第8章 電話
8.電話
11月のカレンダーをめくり12月が出てくると、沙希はため息を吐いた。今年ももうあとこれ一枚かと思うと、何故か自然と息が漏れた。それにしても毎年この時期にそう思う自分をなんとかしたいなとぼんやり考えていると、6日についた赤丸が目に飛び込む。12月6日・・・大地の誕生日だった。今年はメキシコで、どんな誕生日を迎えるのだろう。今年はちょうど6日は日曜日で、大地も仕事が休みの筈だった。新しくできた友達も大地の誕生日を知らずに、一人でいつもと変わらない日曜が過ぎて行くのかな・・・。それとも・・・?そんな想像を胸に、沙希は一つ心に決めていた。
サロンラヴィールも12月に入ると、いよいよ本格的にフリーパスチケットのお客様の予約でいっぱいになった。
「沙希ちゃん最近どう?仕事に慣れてきて、楽しい?それとも辛い?」
青山が 閉店後着替えに行こうとする沙希を呼び止める。
「今日私『先生』なんて呼ばれて、ドキッとしちゃいました。凄く責任の重いお仕事してるんだなぁって・・・。でも、あらためて頑張ろうと思いました。ここでは色々と自由に任せて頂くので、やりがいを感じています。ありがとうございます」
安心するようにニコッと微笑むと、青山が言った。
「普通の商売は お客様にこちらから『ありがとうございます』って頭を下げるけど、『先生』と言われる職業って むこうから『ありがとうございます』って頭を下げて頂けるお仕事なのよね。その分責任は重いっていう事。それだけは常に忘れないでね」
その日沙希は、とても充実した気持ちで家路に着いた。
土曜日仕事に出ると、加賀美が何やら青山と深刻な話をしていた。それを傍らに感じながら 朝のサロン内の清掃をしていると、青山に呼ばれる。沙希は雑巾を手に持ったまま駆け寄った。
「明日の出勤 チーフだったんだけど、ちょっと・・・急用でどうしても出られなくなっちゃったの。もし出来れば・・・お願いしたいんだけど」
明日の日曜は大地の誕生日だった。しかし彼は日本にいる訳でもなければ時差もある。そして更には、何の約束も交わしていない。沙希は快く引き受けた。加賀美は恐縮して頭を下げていたが、目の下には薄っすらとクマが出来ていた。何があったのか少し心配しながら掃除に戻ると、背後から又二人の会話が聞こえてくる。
「今日もうお休みにして、行ってさしあげた方がいいんじゃない?サロンの方は河野さんと何とかするから 気にしないで」
「いえ、今日は親戚の者が付いていてくれてますから」
その日客の居ない所で見せる加賀美の素顔は、今まで沙希が見た事もない程 暗く思いつめていて 話し掛ける事すら出来なかった。
加賀美の代わりに受けた仕事も無事終え、いつもと何ら変わりなく 何事も無かったかの様に 日本時間の大地の誕生日が過ぎて行った。もちろん大地からの電話が鳴る事はなかったが、沙希はそんな事よりも、メキシコで誰からも『おめでとう』と言ってもらえない誕生日なんて 淋しすぎるではないか。そう思っていた。そして月曜日の朝、沙希は一時間早く起き 身支度を整えると受話器を手に取った。この間繰り返し何度もかけた番号を見ると、あの時の自分の心の動きが鮮明に思い出された。そして今まで累計すると 10回以上鳴らした電話に、今日初めて応答がある。沙希は 聞きなれないスペイン語と 久し振りに話す英語にドキドキしながら名前を告げて、大地を呼び出してもらう様伝えた。どうやら相手には言葉が通じた様子で、待っている間の受話器からは何やら賑やかな声が聞こえてくる。沙希が メキシコ時間に合わせた時計に目をやると、夕方の4時になろうとしているところだった。どれ位待っただろう。沙希の記憶が『大地にとって私って何なんだろう』まで遡ったところで、元気な声が耳に飛び込む。
「沙希?!元気かぁー?」
本当に久し振りに聞く声だったが、いつもと変わらず沙希の良く知っている大地がそこにいた。思わず胸がいっぱいになり声を詰まらせると、大地が心配そうに問い掛ける。
「どうした?何かあったのか?」
「お誕生日おめでとう」
何とか絞り出した声で、一番伝えたかった事を真っ先に伝える。
