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輝けるもの(上)   作者: 長谷川るり
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第10章 不安

10.不安


 沙希にとっては 仕事に明け暮れた一年が なんとか無事に幕を下ろし、新しい年がやってくる。久し振りの家族との時間に 沙希も心からくつろいで、まるで去年の12月の忙しさが嘘の様にさえ感じられつつあった。一年振りに会う親戚や従妹との会話も 今の沙希にはとても新鮮に感じられ、一年前とは 自分の中で少しは何かが変わりかけていると思えた。それは、大地と離れた事や がむしゃらに精を出した仕事のお陰かどうかは定かではなかったが、このまま順調に 今年も一年を過ごしていけたらなぁと漠然とした抱負を抱いていた。


 メキシコの大地も、年末に勤め先でバンドのメンバーに抜擢された事もあり、この勢いに乗って今年一年もっと行動範囲を広げ チャレンジし、様々な経験を重ねたいと意欲満々で新年を迎えていた。メキシコへ発つ前に 友人達から『遠距離は最初の3ヶ月が勝負だ』と言われた期間も無事に乗り越え、大変良い関係だと思える状態で5か月目を迎えられた。そんな安心感が 大地の頑張りのベースになっている事も、本人は自覚していた。・・・・・・筈だった。

 年明けは 街中の何もかもがお休みで、当然の様にルームメイトのジルナもペレスも実家へ戻って留守だった。仕事が休みとはいえ、日本に帰らない大地は 一人で勝手気ままに過ごすつもりだった。しかし31日になって、メキシコに来たばかりの時に世話になっていた畠山夫妻から連絡があり『お正月は是非うちで一緒に』と誘われ、1日から泊まりで出掛けていった。畠山夫妻のお宅では おせち料理も用意されていて、お雑煮を食べながら 久し振りの日本食に大地は心から感激していた。まるで第二の故郷の様に慕い、くつろぎ、夫妻とも近況を語り合い 心ゆくまで羽を伸ばした。時間を見付けては 車で様々な所へ観光案内もしてもらい、畠山夫妻のご恩には ただただ頭が下がる思いだった。お陰で、勝手気ままな、言い換えれば味気ないお正月になるところを 一転して 家族の温もりさえ思い出させてもらえた、とても充実していて 有意義な連休となった。


「風邪どう?」

31日に風邪で高熱を出した青葉を、沙希はずっとどこかで気になっていて・・・と言うよりも、責任を感じているという言い方が近かったかもしれないが・・・青葉の正月休みの最後の夜に電話をかけてみたのだった。元気そうな明るい声で『あけましておめでとう』と言われ、一気にその心配も吹っ飛んだ。

「もう全然OK。ごめんね、31日 一緒に行けなくて」

ジュエリーショップJの店内で、思いがけなく青葉の母に挨拶をされた時の光景が甦る。

「一言言っといてくれたら良かったのに。私、青葉君のお母さんがいらっしゃるなんて知らないから・・・」

「あ、ごめん。あれ、お袋の店なんだ。あそこで学生ん時、ちょっと人手が足りなかった時に バイトさせられてたんだ」

「素敵なお店だった」

「言ったら喜ぶよ。ありがとう」

沙希は続けて ネックレスの修理代のお礼も付け加えると、青葉は当たり前の事の様にサラッと受け流した。青葉は今までと何も変わっていない筈なのに、沙希の方が何故か色々と考えを巡らせて 結局口から言葉が消えていく。自分でも思う様に話せない事を 不思議に感じていた。突然電話の向こうで黙りこくってしまった沙希に気を遣い、青葉が無言の時を破る。

「おふくろ、何か変な事言ってなかった?」

「ううん。・・・あ、でも・・・指輪のサイズ、大丈夫でしたか?って・・・」

あの時沙希の指に落とした青葉の母の視線を思い出すと同時に、自分の縮こまっていく心まで甦る。

「えぇ?・・・あぁ、ごめんね。俺何も言ってないんだけどさ、ただちょっとサイズの事だけ 相談したんだ。誰にあげるかだって言ってないし、沙希ちゃんの事だって話した事なかったのにな・・・。やっぱ親ってのは、気になるもんなのかね」

『男の子は何も話してくれないから つまらない』とこぼしていた青葉の母の笑顔が やけに優しく思い出される。

「あんまり話とか・・・しないの?」

「そんな事ないよ。必要な事は話すし、お袋の話も結構俺は 聞いてやってるとは思うんだけどなぁ。でもやっぱり、好きな子の事とかは話さないでしょ」

青葉の口から発せられる『好きな子』という言葉に、体が敏感に反応する。

「もしもし?」

再び相槌もなく 静まり返った受話器に、青葉が心配する。慌てて返事をすると、青葉が安心した様に こう言った。

「時々声がしなくなっちゃうから・・・。何か俺、まずい事言ってるかなぁ。それとも・・・別の事・・・考えてるとか・・・」

青葉の言ってくれた全てを否定して、この間から少し気になっていた事を 思い切って聞いてみる。

「お母さん・・・何か私の事・・・言ってた?」

言ってみてから、やはり慌てて言葉を足す。

「いや・・・失礼があっちゃいけないと思って・・・気になってたの。でも、話なんか出てないでしょ?うん、それならいいの」

すると青葉は 考えているのか、言葉を選んでいるのか、暫く沈黙が流れ 沙希をドキドキさせた。

「すごく感じのいい子だったって・・・」

実はあの日、母親が仕事を終えて帰った後、家族3人で食卓を囲み、話題は沙希の事で持ちきりだったのだ。まず、母が切り出した。

「河野さんって・・・いい子じゃない。きちんとしてて、それでいて物腰も柔らかで 優しそうだし」

青葉は熱があったせいもあり、家族の前で好きな子の話題になり 照れ臭かったせいもありで『ああ』とだけ言って、あっさりと受け流した。しかし母の嬉しそうな口調は止まらなかった。

「享もなかなか良い子見付けたじゃない。見る目あるじゃないの。お母さん、あの子だったら上手くやってけると思うわ」

それまで黙々と口へ運んでいた箸を止めて、青葉が聞き返した。

「上手くやっていけるって・・・何を?」

母は少し照れ笑いをしながら言った。

「いや・・・だからね、河野さんみたいな人に お嫁に来てもらえたらいいなって・・・」

すると、それまで黙って聞いていた父親まで 会話に参加してくる。

「何だ。もうその人とは 結婚の話までいってるのか?」

驚いて、思わず青葉は茶碗も箸も置いた。

「やめてよ。彼女とは全然そんなんじゃないんだって」

しかし母も 今こそとばかりに追及する。

「だけど、何でもない人に指輪なんか贈らないでしょ?」

父の視線が、母から息子へと移る。両親共二人揃って青葉の答えを待っているのが ひしひしと感じられ、少々嫌な話題になったなと鬱陶しく思いながら、口をつぐんだまま、食欲の無さも忘れ ご飯をめいっぱい頬張った。いくら待っても返答のない息子を気にしながら、母が明るい口調で切り出した。

「大学の時の玲子ちゃんもいい子だったけど、別れちゃったし・・・」

大学時代に青葉が付き合っていた彼女とは 家族ぐるみの交際で、よく青葉の家に遊びに来ては 夕飯を共にしていた。その頃から母は その彼女の事を大変快く思っていて、自分の娘の様に可愛がっていたのだった。娘が居なかった分、母はいつも『素直で本当にいい子ね。お母さんお母さんって頼ってきてくれるし』と大のお気に入りだった。その為、別れた後も 暫くは母までがっかりしていて、青葉よりも残念な思いを引きずっていた程だった。さすがにあれから何年か経ち 話題にも出さなくなっていたが、今夜久し振りに当時の口癖が出たのだった。そしてまた青葉は、いつもの様にあしらった。

