違って、その父親が浮気で家を出ていったこと。
皆とは違って、母親が虐待をしてくるようになったこと。
皆とは違って、学校に行けなかったこと。
皆とは違って、母親に八つ当たりをされて、今日、家を追い出されたこと。
皆とは違って、祖父や友達がいないから、行くアテもなくて、さ迷っていたこと。
そして、
皆と同じように、お腹がすいて、寒くなって。
どうしようもなくなって、自殺しようとしたこと。
「ねぇ……わかるかな? お兄さんと違ってさ、私には今、何もないんだよ。お兄さんはさ、自殺を止めるのは良いことだって思ってるのかもしれない。でもさ、私にとってはありがた迷惑なんだよね」
「…………」
「何かを持ってる人が羨ましい。何かを持ってる人が妬ましい。何も持っていない私が虚しい……本当に、それだけなんだ」
そう語る少女には、体験してきた人にしか表せない生々しさがあった。
それと同時に、説得力もあった。
だから俺は、何も言い返すことが出来なかった。
不意に少女が、あっと思いついたように、その黒い瞳を見開く。
「……そうだ。いっそのことさ、お兄さんから全部奪っちゃおっか。せっかくこうやって出会ったんだしさ」
「……ッ」
「いや、奪うじゃないね。無くすんだよ。お兄さんから全部無くしてあげる。ほら……名案だと思わない?」
「……無くす?」
少女は、まるで恋する乙女のように嬉々として話を続ける。
「そう、無くす。今、私はお兄さんとこうやって向き合ってるでしょ? つまり私には今お兄さんがあるわけだ。お兄さんだけが、あるわけだ。でも、こうやってるお兄さんは、私だけじゃないんでしょ? だから、お兄さんしかない私と同じように、お兄さんも私しかないようにしてあげる。……何も持たない私の、全てを使って」
「……ぁ」
恐怖で喉が震える。まともな声が出なくなる。少女のその言葉には、重みがあった。全てを真実に塗り変えるような、重みがあった。
少女を真っ直ぐに捉えられなくなる。
少女のことが、わからなくなる。
ただ、少女はそれすらも見通しているかのようで。
「そしたらさ、少しくらいはわかるんじゃない? 私の今の気持ち」
どうすれば良いのだろうか。逃げ出せば良いのだろうか、大声で叫べば良いのだろうか。それとも、素直に従えば良いのだろうか。
そんな俺の葛藤を知ってか知らずか、少女は能天気に続ける。
「あー、でも。お兄さんを殺したいわけじゃないからなぁ……しょうがない、家とお金だけは無くさないであげるから。……だからさ、逃げようなんてしないで?」
「……ッ!?」
どこまで見抜かれているのだろうか。
わからない、だから恐ろしい。
俺に拒否権なんて、一切無いように思われた。
「お兄さん、こんな時間に一人ってことは一人暮らしかな?」
「……あぁ」
「ならさ、私をお兄さんの家に泊めてよ。お兄さんに張り付こうにも、住む場所がないんだよね。……一緒に住んでいる間、私を思う存分犯してもいいから……ね?」
「ねぇ、私と一緒に堕ちよう?」