「おう!ありがとう。その為だけにかけてきてくれたの?」
短い時間の中で、もう沙希の先日から引きずっていた不安は すっかり晴れてなくなっていた。大地の声を一言聞いただけで こんなに明るい気持ちになれるなら、もっと早く電話すれば良かったと 少し自分の行動を馬鹿馬鹿しく思った。
「元気にしてた?」
「俺は元気にやってるよ。心配しないで。この間俺、電話したんだよ。でもまだ帰ってないって」
「あの日はたまたま遅くて・・・」
青葉に横浜駅のホームで、自宅の電話番号を教えた光景が甦る。一瞬沈黙が走ると、大地の電話の向こうから 賑やかな笑い声が割り込んでくる。
「随分・・・賑やかだね」
「あぁ。俺の誕生日、皆で祝ってくれてたんだ」
「皆って・・・?」
「ルームメイトの二人とその友達」
「・・・女の人の声もするみたい・・・」
「あぁ。前に話したルームメイトのペレスの友達だよ」
「・・・楽しそうだね・・・」
「皆、本当にいい奴らでさ。沙希が近くにいたら、紹介したい位だよ」
沙希の胸に 隙間風が吹いた。そして少し、大地を遠くに感じた。
「良かったね。いいお誕生日になってるみたい」
思わず心にもない事を口走る。
「沙希は仕事どうだ?頑張ってるか?」
「うん。最近は日曜日も出勤したりしてるんだ」
そんな事を話したいんじゃなかった。本当はもっと、いっぱいいっぱい『愛してる』と言って欲しかった。仕事の事なら 手紙でも伝えられる。でも、電話で相手の声を聞きながら 大地を傍で感じながらでないと 伝わらない事だって沢山ある。沙希はもどかしさを握りしめたまま、何故か良い子を演じてしまうのだった。
『この間は何ですぐにもう一度かけてきてくれなかったの?ずっと待ってたんだから』
『大地にとって私って何なの?』
『普段私の事なんて忘れちゃってるんでしょ?』
そんな言葉達が、沙希の心の中で渦を巻く。
「もうすぐクリスマスだろ?24日の夜って、沙希 仕事の後真っ直ぐ帰って来られる?」
沙希の胸が少し高鳴る。
「電話で・・・二人でクリスマスしない?」
「ええっ?」
一体どういう事なのか分からなかったが、そんな事を大地の方から言って来てくれた事に 沙希は感激していた。
「俺頑張って早起きするからさ。同じもん食って、同じもん飲んで、電話で話しようよ。俺帰ってやれないから、それ位しかクリスマスしてやれないけど・・・」
さっきまで心の中で大地に対して不満を言っていた自分が恥ずかしくなる。
「でも電話って・・・外で?じゃないよね・・・?」
「来週いよいよ電話引くんだ。引いたら一番に電話して びっくりさせようと思ってたんだけど・・・言っちゃった」
大地の想いは充分すぎる程伝わってきた。『愛してる』と言って欲しくて、出来る事ならギュッと抱きしめて欲しい等と 自分がしてもらいたいばっかりで、一体自分は大地に何を与えてきたのか。目が覚める思いで、こっそり涙を拭う。
その日から沙希は、電話でのクリスマスデートに期待に胸を膨らませていた。時間を見付けては大地に指定されたシャンパンを買いに行った。そして大地がメキシコに発った後すぐに買った 天体望遠鏡で、久し振りに星空を眺めた。大地が日本から居なくなった今年の夏は、毎日欠かす事なく 誕生日プレゼントに貰った星“my angel”を眺めていた。そして毎晩大地に思いを馳せ、『おやすみなさい』を忘れなかった。あの頃は 何故かあの星に手を合わせ『明日も大地にとって良い日が訪れます様に』と祈ったのに、最近では空を見上げる事すらしなくなっていた。発つ前の沙希の誕生日に『空も雲も繋がってる』と言ってくれた大地を思い出す。淋しさから逃げ出そうと、生活の中から相手の影を消そうとしていたのは 私の方だったのではないか。ただ求めるばかりで ない物ねだりを続け、陰からの愛情を与える事をやめてしまったのは 大地ではなく自分の方だった。しかしその間も彼は私を信じ、自分の道を切り開きながら 今できる事を精一杯してくれようとしていたのだ。部屋の隅で埃をかぶっていた天体望遠鏡が自分の大地への想いとダブって見える沙希だった。そして寒空に煌々と輝く満月が、干上がっていた沙希の心に もう一度潤いを与えた。