「またその話して・・・。もうとっくに過去の事なんだから」

母が『また言っちゃった』と言わんばかりの顔で 少し首をすくめると、今度は父親が表情を変えずに言った。

「今度その・・・彼女を、家に呼んだらいいじゃないか。一緒に夕飯でも・・・なぁ」

賛同を求める様に父親が母の方を見る。

「そうよね。それが良いと思うの。河野さんも嫌そうじゃなかったし・・・」

その言葉を聞いて、青葉がびっくりする。

「何か言ったの?」

「やあねぇ。そんなに心配?お母さんが何か余計な事言うんじゃないかと思って?ただ、『今度遊びにいらっしゃい』って それだけ」

「それで?」

青葉も瞬き一つせずに続きを急いだ。

「それでって・・・。『はい』って笑顔でお返事なさってたわよ」

「そりゃ断れなかったんだよ。まさか『結構です』なんて言える訳ないだろ?」

「そんな風じゃなかったけど・・・」

父が晩酌の水割りを一口飲んでこう言った。

「とにかくお父さんも一度会っておきたいから。享が真面目な気持ちでいるなら、きちんと紹介しなさい」

母親の言う事なら 今までも適当にあしらって かわしてきたが、父親にこう言われると 簡単にうやむやにする訳にもいかなかった。

「そりゃ・・・真面目な気持ちだけど・・・でも彼女とは友達だし・・・」

「今の子達の言う友達って 分からなくって・・・。要はガールフレンドでしょ?」

母の言った微妙な言い回しに 返す言葉が見つからず、結局『今度紹介しなさい』と押し切られたままになってしまった。

 その事を思い出しながら、沙希との電話で我に返る。

「どうしたの?」

自分に対して青葉の母が持った印象を聞いた途端に めっきりと口数の減ってしまったのを気にして、沙希の中でも悪い想像が膨らむ。

「何か・・・言われた?」

「どうして?!」

必要以上に大きなリアクションに、沙希の中で 疑惑は更に大きくなった。

「もし失礼があったら・・・ごめんなさい。お母さんにも謝っておいて。私今まで・・・付き合った人の両親とかって会った事なくって・・・」

言ってから、自分で何かおかしい事に気付く。

「あ、別に、青葉君とは・・・そういうんじゃないけど・・・。だけど、幼なじみとか以外で、お友達のお母さんにも あんまり大人になると会う機会ってないでしょ・・・」

焦ってする言い訳は、支離滅裂なものと相場が決まっている。沙希のそれも例外ではなかった。

「いや、だから、沙希ちゃんの事はすごく気に入ったみたいで・・・」

青葉もそれ以上言うのをためらい、語尾を濁した。そんな青葉の歯切れの悪さに未だ不安を抱きながら、お互いにその話題から自然と退いて行った。沙希も何故自分がそこまで、青葉の母が受けた印象を気にするのか分からなかった。


 新年明けてのサロン・ラヴィールも順調に動き出し、12月の末に新しく入った城之内も、約一か月の間にだいぶ慣れてきた。そして最初は戸惑っていた沙希も 少しずつ先輩としての意識も付き始め、時には城之内に指示を出す事もある程になった。またそれを受けた城之内の方も、快く指示に従って 機敏に仕事を行うのだった。

 あっという間に1月が過ぎ去り、2月1日、月初めのミーティングの時の事だった。毎月月初めに行われるミーティングでは、先月の数字の集計結果報告と その反省、そして今月の目標を打ち出す。更には今後の予定や それぞれ改善した方が良い点等を意見交換し合う。一通り伝達事項が終わり、『何かありますか?』という青山の問いかけに 真っ先に城之内が反応する。

「化粧品等のホームケア商品を もっとお客様に徹底してご案内した方がいいと思うんですけど。『エステに来てれば、それだけで綺麗になれる』というお客様の勘違いを意識改革してさしあげた方がいいと思うんです。もっともっとお客様ご自身に、ご自分のお肌の事を勉強して頂いて。知識は私達スタッフが持っている訳ですから、お手入れの際にも 世間話ばかりでなく お伝えしていけますし。エステに来ている時間より、自分で管理している時間の方が長い事を自覚して頂いて、もっとお家でも正しい化粧品を使って努力して頂かないといけないと思います。そういった意識付けをしてお客様を育てていくのも、私達の仕事なんじゃないでしょうか?」

とてもしっかりとした口調で言い切る城之内の迫力に、沙希は思わず俯いてしまった。しかしそれを感じて、青山が沙希に意見を求めた。何だかとても追い詰められた様な錯覚を勝手に起こしながら、何とか言葉をあてがった。

「正論だと思います。正論だと思いますけど・・・お客様にリラックスして頂くのも私達の仕事だとするなら、それとは逆行する様な気がするんですが・・・」

一応一丁前の様な台詞を喋ってはいたが、ただそれは 体裁の良い“とりあえず”の有り合わせに過ぎなかった。今まで仕事に慣れてからも、自分は青山の言う通り 教わった通りに何でもやってきた。それはそれで一番正しいと思っていた事なのに、エステという仕事の根本的な事から掘り下げて考えた事などなかった。ただ毎日の仕事の向上ばかりに気を取られていた自分は、なんて視野が狭かったんだろうと今更ながら反省していた。沙希の意見に対して、今度は城之内が青山に言った。

「店長。このサロンはお客様に“リラクゼーション”を提供するサロンですか?それとも結果をきちんと出していくサロンですか?」

いつもと変わらない表情で、青山が答えた。

「結果を出していくサロンですよ、もちろん。お客様には時間とお金とやる気を出して頂く代わりに、こちらは精一杯の努力と真心と結果を提供します。そこで初めて商売が成立するんですから。うちにいらしてるお客様は皆、リラックスを買いにここに足を運んでる訳じゃなく、結果を求めて通われています。でも人間、リラックスせずにストレスを溜めこんで綺麗には決してなれません。『又来たい』そう思って頂けなければ、結果には結びつきません。そう思いませんか?」

城之内は青山の目をしっかりと見て、瞬き一つせずに返事を返したのに対し、沙希は俯いたまま小さく頷くだけだった。

「私、前から気になってたんですけど・・・」

城之内の口から 弾丸の様に言葉が溢れ出す。

「私の方が後から入ったのに生意気言う様ですけど、河野さんの接客を見てると もっともっとお客様にお伝えすべき事がある筈なのに、当たり障りのない会話に逃げてる様な気がするんです」

名指しの発言に、青山の顔が一気にピリッと引き締まる。しかし黙ってそれを聞きながら、同時に 沙希の様子も窺っていた。城之内の口は止まらない。

「あれを見てると、ホームケア商品のクロージングが怖くて してない様に私には思えるんです。でもそれって、本当にお客様の立場に立った誠意のあるサービスなんでしょうか?」

まるで喧嘩でも吹っ掛けてきてるかの様な言い草に すっかり沙希は縮こまってしまっていたが、外見だけは精一杯背筋を伸ばして頑張った。

「クロージングが怖くて避けようと思った訳ではないんですが、ただ私は自然流で・・・いきたいと思ってましたので・・・」

そこでチラッと青山を見ると、ただ黙って 二人を静観していた。

「河野さんの考える自然流って どういう事ですか?私は、自然というのも こちらから作っていくものだと思っています。海の波だって、川の流れだって、自分の思いがあったら 自ら起こしていけるものじゃないですか」