沙希との電話を終えた大地が皆の元に戻ると、電話を取り次いでくれたジルナが早速聞いてくる。
「彼女?」
「ああ」
それを聞きつけたペレスの女友達のターシャが 少し口を尖らせた。
「彼女いるんだ。・・・どんな子?」
大地がスペイン語でどう伝えようか迷っていると、ターシャが今度は挑戦的に、
「nice body?」
と言うと、自慢の胸を突き出してみせる。皆一斉にわっと沸き上がったが、大地は相変わらず表情一つ変えず、
「すごくいい子だよ」
彼のスペイン語のボキャブラリーでは、これで精一杯だった。しかしそんな大地の満たされた顔に気付き、ジルナが援護射撃する。
「彼女、凄く英語が上手だったよ。声も・・・可愛かった」
それを聞いた大地は、少し照れながら皆に言った。
「もし彼女がメキシコに居たら、皆に紹介したいよ」
すると又ターシャが言った。
「なんで彼女は大地と一緒に来なかったの?」
「そうだよ。なんで連れて来なかったんだよ」
ペレスまで質問する。皆が一斉に興味津々で大地の答えを待つ。大地も だいぶスペイン語にも慣れ 聞き取るにはあまり不自由しなくなったが、自分の意志や気持ちを伝えようと思うと やはりまだ至難の業だった。
「彼女には仕事があったし・・・俺も・・・」
上手く言葉が見つからない。しかし何か言わなくてはと気持ちだけが焦り、あまりに短絡的な言葉がこぼれる。
「俺は・・・独りで来たかったんだ」
自分で自分の言葉に首を傾げながら、言い訳を付け足してみせる。
「うまく言えないけど」
しかし下心のあるターシャとペレスの含み笑いが戻る事はなかった。
昼間っからワインとテキーラを飲みながら、賑やかなバースデーパーティーも そろそろお開きとなった。すると抜かりなくペレスが促す。
「後片付けは俺達やっとくから、大地は女の子達を送ってよ」
三人がアパートの玄関を出たところでシーラが 反対方向を指さして、
「私ちょっとこっち 寄ってく所あるから」
と姿を消して行った。別れ際に『予定通り』とも言いたげに、彼女はターシャにウィンクをした。が大地は 全くそれに気が付いてはいなかった。何も知らずに大地は、道の反対方向に消えていく影に向かって 笑顔で手を振ってみた。
「今日はありがとう!気を付けて!」
そして夜の道をターシャと二人歩き始めると、突然ターシャが腕をからませてきた。驚いて一歩後ずさりする大地に、ターシャが上目使いで言ってみせた。
「夜は危ないから、しっかりエスコートして」
納得せざるを得ない理由に押し切られたまま、二人は足並みを揃えて夜道を進んだ。
「アカプルコのビーチにはもう行った?」
ターシャがやけに顔を近付けて話し掛ける。
「まだ・・・」
懸命にターシャとの距離を一定に保とうとする大地。
「あそこはすっごく綺麗なビーチだから、行っておいた方がいいわよ。今度案内してあげる」
「ありがとう」
そうは言ったものの、大地はさっきから少し不自然な行動のターシャを警戒していた。
「ビーチで新年を迎えるなんていいじゃない?仕事お休みでしょ?2~3日バカンスに行こうよ」
「2~3日?!」
大地は目をむいた。
「あら?短い?」
言葉を失っている大地を察して、今度はターシャが驚いた。
「日帰りのつもりだった?まさか!無理よ!一体どれだけの距離があると思ってるの?」
「アカプルコがどの辺にあるのか・・・良く知らなくて」
「飛行機に乗って行くのよ」
大地は思わず自分の耳を疑った。しかしそんな大地を ターシャは面白がっているところもあった。
「ごめん。それじゃ俺は・・・」
断ろうと必死の大地が口ごもっている隙に、ターシャが釘を刺す様に言った。
「私の誕生日なの。楽しみにしてるから。いっぱいお祝いしてね、大地!」
上目使いで大地を見つめるターシャの瞳は、甘えた様な そして又色っぽく潤んでいて、絡ませた腕に自分の体を押し付けてきた。大地は呆気にとられたまま、断る事さえ忘れてしまっていた。
彼女のアパートの前まで辿り着くと、何故か大地はホッとしていた。
「お茶でもどう?」
「いや、帰るよ」
「じゃ・・・ビールがいい?」
「帰るよ。今日はありがとう。おやすみ」
早く解放されたい一心で 一気にまくし立て、大地は彼女に背を向け 歩き出そうとしたその時、・・・その時だった。突然大地の肩から首のあたりにターシャの両手が回ると、あっという間に目の前の視界が遮られる。何が起きたか分からないまま、再び目の前に焦点が合うと ターシャがにっこり微笑んでいた。
「おやすみ」
ターシャの言葉と同時に、頭が働きだす。が、回線が混乱していて所々ショートを起こしていた。そのまま来た道へ一歩足を踏み出すと、再びターシャの左手が口元へ伸びる。大地の唇に付いた口紅を 細い指先が拭っていった。ターシャの長い爪が少し当たるのを遠い意識で感じながら、大地は再び夜の闇の中へ消えていった。自分のアパートの前まで来て、段々と脳が冷静さを取り戻してきていた。そして大地は、Tシャツの袖で口を拭うと 頭をうなだれたままアパートのドアを開けた。
「皆でスケート行くって話、どうして連絡してこないのよぉ!」
祥子が電話口で、がなり声を上げている。以前青葉が提案したスケート行きの話を、沙希はすっかり忘れていた。しかしその間にも青葉は 合コンの時のメンツだった高校の同級生に早速連絡を取っていて、その中の一人と 祥子の同僚が意気投合していて、そこから祥子に話が回ってきていたのだ。
「年末年始の辺だって。もうすぐじゃないのよ!」
「あぁ・・・ごめん」
「その後どうなってんの?青葉君とは」
「別にどうもなる訳ないじゃない。私彼氏いるんだし」
「じゃ、あれっきりな訳?・・・ないか」
沙希の脳裏に、黄金町でばったり再会した時の光景が甦る。
「仕事帰りに偶然会って・・・ラーメン食べに行ったけど・・・」
「それって本当に偶然?沙希の事待ってたんじゃないのぉ?」
一瞬ドキッとする。
「えっ?まさか」
あの時の青葉を思い出してみるが、あのシチュエーションは作られたものだとは なかなか考えにくかった。
「スケート・・・悪いんだけど、他の皆で行ってくれないかなぁ」
「何言ってんのよ。それじゃ、青葉君が誘った意味がないじゃない!」
さっぱり乗り気でない沙希が モゾモゾ何か言っていると、祥子が直球を投げ込んできた。
「沙希はさ、青葉君の事どう思ってるわけ?嫌いなの?」
「嫌いじゃないけど・・・」
また沙希が口の中でもごもご喋る。
「まったくはっきりしないんだからぁ!青葉君にもさ、ちゃんとはっきり 興味ないとか、嫌いとか、迷惑とか言いなよ。思わせぶりな態度とか取ってんじゃないの?」
「そんな事ないよ!」
そう言った沙希の頭では、また横浜駅のホームでの一部始終が再生されていた。
祥子から電話のあった次の日、それを知ってか知らないか 青葉から連絡が入る。沙希が丁度 望遠鏡で星を眺めている時だった。少しの期待を胸に受話器を上げるが、聞こえてきたのは やはり現実の声だった。
「あれ?祥子から連絡がいったの?」
何故か青葉のタイミングの良さを勘ぐってしまうのだった。しかし青葉はすっとんきょうな声で それを否定した。
「やっぱりなかなか黄金町で会わないね」
青葉の何気ない世間話に、昨日の祥子の言葉がリフレインする。
『本当に偶然?沙希の事待ってたんじゃないの~?』
沙希が返事をしないと、青葉が最初よりも明るい声を出す。
「今何してた?」
「いや、別に・・・。ボーッとしてた」
星や空を眺めていた事は、沙希にとっては 大地との大切な領域で、他の誰にも入ってきて欲しくはなかった。そのまま何となく会話をし、何となく時間が流れていったところで、青葉が核心を突いてくる。
「クリスマスどうしてる?」
「仕事だから」
そう言いながら沙希は、この間の大地との電話の後で買いに行ったシャンパンボトルを 手でそっと触りながら 自然とほころんでくる頬を押さえた。
「仕事の後とか、会ってもらえないかなぁ?」
その言葉で、緩んでいた頬も一瞬にして引きつった。
「ごめんなさい。私・・・その後も予定が入ってるから」