すっかり城之内にノックアウトされた形となり、沙希もとうとう返す言葉を失った。暫くの沈黙の後、一言こう言った。

「まだまだ力不足で申し訳ありません。勉強させて頂きます」

そして頭をゆっくりと下げた。すっかりムードの悪くなったところに、ようやく待っていた様に青山が入る。

「私のやり方や考え方が自然流なので、河野さんもそれに沿う様に 今まで頑張ってきてくれました。人それぞれ持ち味があります。そして人それぞれ 得手不得手があります。城之内さんが初めに言われた様に、お客様の意識を高めていく事も私達の仕事であり 使命です。でもだからと言って、誰でも彼でもこちから一方的に商品をお薦めするのはどうかしら?小学一年生には一年生の教科書と教材を、中学生には中学生の物を、皆段階があるんです。その方の美意識や要求に合った物を提案提供する。結局これに尽きると思うんです。城之内さんは 確かに知識も経験も力もありますから、きっと上手に営業出来ると思います。だからと言って押せ押せで売るのではなくて、自然に意識を高めていった中で提案する。こういう事も、城之内さんだからこそ 出来る事だと思います。ですから、うちのサロンでは そういう風にやっていって下さい。河野さんは、その優しい物腰が 人に安心感を与えるんです。だからお客様も、つい河野さんだから色んな事を話せちゃうって方も多いんです。そんな世間話の中から商品に繋げていって差し上げたらいいと思うんです。三人いたら三人共カラーが違うんですから、全く同じやり方でやれって方が無理じゃないかしら。目指す目標や意識が同じなら 問題ないんじゃない?どうですか?」

上手く仕切った青山に 少々不満気味の城之内と、『なるほど』と思いながら窮地を逸した沙希が、それぞれ思い思いに返事をする。

 

こんな事があって以来、すっかり沙希は城之内に対して委縮してしまい、まるで先輩と後輩が逆転してしまったみたいになった。それからというもの、毎日出勤するのが憂鬱でならなかった。この日もなんとか仕事をこなして家に帰ると、いつもの様に夜空を眺め 大地を想った。今回のハードルは、自分一人で越えるには少し高すぎて 誰かの援助が欲しかった。そんな時、以前大地が『いつでも電話して来いよ。その位わがままになったっていいんだから』と言ってくれたのを思い出す。時計でメキシコ時間を確認する。『まだちょっと早すぎる。一時間待ってみよう』という自分と、『いつでもかけて来いって言ってくれたし』という自分が喧嘩をする。決着がつかないまま 夕日の絵の前でしゃがみ込む。吸い込まれる様な太陽の橙に 心を落ち着かせる様祈ってみる。目をつぶって深呼吸してみると、ようやく脈拍が正常になった感触を受けるが、またその場を離れると 心がざわざわ言い始める。再びすがる様に絵の前に身を置いた時、電話が鳴った。頭の中全てが大地になっていただけに 一瞬ドキッとするが、たいていこの時間にかけて来るのは青葉だろうと予想する。そこでふと気が付く。そういえば ここ暫く青葉から連絡がなかった。去年までは 一週間連絡がない事は無かったのに、この前話したのはお正月明けの電話以来だった。それから約一か月が過ぎていた。一体どうしたんだろうと 余計な想像を巡らしていると、鳴っている電話が止み ドアのノックと共に母の声が聞こえる。

「沙希、電話よ」

ドアを開けると、続けて母が言った。

「木村さんから」

やっぱり大地からだったんだと 妙に不思議な力を感じながら、慌てて受話器を上げる。

「どうしたの?」

自分の想いがメキシコまで届き 大地にそうさせたのかと、やけに神秘的な気持ちになる。

「凄い事があったんだ」

タイミング良く、そして思いがけなく大地から貰った電話にすっかり浮足立ってしまい、年末から仕事にもツイている絶好調の大地から また良い知らせだと信じて疑わなかった。そして大地が話し始めた。

「一昨日の夜 いつも通りの道を通って家に帰って来たんだ。そん時は何でもなかったのに、昨日仕事行ったらさ オーナーが『大丈夫だったか?』って言うんだ。何かと思ったら、一昨日の夜 俺のいつも通る道で 通り魔みたいな殺人事件があったって」

その瞬間、沙希の背中に寒いものが走る。

「新聞見たらさ、その事件の起きた時刻が 俺の帰った15分後だったんだ。だから、15分遅く俺があそこ通ってたら もしかして・・・って。そう考えたらびっくりしてさ。店の人も皆心配してくれたけど、俺も本当 運が良かったよ。沙希がくれたお守りが効いてるんだね」

“怖い目に合うところだった”というニュアンスよりも“俺は運が良かった”という言い方で 大地は大変明るい声をしていたが、沙希は全くそうではなかった。たちまちに自分の悩みなど吹き飛び、不安という真っ黒いオーロラに すっぽり頭のてっぺんから足の先まで包み込まれた。返す言葉も忘れ ただ唖然としていると、大地が言った。

「大丈夫だって。お前のお守りもあるし、俺には今 運が向いて来てるんだ。心配しないで」

「心配しないでって・・・無理だよ、そんなの」

やっとの事で口を開く沙希とは対照的に、張りのある声が返ってくる。

「そうだよな。でも 気を付けるから、俺の事信じてて」

さすがに簡単に安請け合いする事はできなかった。重たい空気が立ち込める。それを見かねてか、少し反省した様に大地が言った。

「やっぱり言わなきゃ良かったかな。余計な心配掛けるだけだった」

それに返事をする事なく、暫くしてようやく沙希の口が開くと、それは 沸騰したやかんの口から出る蒸気の様だった。

「一人で夜道歩かないって 前言ってくれたじゃない!」

突然受話器から飛び出してきた 張り裂けんばかりの声に、大地は唖然とした。

「メキシコは治安が悪いからって、日本発つ前に約束してくれたのに」

今度は涙混じりの声が響く。そんな沙希の興奮を鎮めるかの様に、ゆっくりとした低いトーンで 優しく諭す。

「沙希。俺が今 このメキシコで やっと見付けて頑張ってる仕事は、夜遅くまで営業してる飲み屋なんだ。この間も話したと思うけど、やっと音楽に携われる仕事をさせてもらえる様にもなって、ここで本腰を入れて 自分に挑戦していきたいと思ってる。だから どうしても帰りは夜中になっちゃうし、それはどうしようもない事なんだけど・・・。今回こんな事があったけど、人通りも車の通りもある道なんだ。それに特に危険なブロックでもないし・・・。車は早く買いたいと思ってるんだ。だけど、まだそこまで金が貯まってなくてさ。・・・だから・・・もう少し、信じて辛抱しててくれないかなぁ・・・頼む」

受話器の向こうから 鼻をすする音が聞こえる。大地は どう言ったら不安を取り除いてあげられるか頭をひねっていると、沙希が訴える様に言った。

「もし大地に何かあったら・・・私どうしていいか分かんないよ」

「大丈夫。俺は絶対に 無事に日本に帰るから。約束する」

根拠のない言葉が、宙に浮いて空回りする。

「絶対なんて・・・どうして そんな事言えるの?先の事なんて分からないんだよ。保障なんか何もないじゃない」

どんどん どんどん後ろ向きに思い詰めていく沙希の思考を止めようと、大地が明るい声を出してみせる。

「保障か・・・。俺達の愛がある限り、俺は絶対に大丈夫だよ」

しかし ジョークさえ通じないどころか、逆効果となって沙希に波紋した。

「そんな事言って欲しいんじゃないよ。私はただ・・・私はただ、大地が無事に頑張ってるんだっていう確信が欲しいだけ。こんなに遠く離れてるんじゃ、私だって何も出来ないよ。“信じる”とか“愛の力”とか、そんな曖昧なものじゃなくて・・・」

それ以上会話にはならなかった。お互いに切なさを胸に引きずったまま、切り際に大地が言った。

「俺が今沙希にしてやれる事は全て・・・曖昧な事ばっかりだよ。だけど・・・離れてたって、俺はいつも傍に沙希が居てくれると信じてるよ。沙希にも、いつも傍に俺を感じてくれればなって思ってる。今の俺には・・・それしか出来ないから」


「まぁ、落ち着いて」

由美姉の声が 沙希の耳から入り、薬の様に染み渡る。大地とのやり取りを終えた後、ヒステリックに高ぶった自分の感情を持て余し 思わず由美姉に電話をかけていたのである。一通り話を聞くと、やはり由美姉は 沙希をなだめすかす様に話し始めた。