「ほんのチョットでもいいんだ。30分・・・いや、10分・・・5分でも」
沙希は必死になって拒み続けた。実際24日は大地と約束をしていたが、それだけではなかった。昨日祥子に『思わせぶりな態度取ってんじゃないの?』と言われ、少し自分なりに意地になっているところもあったのだ。ようやく青葉が諦めたところで、沙希は思い切ってスケートの話題を切り出す。
「私・・・スケート・・・悪いんだけど・・・行けないかもしれない」
「どうして?!」
青葉は、沙希の予想していた通りのリアクションだった。
「予定が・・・合わなさそうだから・・・」
「年末も?年明けも?いいよ、じゃ、沙希ちゃんに予定合わせるよ。いつなら平気?」
「いや・・・全然予定も立たないし・・・悪いから・・・。皆で楽しんできて」
リング上で、コーナーに追い込まれた様な気持ちになっていた。そんな沙希も必死でパンチを返そうとするが、なかなか相手には届いてはいなかった。
「それじゃダメだよ。俺が沙希ちゃん誘ったんだから。そんで沙希ちゃんが『皆で』って言うから、俺OKしたんだよ。沙希ちゃんが来られないんじゃ、俺行く意味ないじゃん」
青葉も段々とストレートな言い方になってくる。
「そんな事ないよ。皆と行ったって、きっと・・・楽しいよ」
「沙希ちゃん、俺の事・・・嫌い?」
青葉の右ストレートが飛んでくる。
「そんな・・・嫌いなんて・・・。そうじゃなくて・・・ただ予定がね・・・」
とっさに口をついて出た言葉が災いを招く。
「じゃ、沙希ちゃんの予定に合わせるよ。考えといて」
沙希はすっかりノックアウトされ、立ち上がる事すら出来なかった。
サロンラヴィールでは ここ一週間、お客様が引くと同時に 加賀美も慌ただしく退社していく日が続いていた。仕事に対する責任感と生真面目さは人一倍の加賀美が、閉店後の作業を残して帰るのには 何かとても大きな理由があるに違いないと 沙希は感じていた。時間には正確な加賀美が ある朝 開店間際に駆け込んできて、沙希に頭を何度も下げながらこう言った。
「サロンの掃除も仕事も、カルテの整理も みんな河野さんにやってもらっちゃって、本当にごめんなさい」
いつも出勤時には 髪の毛もメイクもきちっとしている加賀美が、この日口紅すら塗っておらず 一段と顔色が悪く見えた。そんな加賀美を目の前にして、気の利いた言葉一つ出て来なかった。そして、とても『何があったんですか?』とは、聞く事は出来なかった。そしてこの日も例外ではなく、最後のお客様を見送って 加賀美が退社すると、青山が沙希を呼んだ。そして珍しくテーブルに向き合って腰を下ろすと、青山は 少し小さめの低いトーンで話し始めた。
「チーフの事なんだけど・・・」
そう言われた沙希だったが、青山の表情から暗い内容である事を確信すると、自然と猫背になるのであった。
「チーフのお父様が、脳梗塞で入院されたらしいの。今はICUに入られてて、意識もないらしいんだけど・・・。チーフの所、もうお父様しかいらっしゃらなくて・・・チーフが20歳位の時にお母様亡くなられてて・・・。一人娘さんで ご兄弟がいないから、お父様に付いていてあげられるのもチーフしかいないんですって。今はね、田舎から お父様の妹さん・・・かな、ま、チーフの叔母様に当たる方が 昼間は病院に行って下さってるらしいんだけど。・・・だから、ちょっとここ最近 チーフバタバタしてたんだけどね。その分私がチーフの分もって思ってたんだけど、どうしても河野さんにもシワ寄せがいっちゃって・・・ごめんなさいね」
沙希は無言で首を横に振るしか出来なかった。
「それでね、これからなんだけど。暫くお休みしたらってチーフに言ったんだけど『大丈夫です』って聞かなくて。多分、フリーパスのお客様の予約も増えてきてるし・・・それを気にしてるんだと思うの。それに、休日出勤の件も・・・自分から先頭切って『やります』って言った事に責任感じてるんだと思うんだけど・・・ちょっと無理だと思うのよね。だからチーフの代わりに、私と河野さんで交替でやりましょう」
「あの・・・」
そこまで聞いて、やっと沙希は声が出た。