「元々大地ってさ、沙希ちゃんに『好き』とか『愛してる』とか『一番大切』とか・・・そういう事言う奴だったの?」

「ううん。全然言ってくれない。日本発つ日だってさ、私は不安だし淋しいから いっぱい言って欲しかったけど・・・結局・・・一回しか言ってくれなかった。しかも私が頼んで、やっと一回。態度ではね、確かに私の事想ってくれてるんだなっていうのは分かるんだけど・・・やっぱり言葉で聞きたいもんね」

「じゃあ、メキシコ行ってからの大地は 今までに比べたら随分言ってくれてるんじゃないの?そりゃ『愛してる』って言葉じゃないかもしれないけど、不器用ながらにも 遠回しに『俺にとってはお前が必要だ』みたいなさ・・・」

沙希はハッとした。由美姉に言われた言葉が沙希の記憶を呼び覚ましていく。確かに照れ屋で 自分の気持ちを伝えるのが苦手な不器用な男ではあったが、それでも彼は彼なりに 精一杯の言葉で愛情を伝えてくれていた。沙希は一瞬でも由美姉に愚痴った自分を恥ずかしいと思った。そして、いつも目の前の事に一喜一憂する器のちっぽけな自分を何とかしたいと 真剣に思っていた。そして、締めくくる様に由美姉が言った。

「それにね、沙希ちゃん。人は、そんな簡単には死なないよ」

何故かとても説得力のある口ぶりに、そう信じてみようという気持ちになっていた。


 しかし、やはり理屈で理解した事と 体が、心が感じた事では 当然後者の方が いざという時に力をむくむくと発揮する。暫くの間は 由美姉の声が何度もリフレインしながら沙希を励ましたり 元気付けたりしていたが、それもそう長くは続かず、沙希の不安な毎日が甦った。

 大地が仕事を終えて帰宅する頃 日本では夕刻が訪れる。沙希にとっては忙しい時間帯ではあったが、毎日5時頃 時計を見てはソワソワと落ち着かなかった。無事に家に帰り着いただろうかと気を揉んでは、自分をなだめすかしながら仕事をしていた。出来るものなら確認の電話をかけたい位だったが、沙希は仕事中の身で、まさかサロンから私用の電話を その上国際電話など掛けられる筈もなかった。サロンを出て 家に帰る間中、いつも公衆電話を見掛けては、帰宅したら大地にかけてみようかと思いつくが、メキシコ時間を考えて 常にそれは断念された。そんな日が繰り返され、ある時サロンでトラブルが起きた。

「こんにちは」

最近ボディで通い始めたお客様が、ひょっこりサロンに顔を出す。

「あれ?今日は・・・?」

城之内が対応する。その日の予約表に彼女の名前がない事を知っていた城之内が、一瞬手の空いた隙に話し掛けたのだ。すると その彼女は、今日予約を入れていた筈だと言い出す。慌てて城之内が予約表を確認するが、どこにも名前が見当たらない。確かに二日前に予約が入っていたが、当日キャンセルをした跡がある。

「一昨日電話でキャンセルしてもらったんですけど、その時に今日って・・・予約取ってもらったと思うんですけど・・・」

彼女も困惑した表情をしている。

「その時電話の対応をしたスタッフ、誰だったか覚えてますか?」

城之内が追及する。

「ごめんなさい。私もその日 仕事場からバタバタしながら掛けたんで、あんまり記憶に無いんです」

あいにく その日は予約がいっぱいで、三人で回すのもやっとといった現状だった。その上実際時間も押していて、お手入れを終え次回の予約を入れようと待っている人が2名と、これからという人の 合計3名が今か今かと順番を待っていた。その様子を察し、彼女が言った。

「今日はいいです。又にします」

その時、城之内が 予約表に彼女の名前を見付け出した。一週間後の同じ曜日に 予約が入っていた。確実にサロン側のミスだったが、その筆跡を確かめ 城之内は 接客中の沙希をこっそり呼び出し、事情を説明した。信じられないといった様子の沙希を 呆れる様な眼差しで見ながら、城之内が予約表を目の前に突き出す。そこには確かに自分の文字で記されていて、二日前のキャンセルの電話も 虚ろながら思い出す。

「何とか私・・・今日、責任持ってお手入れします」

裏でのやり取りは続いた。

「そんな事言ったって、ベッドがいっぱいじゃないですか。お客様が引くまで、何時間も待ってて頂くんですか?現実的に考えてみて下さい」

ぴしゃりと言い放たれた言葉は、更に沙希の気持ちをうなだれさせた。何かを感じ取った青山が、そこへ現れる。結局青山の判断により、沙希が彼女に直接頭を下げてお詫びをした。そして次回の予約を入れてもらい、一回施術サービスという形で、その日は帰って頂く事となった。このサロンに通い始めて まだ日の浅いお客様で、すっかり信用を無くすのではと心配したが、幸い彼女は怒っている風もなく、

「また来ます」

と笑顔でサロンを後にした。沙希にとっては それがせめてもの救いだったが、営業時間が終了してからの城之内の猛攻撃は、今までコツコツと地道に積み上げてきた沙希の自信を すっかり奪い取っていった。大地の事で 自分勝手に余計な神経をすり減らし、そのお陰で 仕事でも失敗をし、その上12月に入ったばかりの自分よりもキャリアのある後輩には なじられ、馬鹿にされ、それまでに着実につけてきた自信や意欲をすっかり無くし、沙希はほとほと疲れ果てていた。ヤケ酒でも飲んで憂さを晴らそうかとも考えたが、昔の一コマが脳裏に甦る。あの日も 仕事で失敗をして、真っ先に向かった桜井のマンションで出くわした昔の彼女。その二つの衝撃を背負ったまま ふらっと入ったひなびた一杯飲み屋。冷めて固くなったやきとりとコップ酒が 余計に重たく暗い気持ちに拍車をかけた。堪らなくなって店を飛び出し、泣きつく様にして呼び出した8カ月振りの大地。あの時は呼び出して、明るく 力強く慰めてくれる人がいた。しかしその大地は 地球の裏側で、到底手を伸ばしても届かない、電話さえ掛けるのをためらってしまう程の存在になってしまった。すがる想いで夜空を見上げるが、今日はあいにく星一つ見えないどころか、雲の悪戯か 月さえも姿を隠していた。

挿絵(By みてみん)


私にはもう自然界さえも味方をしてくれないのかな等と卑屈になりながら、家の門を開けた。心身共に疲れ切って ベッドに倒れ込むと、自然と涙がこぼれた。色々な感情が混ざり合って、一体何の涙なのかも分からなくなっていた。ふと気が付くと、時計は12時を回っていた。『いつでも電話して来い。その位わがままになったっていいんだから』という大地の声や、『自分の気持ちに正直に生きてるだけ。後悔したくないから』という青葉の言葉に背中を押される様にして 受話器を上げた。メキシコでは朝9時を過ぎた頃で、きっと大地はまだ夢の中だろう。出たら、まず第一声は『起こしてごめんね』と謝ろう等と考えていたが、沙希の耳には 一向に途切れない呼び出し音だけが響いていた。疲れて帰って ぐっすりと眠っていて、電話のベルが聞こえないのだろうか。それとも・・・。沙希の胸に嫌な予感がよぎる。また一つ大きく真っ黒い鉛が、ずっしりと影を落とした。(いや、もう出掛けたのかもしれない)と 必死に自分に言い聞かせてみるが、すぐに(こんな早くにどこへ?)と反論される。自分の中の葛藤が 雪だるま式にみるみる膨れ上がり、こんな事なら掛けなければ良かったとさえ思ってしまう。じりじりとした時間を飲み込んで、再び心の叫びを電話へ託す。しかしやはり結果は同じで、悪夢の様な空想を繰り返す沙希は まるで蟻地獄に落ちていく小さな虫の様で、もうそこから這い出る事は難しかった。今度はジルナの部屋のベルを鳴らした。以前まだ大地が電話を引く前にも こんな事があったなと 鈍った頭で記憶を辿る。誰も取らない一方通行の回線に、沙希の思い込みも加速していく。(何かあったのかもしれない。こんな早くから二人共居ないなんて・・・)

何か事件や事故が起きたのかもしれないと思えば思う程、沙希の心臓はざわついて暴走を始め、もう そうなると誰も止める事は出来なかった。時々由美姉の『人はそんな簡単に死なないよ』という優しく掛けてくれた言葉を頼りに、何も出来ない自分を打ち消す様に 布団に包まった。しかし、目をつぶれば はっきりと大地の顔が浮かび上がる。たかが一日連絡が繋がらない位で 潰されそうになる弱い自分にも、飽き飽きしていた。


 「なんだかんだ言ったって、結構仲良く続いてんじゃない」

午前中に待ち合わせた後楽園の入り口で、一番に到着していた沙希の姿を見付け、祥子が駆け寄って 開口一番こう言ってきたのだ。今日は年末から話の出ていたスケートに来たのだった。すっかり予感が的中し 祥子の詮索をなんとかやり過ごしていると、噂の張本人 青葉が現れる。『おはよう』と清々しく挨拶をされたにも関わらず、隣の祥子の秘かな視線が気になって 変に他人行儀になってしまう。1mと離れていない青葉を 沙希は多少くすぐったく感じながらも、三人には会話は無く、ただ前を見て 後楽園を訪れる人達の中に知る顔を探す。

「あと誰が来るの?」

こういう異様な沈黙の苦手な祥子が、青葉に話し掛けた。

「あと祐介だけ。あっ・・・祐介って・・・分かるかな・・・茶髪の・・・」

「分かる分かる。高校生の時、青葉君と一緒のアイスホッケー部だったって彼でしょ?」

「あいつ遅刻魔だからなぁ。しかも朝が超苦手でさ。高校ん時も、部活の朝練まともに来た事なかったんじゃないかなぁ。今日は皆もいるし、あいつのそんな悪癖に振り回されたくないんでね。モーニングコールしといたから、多分平気だと思うんだけど・・・」

相槌を打つのは、さっきから決まって祥子だった。

「へぇ。青葉君ってマメなんだ」

「いやぁ、どうかなぁ・・・?」

首を傾げる青葉の横で 二人のやり取りを聞いていた沙希に 祥子は視線を移し、少し悪戯っぽく笑ってみせる。

「どうなの?」

突然自分にふられ、驚いた沙希が挙動不審になる。

「え?どうして私に?知らないよ、そんなの」

この時一気に脈拍が早くなり、それが静まるまでには 少し時間が掛かった。そして、さり気なく青葉が話題を変えた。

「あとの二人は、今日は来られないって。・・・ま、急だったからね」

「あっ知ってた?あの二人付き合ってるって。だから一緒においでよって言ったんだけどさ、今日がたまたま彼女の誕生日で、お互い有給取って 今日から一泊で旅行行くんだって」

毎日の様に仕事場で会う彼女の近況を良く知っている祥子が、ひとしきり報告すると まだ続けた。

「青葉君、旅行とか好き?」

「旅行?好きだけど、最近は全然行ってないな。仕事始めちゃうと、まず休みが取れないもんね。大学の卒業旅行って名目で イタリアのミラノに行ったきりかな」

「ミラノかぁ。なんか青葉君って 育ちが良さそうだから、ヨーロッパ系が似合うよねぇ。誰と行ったの?彼女?」

あまりにもずけずけと、でも嫌味がなく聞こえるのは祥子ならではだったが、間に挟まれている沙希は 内心ハラハラしながら会話を聞いていた。

「まぁ・・・ね。でもその後すぐ別れちゃったし・・・。ま、昔の事だから」

早目にこの話題を切り上げようというのが 青葉の口調から見て取れた。しかし、どうする事もできず、何とか例の祐介君の登場で この雑談にピリオドが打てればと他力本願な事を考えていた沙希の脳天を 祥子の言葉が直撃する。

「そう言えば確か、沙希の前の彼氏も ヨーロッパに転勤しちゃったんじゃなかったっけ?イタリアだったっけ?」

一体何を言い出すんだと、少々祥子を煙たく感じながら返事をした。

「フランス」

青葉にとっては初めて聞く話だけに、沙希を見たまま動かなくなった。それに気が付き、祥子が言葉を足した。

「何でだろうね。いっつも沙希の彼氏は遠くに行っちゃうんだよね」

「やめてよ、祥子。そんな話。青葉君だって、きっとこんな話興味ないよ」

少しも悪びれた様子のない祥子が、今度は青葉をじっと見つめてこう言った。

「でもね、沙希の名誉の為に言っとくけど、その彼は 仕事で 確か・・・抜擢されて海外赴任する事になったんだし・・・、要は沙希って、あげまんなんだと思う」

さすがに目を丸くした沙希が 祥子の腕を掴んで、半ば怒った様に制しようとした その時、前から片手を上げて悠々と歩いてくる祐介を指さしながら 青葉が言った。

「あっ、来た!」

そして そこで、ようやくピリオドとなった。

 四人の久し振りの再会で 挨拶もほどほどに入場すると、スケートリンクまで園内を歩きながら、気を利かせてか 祥子が祐介の隣を陣取った。そのまま子供の様にはしゃぎ合う祐介と祥子とは対照的に、沙希と青葉は無言のままスケートリンクに到着する。高校時代の事とはいえ、さすがに青葉も祐介も スケート靴を履くのも手慣れたもので、いつの間にか祐介は祥子と 氷の上へと進んでいってしまった。やっと靴を履いた沙希だったが、ベンチに座り込んだ。すると、

「行こうよ」

と手を差し延べてきてくれた青葉に、首を振った。

「気遣わないで。どうぞ、滑ってきて」

「どうしたの?せっかく来たんだから、一緒に行こうよ。俺、教えてあげるから」

重たい腰を上げて、何とか青葉の腕にしがみつきながら リンクの中へと下りた。右手で柵にしっかりとつかまりながら、おぼつかない足元をゆっくりと前へと進めていった。しかし、へっぴり腰で 手すりにしっかりと支えられながら、一向に青葉の手を借りようとしない沙希の横を、祐介と祥子がはしゃぐ声と共に追い越して行った。祥子が しゃがんだ格好で両手を前に出し、その手をしっかりと握った祐介が 後ろ向きに彼女を軽快に引っぱっていく。自分では上手に滑れない祥子が、そのスピードとスリルに興奮して ハイトーンな笑い声が沙希達の耳に届く。

「沙希ちゃん、片手貸してごらん。それで、手すりから手離すんだ。じゃないと、いつまで経っても 滑れる様にならないよ」

青葉が優しく声を掛けるが、沙希の頑なな態度は 心と同様 ほぐれる事はなかった。

「青葉君 いいよ、行って。私の事なんか気にしないで、放っといてくれていいから」

しかし青葉は さっきまでとは打って変わって、少し強引に沙希を誘った。

「そんな事言ってたら、一緒に遊びに来た意味がないじゃないか。ほら、行くよ」

そう言うと、沙希の左手をすくい上げ、手袋の上からしっかりと握りしめた。そしてゆっくりと リンクの中央へ向けてスケートを滑らせて行った。否応もなく青葉に引っぱられ、最初から一度も手放す事のなかった手すりを 名残惜しく感じながら、みるみる内に辺り一面 氷となった。泳げない子供が 足の着く浅瀬から沖の方へと無理やり連れて来られた様な気分で、命綱の様な 青葉を握る手に 自然と力がこもった。