「私で良ければ、毎週出勤させて下さい。店長は せっかくのお休みの日ですから、お子さん達と一緒に過ごしてあげて下さい。もともと休日は、一人で回せる様にしか予約受けてない訳ですから。それとも・・・私じゃ・・・まだ不安ですか?」
「頼もしくなったわね」
青山は思わず、沙希の成長ぶりに顔がほころぶのだった。そして ひとしきり話がまとまると、青山が言った。
「でも沙希ちゃんだって、日曜日 デートとかお友達との約束とかあるでしょ?大丈夫?」
「今・・・遠距離なんで、全然予定とかもないし 平気なんです」
笑ってみせる沙希とは対照的に、目を丸くする青山。
「どこなの?彼は」
メキシコと聞いて、更に目をむく青山。そして少し沙希のプライベートの話を聞くと、今度は穏やかな顔つきになる。
「うちの主人とも、遠距離を乗り越えて結婚したの。だから頑張って」
思いがけない青山の告白に、今度は沙希が目を丸くした。
「うちの場合は、青年海外協力隊で行ってたんだけどね。何度もダメかな~って時もあったから思うけど、上手くいくのも そうじゃないのも紙一重なのよね、きっと。だけど今は、あの経験があるから お互い考えてる事とか気持ちとかを貯め込まないで話せる様になったみたい」
沙希にとっては、この何気ない言葉が 何よりもの励ましになった。
日本中のクリスマスツリーが この日の為にドレスアップし、世界中の子供が 待ちに待った聖夜が訪れる。朝からこの日は ソワソワ ウキウキしていて、沙希の仕事にも熱がこもる。お客様との会話も やはり今日はクリスマスの話題で、様々な過ごし方があるなぁと つくづく感じていた。さすがの青山も 今日は急いでいる様子で、沙希と一緒にサロンを後にした。ここのサロンから青山の自宅は歩いて5分位の所にある。青山と別れた後、沙希は自分の中のはやる気持ちをどうしても抑える事が出来ず、思わず小走りになる。早く家に着いたところで 大地からの約束の電話が早まる訳でもないのに、それを分かっていながらも、足は止まらないのだった。そしてもう一つ、今日は久し振りにお洒落をした。もちろん大地に会える筈もなく、その格好を見て『かわいいね』と声を掛けてくれる訳でもなかった。しかし大地の為に、大地の事を考えながら 気持ちだけでも一緒のクリスマスに、沙希は本当に久し振りにお洒落をしたいと思えた。また、そんな自分がまだいた事に安心しているのだった。駅まで小走りで辿り着くと、さすがに息が上がる。一心不乱に改札口を目指して突き進もうとした その時、目の端に誰かが飛び込んできた。
「良かったぁ、会えて」
いかにも長い間待ってましたと言わんばかりに コートの襟を立て、マフラーもぐるぐる巻きにした青葉が沙希の脇で笑っていた。
「どうしたの?」
「沙希ちゃん待ってたんだ。良かったよぉ、空振りになんなくて」
沙希は この間祥子に言われた事を思い出し 言葉を失っていると、それに気が付いた青葉が弁解をする。
「待ち伏せしてたみたいだけど・・・誤解しないで。ただ俺、渡したい物があっただけだから」
クリスマス用にデザインされた小さな紙の手提げ袋を差し出され 沙希が戸惑っていると、青葉は少々強引に 沙希の手にそれを握らせた。
「メリークリスマス。これ貰って」
「でも・・・」
やんわりと断ろうとする沙希の言葉の腰を折って、青葉は改札を指さす。
「急いでたんじゃないの?」
「うん・・・そうだけど・・・」
「横浜までは出るんでしょ?」
気が付くと青葉と一緒に電車に乗っている自分に、沙希は心の中で 少し首を傾げていた。
「これから どっか行くの?」
青葉のとっさの質問に対し 返事を迷っていると、そのまま言葉が続いてきた。
「沙希ちゃんの今日の格好、かわいいね」
大地の為のお洒落を 青葉に『かわいい』と言われ、苦笑いが出る。
「この間、クリスマスは予定あるって言ってたし、お洒落してるから どっかまで行くのかなと思って・・・」
「うちの近くで・・・」
慌てて思いつきを口走る。
「そっか・・・残念。沙希ちゃんとデートしたかったんだけどな」
返す言葉もなく、沙希はただボーッと足元を見つめる。