 「スケートって楽しいねぇ。こんなに面白いと思わなかった」

スケートを中断し昼食を摂ろうと、園内のレストランでオーダーを済ませ、大ご満悦の祥子が 第一声こう言った。祐介にすっかりリードしてもらい、滑れないなりにも充分楽しみ コツを教わりながら、自分で滑れる様な練習も始めたところだった。

「やばいかも。結構ハマっちゃいそう」

まだ興奮の冷めやらぬ祥子が、マフラーを外しながら言った。

「祐介は 人を楽しませる事にかけちゃ、天下一品だからね。それに、人に教えるのも上手だし」

青葉がおしぼりで手を拭きながら そう言った。

「うん。先生が良かったみたい」

外したマフラーを、脇に置いたコートに重ねる祥子。そして 隣に座る沙希に顔を向けた。

「沙希はどうだった?」

「うん・・・頑張ってるけど、結構難しいかな・・・私には」

すると、すかさずフォローする青葉。

「俺もさ、教え方が下手で・・・」

「享!お前もさ、教え方が固いんじゃないの?俺ら遊びに来てんだからさ、沙希ちゃん楽しませてあげなきゃ 可哀想だよ。お前の責任だぞ」

そしてその後、祐介の思いつきが テーブルの上にはじけた。

「飯の後、ちょっとパートナー交替しよっか?」


「私本当に憶病なの。青葉君にもそう言われたし」

足を前に出すのも不安定で躊躇していると、祐介が沙希の手をしっかりと取りながら言った。

「女の子は、その位の方がいいんだよ」

思いがけなく優しいその言葉に 救われた様な思いで、ついでにもう一言付け加える沙希。

「私、転んじゃったりするかもしれないし・・・、転んでもすぐに起き上がれないかもしれない」

すると祐介はにっこり笑いながら、優しく言った。

「そん時は、俺がついてるから大丈夫だよ。何も心配しなくていいよ」

そう言われ ホッと安心した沙希は、自然と肩の荷が下りた。祥子と一緒の時とは また違った 祐介の繊細な心配りの中で、上手にリードされていく。

少しずつ沙希にも笑顔が出てくると、祐介が言った。

「じゃ、しっかりつかまっててよ。ちょっとスピード出すからね」

驚きと共に一瞬にして不安な顔色になった沙希に、悪戯っぽく笑ってみせる祐介。

「大丈夫。転ぶ練習だから。転ばなきゃ、誰でも上手くなんないんだよ。俺だって最初 部活入った時は てんで滑れなくて、毎日毎日転んでたんだって」

「そんな・・・」

すがる目で祐介を見る。

「じゃ、しっかりつかまってて。大丈夫だから」

両手で祐介の腕にしがみつき、最後のお願いをした。

「ストップって言ったら、止まってくれる?」

「わかった」

その言葉を信じ、沙希の腕にも 更に力がこもる。じりじりと速度が増していき、思わず目をつぶる沙希。すると祐介の声が耳に飛び込む。

「目開けてごらん」

恐る恐る目を開けてみると、周りの景色が嘘の様に流れ、頬で切る風も心地良かった。

「怖い?」

祐介の問いかけに、沙希は満面の笑みで答えた。

「気持ちいい!」

「だろー?」

「なんか、鳥になったみたい」

すっかり開放的になった沙希に、祐介が言った。

「カーブするから、しっかりつかまっててね」

祐介の手にも力が入り、沙希も手袋を通して それを感じ取っていた。丁度カーブに差し掛かった時、祐介が円を描く様に小さくターンする。そして それにつられて巻き込まれる様にして尻もちをついた。一瞬の出来事で、何が起きたのか分からなかったが、思わず沙希は大きな口を開けて 高らかに笑った。尻もちはついたが、祐介と繋がった手は離れる事はなく、陽気に笑いが止まらずにいる沙希の傍にしゃがみ込んだ。

「大丈夫?痛かった?」

いまだ笑いが収まらないまま、首を横に振る。それにつられて笑い出す祐介。ひとしきり笑って 一段落すると、祐介が立ち上がった。

「よし、じゃ 立つか」

差し出された両手に愛着を感じながら 手を伸ばすと、その手をすくい上げる様にして 一気に沙希を立ち上がらせた。一瞬目を丸くした後、また沙希が笑い出した。

「立てたぁ!」

「結構考えてるより簡単だろ?」

「ほんと。すっごく楽しい。祥子が言ってたのが分かる気がする」

「良かったぁ。じゃ、もう一回行くか?」

「えっ?転ぶ練習?」

「違うよ。次はフィギュアごっこ」

再び突拍子もない事を言い出す。

「何、それ?私・・・滑れないよ」

「大丈夫なんだって。ほら、俺の横に来てみて」

祐介に言われるがまま、沙希はすっかり頼り切って 身を任せて暫く遊んだ。そんな様子を 離れた場所から眺める祥子と青葉。お互いに滑る練習をしながらも、やはり気になっているのだった。自分と一緒の時には見せなかった あんな天真爛漫な笑顔の沙希に すっかり気を落とす青葉。すると祥子が切り出した。

「青葉君は 沙希の事、どう思ってるの?」

突然のストレートの投球に、青葉は唖然とする。

「好きなんでしょ?」

「良い子だな・・・と思ってる」

「なんだ。その程度なの?」

三球目はフォークだったが、今度は青葉が食らいついた。

「いや・・・。・・・好き・・・だよ」

声は尻つぼみに小さくなりながら、照れたのか下を向く。

「じゃ、どうして もっとガンガン行かないの?」

「だって沙希ちゃん、彼氏いるでしょ?」

「奪っちゃえばいいじゃない、そんなの。あっ、青葉君、そういうの駄目な人なんだ?」

祥子に足並みを合わせて、ゆっくり氷の上を進みながら言った。

「俺・・・昔、取られた事あるんだよね。だから・・・」

二人の間に、スケート靴の刃が氷をかく音だけが聞こえる。

「沙希ってさ、私に愚痴って言って来ないけど・・・結構 遠距離限界って顔してる。あの子、思い詰めるタイプだからねぇ。将来の約束も予定も何もないまま いつ帰るか分からない人を待つって、淋しがり屋の沙希には 相当きついと思うんだ。だから・・・青葉君に力になってあげて欲しいの。恋愛の隙間は、恋愛でしか埋めらんないもんね」


 最後に四人で合流して一滑りすると、祥子が祐介を誘った。

「ねぇねぇ、もう一回 手持ってビューンってスピード出すヤツやって!」

「OK!じゃ、行くか」

すると沙希が言った。

「私、ちょっと足疲れたから、ベンチで休んでるね」

「じゃ、俺もちょっと上がってるわ」

青葉と一緒にリンクの外のベンチに腰を下ろすが、何故か空気がぎこちない。

「靴脱いだら 少し楽だよ」

「うん、平気」

想いが空回りとなった青葉は、席を立ち上がる。

「俺、ジュースでも買ってくる」

そして一人になって 沙希は色々な事を考えていた。青葉に言われた『慎重すぎる』という言葉。『もっと勇気出して飛び越えたら、色んな事が上手くいく』その言葉を後押しするかの様な 祐介とのスケート。そして祐介も言っていた。『考えてるより簡単だろ?』と。何故もっとおおらかに のびのびと前向きに進んで行けなかったのだろうか。傷付く事を恐れ、自分で自分を守る事に必死だった。初めは少し怖くても、身も心も任せ切って解放した時、あのスケートで鳥になった時、何とも言えぬ爽快感と気持ち良さがあった。そんな風に生きていけたら、転んだ後もきっと笑って立ち上がれる、そう思った。きっと大地は今そんな気持ちなのだろう。大地に見合う自分になるには、私も・・・。しかし、そこで沙希はハッとした。怖くても勇気を出した時、目をつぶって両手でしがみついた時、安心して頼れる誰かが傍に居て『大丈夫だよ』と握り返してくれる温かい手が そこにはあった。今の沙希にとって 大地の手は、あまりにも遠く思えてしまうのだった。

 その時、すっかりへとへとになるまで遊びきって すっきりとした顔の祥子と祐介が上がってきた。そして四人は 遊園地を後にした。

挿絵(By みてみん)

 

 外はすっかり太陽が西に傾いて 空を赤く染め始めていた。居酒屋の看板にも 灯りが灯り出し、街中が夜の景色へとお色直しを始めるが、祐介がこれから予定があると言った事で、今日はこれでお開きとなった。初めて会った合コンの帰りと同様、山手線の内回りの電車に揺られて 会話少なに青葉と沙希がドア脇のスペースにやっと落ち着く。お互いに何を話したらいいか、また 何を話さない方がいいのか、それぞれに相手への気兼ねを抱き 言葉に詰まっていた。

「次は 五反田、五反田」

そう車内にアナウンスが流れると、乗り換えの品川を近くに感じ 沙希が息を吸った。

「今日すごく楽しかった。ありがとう」

すると 会話のきっかけに まるで餌を待っていた飢えた魚の様に、青葉がそれに食い付いた。

「淋しさも少し紛れた?」

「え?」

「朝会った時、すごく・・・疲れた顔してたから」

日曜日の夕方とあって、ほどほどに混み合った車内で ドア前で降りるのを待つ人達に青葉が押され、二人の会話は途切れた。その人波を少しよける様に、遠慮がちに沙希との距離を縮める。

「・・・何かあったの?」

思い切って青葉が聞いてみる。沙希が少し遠い目をしたその時、プシューッとドアが開き 人が流れ出す。そして口元だけで笑ってみせて、青葉を見上げた。

「人って・・・難しいね」

含みのある言い方で 青葉が釘付けになった時、電車に乗り込んできた一人の女性が声を掛ける。

「享!」

びっくりして 聞き覚えのある声のする方を見ると、目を丸くした青葉の母がそこに立っていた。

「どうしたの?」

青葉も同じ様に目を丸くして、現実を必死に把握しようとしていた。

「あんたこそ」

そこで母が 沙希に気が付く。

「あら、こんにちは。覚えてます?享の母です」

まさかの再会に 沙希は一気に背筋を伸ばして、深々と頭を下げた。

「デート中ごめんなさい。こんな所で会うなんて偶然。いやぁねぇ」

陽気な母とは対照的に 青葉の顔に笑顔は無く、少々慌てている風にも見えた。

「なんで五反田なんかに居るんだよ。店は?」

「ちょっと業者さん所に用事があったのよ。その帰り」

そのやり取りを聞きながらドア脇で小さくなっている沙希に、母が声を掛けた。

「もし良かったら、お夕飯 家でどうかしら?」

驚いて顔を上げて母を見、そして次に青葉の顔を見た。すると青葉は また慌てた様子で母に言った。

「そんなの・・・彼女だって迷惑だよ」

「なによ、そんなに彼女の事隠さなくたっていいじゃない。そりゃ二人っきりでいた方が楽しいだろうけど・・・」

「そんなんじゃないよ」

息子と話しても らちが明かないと思った母は、今度は直接沙希に返事を求めた。

「河野さんはどう?もし良かったら、一緒に」

前回と変わらぬ優しい笑顔で、沙希の答えを待つ。沙希はチラチラと青葉の顔色を窺いながら、こう言った。

「いえ、お気遣いなく。私、真っ直ぐ帰りますから」

緊張と変な圧迫から、少し口が震える。

「遠慮しないで。今日パパ出張で留守なの。だから帰ったって私一人で食事するなんて 味気ないでしょ。だから、もし嫌じゃなかったら 付き合って頂けないかしら?」

母にかえって丁重にお願いされ、少々沙希も困惑する。返事に困っている沙希に、更に追い打ちをかける。

「この後何かご予定でも?」

「いえ・・・」

迷いながらも、正直に首を横に振る。そしてそれが決定打となり、青葉宅での夕飯が決まった。


 田町で電車を降りると、妙にいそいそとはしゃぐ母の後をついて スーパーに入って行く。

「何にしようかしら。河野さん、好き嫌いとか ある?」

いつの間にか、かごを持った母の隣に沙希が引き寄せられ、その後ろを不安気な青葉が一人 ついて歩く。

「お鍋にしようか?・・・あっ、しゃぶしゃぶなんて どう?」

すっかり母のペースで買い物を済ませると、ジュエリーショップJの前で 母が青葉に言った。

「ちょっと店寄ってから帰るから、先行ってて」

再び二人きりになって、沙希がボソッと言った。

「ごめんなさい・・・」

すると青葉も、

「いやぁ、こっちこそ、ごめんね」

まだまだ色々と言いたい事はあるのに、青葉の口の中で姿を現しては消え また現しては消えを繰り返し、結局言葉となって沙希に伝わる事はなかった。二人の関係は気まずいまま家に着き、暫くすると母が帰って来る。

「河野さん、お料理出来る?」

エプロンをしながら聞く母に 立ち上がって返事をすると、またにっこり笑って母が答えた。

「じゃ、手伝ってもらっちゃおうかな」

そして一枚エプロンを手渡す。

「せっかくのお洋服汚しちゃいけないから、これ使って」

そして二人で台所に立つと、母が沙希に優しく指示を出した。

「ごめんなさいね、私 人使い荒くって。お客様なのにね」

「いえ、何でもおっしゃって下さい」

そして沙希の包丁裁きを見て、母が感心する。

「河野さん、上手ねぇ。お家でもお料理するの?」

「母が働いていたので、学生の頃は毎日の様に 食事の支度をしてました。最近は 仕事の方が忙しくて、なかなかする機会もないんですけど」

「お仕事はどんな?」

「横浜のエステで働いています」

すると母は、自分の頬を両手で押さえる。

「あら、じゃ 私もやってもらっちゃおうかしら?こんなおばさんじゃ もうダメかしら?」

青葉の目には、母がすっかり浮かれているのが良く分かった。そして初めは少々心配した沙希の様子も、笑顔で言葉を交わしているのを見て 少しホッとしていた。食卓の準備が整い、沙希がエプロンを外すと 母が嬉しそうに口を開いた。

「白ワイン開けようか?」

返事の無い二人に、続けて質問する。

「河野さん、飲めるんでしょ?」

「はい・・・でも・・・」

その言葉を聞くなり、母はラックに横たえてあったワインを取りに行きながら 後ろ手に手を振った。

「遠慮しないで。頂き物なんだけど、いいワインがあるの」

ワインも開け、食事を始めて 母が沙希を気に掛ける。

「遠慮しないで 召し上がれ。ほら享、河野さんに取ってあげなさいよ」

「大丈夫です。頂いてます」

「お鍋なんかじゃない方が、気にしないで食べられたかしら。悪い事しちゃったわね・・・」

「いえ、本当に美味しく頂いてますから・・・」

そうは言うものの、やはり緊張で あまり味など覚えてなく、自然とワインが進む。母も美味しそうにワインを味わった。

「あぁ、こうやって一緒に飲んでくれる人がいると 嬉しいわねぇ。この子なんて 本当素気ないから。男の子なんて つまらないわね。今頃になって、大変でももう一人女の子産んでおけば良かったって後悔してるの。だから、あとはお嫁さんに期待してるの」

その言葉に危険を感じ、話題を変えようと青葉の頭がフル回転し始めたが、やはり母に先を越されてしまう。

「二人は、どこで知り合ったの?」

とっさに沙希と青葉は 目を合わせる。そして、青葉が口を開いた。

「友達の・・・紹介みたいな感じ・・・かな」

再び二人は目を合わせると、それを肯定する様に沙希も頷く。母の質問は続いた。

「で・・・二人はいつから?」

それを何とかかわそうと、青葉が返す。

「何だよ、質問ばっかり。面接みたいじゃないか」

「あら、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんだけど。でもね、享に聞いたって何も話してくれないから、こういう時に聞くしかないじゃないの」