「スケートは付き合ってもらうからね」
「あのね・・・」
沙希は窓の外の流れる景色に目をやりながら、話し出した。
「私、本当に暫く休みないの。だから・・・」
「お正月は?」
「お正月は家族と・・・予定があるし・・・」
さすがに青葉も少し沈んだ顔をする。今まで押して押して押し続けてきた青葉の こんな表情を見ると、沙希もついつい情が出そうになる。
「ごめんね・・・」
「謝んないでよ。まだ俺、諦めた訳じゃないからね」
こんな打たれ強い青葉を前に、沙希は少々困惑していた。
横浜駅でドッと流れ出す人波に紛れ ホームに吐き出されると、沙希は今まで少し息苦しかった自分を知る。
「じゃ、私・・・急いでるから・・・」
最後に青葉の顔も見たかどうかも覚えていない程 せわしなく階段を下り、JRの連絡通路へと入って行った。そして、今頃になって 自分の手に青葉から渡されたプレゼントの入った袋が下がっている事に気が付く。結局受け取ってしまった自分を後悔すると同時に、何のお礼も言わなかった事を反省しながら電車に乗り込んだ。
家の門を開けながら、沙希は腕時計を確認する。再び胸が高鳴る。玄関を入ると、いつもの様に 母が笑顔で出迎える。
「サンタさんが沙希の所には来たみたいよ。結構大きな荷物だったから、部屋に運んどいたけど」
軽い足取りで階段を駆け上がり 部屋に入ると、大きな包みが壁に立て掛けられていた。慌てて送り主を確認する。そこにははっきりと 大地の筆跡が残っていた。途端に沙希は、それまで手に持っていた青葉からの紙袋も 自分のバッグも無造作に放り出し、包みを解いた。すると中からは 大きなキャンバスに堂々と描かれた夕日と 赤々と染められた夕空がのびのびと臨場感いっぱいに広がっていた。メキシコで大地が初めて見た夕日は こんな感じだったのかなと考えながら その絵を見つめていると、自然と吸い込まれていく様で、まるで行った事もないメキシコの地の風を感じる事が出来た。
沙希は大地と約束した同じシャンパンとケーキをテーブルに用意し、その前に夕日の絵を飾って いそいそと電話を握りしめた。そして大地の声が地球を半周して ここまで届く瞬間を、今か今かと待ち続けた。約束の時間まで未だあと10分以上あったが、その10分が沙希には何倍にも感じた。退屈しのぎに、今まで届いた大地からの葉書きを読み返してみる。そこからはやはり、常に前向きに力強く歩いている大地の姿をうかがい知る事ができた。大地と出会ってからは もう4年以上の歳月が経っていたが、今まで見てきた大地の中で、今が一番いきいきと輝いている様に思えた。顔を上げて、目の前の大きなメキシコの雄大な夕日を見ながら、沙希は今頃になって やっと自分のした決断に納得する事が出来た。大地からメキシコ行きを初めて告げられた時、そして それから大地の顔を見る度に、更には 日本を発つ日の空港でも、沙希は笑顔で何度も、『頑張って』と言ったが、本当は泣いてすがって『行かないで』と言ってしまいそうだったのだ。その度に『行かないで』と涙を一緒に飲み込んで、その代わりに『頑張って』を吐き出した。声に出して大地にそう伝える事で、自分にも言い聞かせていたのだった。メキシコに行ってしまった後も、自分の傍に居てくれない大地を恨んだ事もあった。しかし今やっと、大地を笑顔で送り出した事が正しい選択だったんだと自信が持てた。そして心の底から 本当の『頑張って』を今なら言える気がしていた。
ふと我に返って テーブルの上を見ると、シャンパンを飲むグラスがない事に気付く。慌ててサイドボードの中に飾られたグラスを取りに行く。沙希はガラス製品がとても好きで、そのグラスも 以前ふらっと入った本牧の雑貨屋さんで見付けた物だった。沙希にとって衝動買いは滅多にない事だったが、これは例外だった。小ぶりなグラスだったが カットがとても繊細で綺麗で、沙希の心を掴んで離さなかった。そんな昔の事を懐かしく思い出しながら グラスに手を掛けると、その後ろから ガラスの天使の置物が顔を出す。箱根のガラスの森美術館へ 桜井に連れて行ってもらった時に、卒業祝いと称してプレゼントされた物だった。桜井のプロポーズを断り 別れてから、再び大地と付き合う様になって、このガラスの天使は グラスの後ろへと押しやられていた。そういえば桜井と初めてお店以外の場所で話したのも クリスマスイヴだったなぁ等と当時の映像と共に振り返る。その桜井もフランスへ行ってから早くも一年が経とうとしていた。来年一年で、言っていた2年間が経過し 出張から帰って来るのだろうと思うと、大地の3年も 案外あっという間に過ぎて行くんじゃないかという期待が生まれる。大地が日本を後にしてから 5カ月が経とうとしていたが、本当に沙希にとっては辛く長い時間だった。しかし禁煙もダイエットも最初が辛いと言うし、慣れた頃には少し楽になるって どこかで聞いた話で自分を慰めた。
そんな思いを巡らしていると、待ちに待った電話のベルが鳴り響く。受話器の向こうから聞こえてきたのは、間違いなく大地の声だった。
「メリークリスマス。沙希、帰ってやれないでごめんな。勘弁して」
「ううん、大丈夫。ちゃんと気持ちは届いてるよ。あっ、それから・・・ありがとう。絵届いたよ」
目の前の大きなキャンバスを見つめながら沙希は言った。
「あれ、ルームメイトのジルナに描いてもらったんだ。その夕日、ここから30分位行った、ちょっとした丘みたいな所から見たんだ。沙希にも見せたくて 写真撮ったんだけど、ジルナの絵も見て欲しくて 頼んで描いてもらったんだ。ジルナの事・・・前話したよね?」
沙希が優しく相槌を打つと、大地はそのまま言葉を続けた。
「いくつも絵見せてもらったんだけど、本当 いい色出してるし、どれも温かいんだよな。ジルナもそういう奴なんだ」
いつの間にか沙希は、キャンバスの前に座り込んでいた。
「ホント、すっごく素敵な絵。太陽の温もりとか力強さみたいなものまで伝わってくる。大地もそっちで、こんな夕日見たのかなって・・・想像してたんだ。本当にどうもありがとう。お友達にも・・・お礼言っておいてね」
思わずこれが、地球の裏側とを結ぶ国際電話だという事も 通話料金の事も忘れて、二人はしばし会話をした。同じシャンパンで乾杯をし、同じ様なケーキを食べながら二人は 穏やかな気持ちで話が出来た。そして 離れ離れになってから交わした電話は 数えきれる程しかないが、その中でも今日が一番沙希は 素直な自分でいる事ができた。
「あっそうだ。サロンの店長の青山さんってね・・・ご主人とは結婚前遠距離だったんだって」
「へぇ。結構いるのかもな」
「上手くいくのも ダメになっちゃうのも、紙一重だって・・・」
それが何なのかを 何故その時大地に伝えなかったのか、沙希にも理由が分からず、運命のいたずらとしか言い様がなかった。
「ねぇ大地。そっちにはかわいい子・・・いっぱい居る?」
初めは明るく話していた二人の会話も、時間と共に沈黙の間が刻まれる。しかしそれは 決して気まずいものではなくて、お互いがお互いを必死に感じようとしている故 生まれてしまうものだった。
「どうした?急に。・・・やっぱり不安か・・・」
そう問いかけた大地の耳には、何の言葉も返って来なかった。
「俺の中には、遠くに離れてたって いっつも沙希がいるし、それ以外の子には全然興味もないよ。信じて」
かすかに大地の耳に届いた 沙希の『うん』という言葉。今すぐ飛んで行ってもやれない、優しく抱きしめてもやれないもどかしさを抱えて、大地は言った。
「俺の前では 無理しなくていいんだよ」
こんな事位しか言ってやれない自分を、大地はつくづく情けない男だと思っていた。しかし沙希は これだけでもガソリンの補給がされたのだった。
「ありがとう」
明るい沙希が復活した。
「私、今日思ってたんだ・・・。大地は 今が一番いきいきしてて、輝いてるなって・・・。メキシコ行って良かったんだって思えた。今なら本当に 心の底から『私の事なんか二の次でいいから、そっちで精一杯頑張ってきて』って言える。忘れないでいてくれれば、それでいい。やっとそう思える」
しかし、こんな優等生な気持ちが長続きする筈のない事を、この時の沙希は 気が付いてはいなかった。