「いいんだよ。そんな事聞いて何になるんだよ」

ひた隠しにしようとする青葉の対応に 母が少々不憫に思えて、沙希は見かねて割って入る。

「知り合ったのは、去年の秋・・・位です」

今度は沙希に驚いて、青葉がこちらを向く。その青葉に向かって、沙希が控え目に 目を伏せる。

「お母様もご心配だと思って・・・」

そんな沙希の心配りに すっかり気を良くした母は、更に口が滑らかになる。

「パパとも言ってたのよ。河野さんを呼んで、一緒に夕食でも食べようって。だけど何だか享がはっきりしなくてね・・・。河野さんのご両親には、享はもうご挨拶してるの?」

さすがに困惑と戸惑いを胸いっぱいに抱えながら、必死で平静を装った。

「いえ・・・そういう・・・」

「じゃ、そちらのご両親も心配なさってるでしょう?」

「いえ・・・」

同じ言葉をただ繰り返しながら、段々と沙希は伏せ目がちになっていく。見かねた青葉が 話題を切り替え、救われた思いの沙希だった。食事もワインも皆で平らげ、想像以上に楽しげな食卓となった。そこでつい、母の本音が漏れる。

「私、河野さんの事 本当気に入っちゃったわ。河野さん、うちにお嫁に来てくれないかしら?」

青葉も沙希も、これにはさすがに度肝を抜かれた。

「何言ってんだよ、急に。変な事言い出すなよ」

そんな懸命な青葉の言う事等 聞く耳も持たず、沙希の方へ身を乗り出した。

「河野さん、今いくつ?」

「22です」

瞬きをするのも忘れて、沙希が答える。

「じゃ、まだちょっと考えられないかな・・・。でも、私も結婚したの23の時だし・・・。うちの享じゃ、やっぱり頼りなくて 結婚なんて考えられない?」

「いえ・・・」

すっかり俯いてしまった沙希をかばう様に、青葉の口調が強くなる。

「いい加減にしてくれよ。そんな話、親が口出す事じゃないだろ?」

こんな感情的な青葉を見るのは初めてで、沙希はそっちにびっくりして顔を上げた。

「やめてよ。河野さんがびっくりしてるじゃない」

そう母に言われて我に返り、沙希の表情を窺う。

「ごめん・・・」

後片付けをする母と沙希が 再び台所に並ぶ。洗い物をする母が、隣で布巾を手に持つ沙希に話し掛ける。

「今日は色々しつこく聞いちゃったりして ごめんなさいね。これに懲りずに又是非遊びに来てちょうだい」

『はい』と返事をするのもためらわれ、無言のまま頭を下げた。

「質問ついでに もう一つ、聞いてもいいかしら?ずっと気になってたんだけど・・・。アクアマリンの指輪・・・河野さん、どうしてしないのかしら・・・?」

さすがの母も声を落として 聞きづらそうだった。沙希も沙希で、暫く固まってしまう。

「この間の時も・・・今日も、されてないみたいだけど・・・。ごめんなさいね。こんな立ち入った事聞いて。つい職業柄 気になっちゃって・・・。ほら、前も言ったけど、うちの商品だから」

何か深い訳がありそうなのを感じ取り、母が自分でした質問を 盛んに取り繕うと、沙希がゆっくりと口を開いた。

「この間は・・・たまたま洋服の感じと違ってて・・・、それに今日は 朝早くてバタバタして・・・つけ忘れちゃって・・・すみません」

こんな行き当たりばったりな嘘をついて、真実がバレた時にどうするんだろうと思いながらも、沙希には こうするしか出来なかった。罪悪感を胸いっぱいに抱えたまま、エプロンを外す。

「ごちそう様でした。そろそろ失礼します」

『もう少しゆっくりして行ったら?』と言う母に 何度も頭を下げながら、コートを羽織る。

「享、今日パパ車置いて行ってるから、河野さん 車でお家までお送りしなさいよ」

「大丈夫です。本当に一人で帰れますから」

しかし沙希の言い分は通らないまま、結局青葉の運転するボルボの助手席のシートに深く沈んだ。


 それから一週間が経ったが、青葉からの連絡は一向になかった。前回の日曜の夜 車で家まで送ってもらった時、降りる間際に沙希が

「今日、お母さんに色んな事勝手に話しちゃってごめんなさい。無責任だけど・・・どうしていいか分からなくて・・・」

青葉はただ『うん』とだけ言って 車で消えていった。車の中でもろくに会話も無いまま、息苦しい時間だけが流れていたし、沙希は最初の頃の青葉が懐かしくさえあった。そして奥の方にしまい込んであったアクアマリンの指輪の入ったケースを取り出してみる。後片付けをしながら遠慮がちに聞いてきた青葉の母の台詞がプレイバックする。暫く悩んだ挙句、沙希は決意を固めた。


 その日は 早目に予約のお客様が上がり、残務整理も いつもより早目に片付き 城之内が店を後にすると、青山が様子を見計らう様にして沙希を呼んだ。

「最近どう?」

今までもこうやって 折を見ては時々声を掛けてきてくれていたが、今回は青山も何か 沙希の口から出るのを期待している様でもあった。しかしやはり、答えに困っているのを見て 青山が言い方を変える。

「城之内さんと・・・仕事やりづらい?」

確かに はっきり物を言うし、完璧主義者でプロ意識も高い分 沙希は事ある毎に その標的となっていた。しかし予約のミスがあって以来、城之内は一切沙希に何も言わなくなったのだ。だからといって 友好的な態度になる訳でもないのだが、仕事上の必要な事以外 会話を交わさなくなってしまった。それもまた、沙希にとっては悩みの種であったのだが・・・。青山の質問に、沙希も重たい口を開いた。

「城之内さんの方が 色々な意味で大先輩ですし、私よりもあちらの方が 私と一緒だと仕事がしづらいと思ってると思います」

「沙希ちゃん自身は、最近楽しく仕事出来てる?」

思わず目を伏せた。今までなら 青山にそう聞かれても意気揚々と胸を張って話せたのだったが・・・。暫く待っても ただ黙り込んでしまっている沙希を見かねて、青山が口火を切った。

「最近どことなく、上の空じゃない?」

「正直、城之内さんが2月のミーティングで仰った事、もっともだと思いました。でも それから私、どう接客していいのか 分からなくなってました。何が自分らしいのかさえも見えなくなってしまって・・・。それに、あんなにキャリアのある城之内さんと どう接点を見付けて上手く交わっていけばいいのかも、未だに模索中です」

湯気の立つカップを一つ 沙希の前に差し出しながら言った。

「やじろべえって昔あったの、覚えてる?あれって左右の錘が同じ重さだから バランスが保たれてるでしょ?このサロンも同じなの。私はこんな感じだし、城之内さんは城之内さんでカラーがあるし、沙希ちゃんは 目上の方にも失礼の無い様に上手に アドバイスする時はするし、それでいて 人を自然と和ませる温かさを持ってるし、人にはそれぞれ役割があると思うの。チーフがいた時はチーフを入れた三人だったし、今は城之内さんと私達三人のやじろべえなのよ。誰か一人だけ錘が大きくなっても小さくなってもダメなの。倒れちゃうのよ。だから沙希ちゃんが 持ち前の力を全力で発揮してくれないと、このサロンは サロンラヴィールじゃなくなっちゃうの。それ位沙希ちゃんは うちにとって大切な人だって事、忘れないでね」

その日の帰り道は、いつもよりも軽い気持ちで空を見上げた。か細い三日月が、今にも欠けそうな儚さで 夜空に浮かんでいた。

挿絵(By みてみん)

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