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みんな幸せになりました。  作者: さがら


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悪魔になる為に。

一


母が死んだ日、僕は学校で百点を取った。


数学の試験だった。


答案用紙の右上には、赤いインクで大きく百と書かれていた。先生は僕の頭を撫で、よく頑張ったね、と言った。


その日の試験では、クラスの全員が百点を取っていた。


誰かが間違えた問題には、先生が正しい答えを書き足してくれたからだ。


間違いを指摘することは、人を傷つける。


人を傷つけることは、いけないことだ。


それは、僕が生まれるずっと前から、この国で最も大切にされている決まりだった。


帰り道、花屋の前で一輪のカーネーションを買った。


母は赤い花が好きだった。


店のおばさんは僕に花を渡すと、いつものように微笑んだ。


「お母さん、きっと喜ぶわね」


僕も微笑み返した。


家に帰ると、母は台所で倒れていた。


床には割れた皿が散らばっていた。母の手には包丁が握られていて、指先はひどく白かった。


僕は母の肩を揺すった。


何度も名前を呼んだ。


けれど、母は目を開けなかった。


救急車を呼ぶと、十分ほどで二人の救急隊員がやってきた。


一人が母の脈を取り、もう一人が僕の隣にしゃがんだ。


「大丈夫だよ」


その人は言った。


「お母さんは、もう苦しまなくていいんだ」


僕は尋ねた。


「お母さん、死んだんですか」


救急隊員は困ったように微笑んだ。


「そんな悲しいことを考えなくてもいいんだよ」


「でも、死んだんでしょう」


「君は優しい子だね」


彼は僕の頭を撫でた。


「お母さんも、きっと幸せだったと思うよ」


その日、僕は初めて大人を殴った。


救急隊員は怒らなかった。


ただ、ひどく悲しそうな顔をして、僕を抱きしめた。


「つらかったね」


僕はもう一度殴った。


それでも彼は、僕を抱きしめていた。


二


母の葬儀は行われなかった。


葬儀は遺族に悲しみを与えるからだ。


代わりに、母の遺体は市の職員によって運び出された。


僕は母がどこへ行くのか尋ねた。


職員は笑顔で答えた。


「静かなところだよ」


「どこですか」


「とても静かで、素敵なところ」


「僕も行けますか」


「君には、もっと楽しいことが待っているよ」


それが母について聞いた最後の言葉だった。


翌日、僕は学校へ行った。


担任の先生は、僕の母が死んだことをクラスのみんなに伝えなかった。


悲しい知らせは、人を傷つけるからだ。


授業が終わると、隣の席の女の子が話しかけてきた。


「昨日、お母さんに怒られちゃった」


彼女の名前は春香といった。


僕は尋ねた。


「何をしたの」


「お母さんの大切な花瓶を割っちゃったの。でもね、お母さんはすぐに謝ってくれたよ」


「どうして?」


「私を悲しませちゃったから」


春香は嬉しそうに笑った。


「優しいお母さんでしょう」


僕は何も言わなかった。


春香は続けた。


「ねえ、今日遊びに行ってもいい?」


「母さんが死んだんだ」


春香は黙った。


それから、ゆっくりと微笑んだ。


「そんなこと言わないで」


「本当なんだ」


「悲しくなっちゃうよ」


「母さんが死んだんだよ」


春香の目に涙が浮かんだ。


「どうして、そんなひどいこと言うの?」


僕は彼女を見つめた。


春香は泣きながら教室を出ていった。


翌日から、彼女は僕に話しかけなくなった。


先生は僕を呼び出して言った。


「君の気持ちは分かるよ。でも、春香さんを悲しませるのはよくないね」


「僕も悲しいです」


「そうだね」


「母さんが死んだから」


「そうだね」


「どうして、誰も母さんが死んだって言わないんですか」


先生は少し考えた。


それから、僕の手を握った。


「君が傷つかないようにだよ」


そのとき、僕はようやく理解した。


この世界では、悲しんでいる人間よりも、悲しみを見せられる人間のほうが大切なのだ。


三


十七歳になった春、僕は一人の老人に出会った。


駅前の広場で、老人は地面に座っていた。


痩せた身体に古びた上着をまとい、足元には空の缶が置かれていた。


缶の中には一枚の硬貨も入っていなかった。


通行人はみな、老人に微笑みかけて通り過ぎた。


誰も立ち止まらなかった。


僕は老人に尋ねた。


「お腹が空いているんですか」


老人は僕を見上げた。


「そうだ」


「何か食べますか」


「食べたい」


僕は近くの店でパンを買い、老人に渡した。


老人は驚いたようにパンを見つめた。


「変わった子だな」


「どうしてですか」


「腹が減っているかなんて、普通は聞かん」


「なぜですか」


「腹が減っていると認めさせるのは、相手の尊厳を傷つけるからだ」


老人はパンをちぎって口に運んだ。


「だから皆、わしに笑いかけてくれる。あんたは立派だ、幸せそうだ、と言ってくれる」


「でも、お腹は空いているんでしょう」


「そうだ」


老人は笑った。


「この国には、腹を空かせた人間なんて一人もおらんことになっとる」


それから老人は、不思議な話をしてくれた。


昔、人間はもっと残酷だったという。


親は子供を叱り、教師は生徒を罰し、政治家は互いを罵り合った。


戦争があり、差別があり、殺人があった。


だが、ある日を境に、世界から悪意が消えた。


誰も他人を傷つけたいと思わなくなった。


争いはなくなり、犯罪は激減した。


人々はそれを「大調和」と呼んだ。


「素晴らしいことじゃないですか」


僕が言うと、老人は頷いた。


「素晴らしいことだった」


そして、パンを飲み込んだ。


「最初のうちはな」


老人は昔、医者だった。


ある日、末期癌の患者が運ばれてきた。


余命は三か月だった。


老人は患者に真実を告げようとした。


しかし、どうしても言葉が出なかった。


患者が悲しむ姿を想像すると、胸が締めつけられ、声が震えた。


結局、老人は言った。


「きっとよくなりますよ」


患者は安心して笑った。


そして三か月後、死んだ。


「奥さんも、子供もおった。最期に会いたい人間もおったろう。だが、わしは何も言えなかった」


老人は遠くを見つめた。


「人を傷つけたくないという気持ちは、確かに素晴らしい。だがな、坊主」


彼は僕を見た。


「人を救うには、ときにその人を傷つけなければならん」


「それなら、どうして誰もそうしないんですか」


老人は首を振った。


「できんのだよ」


「できない?」


「人を傷つけようとすると、身体が拒む。手が震え、息が詰まり、頭の中が真っ白になる。わしらは優しくなったんじゃない」


老人は自分の胸を指さした。


「優しくしか生きられなくなったんだ」


僕は尋ねた。


「それは、いつからですか」


老人はしばらく黙っていた。


「五十年ほど前だ。あの薬が配られた頃からだな」


四


薬の名前は、アガペー。


五十年前、世界保健機構が開発した神経調整剤だった。


当初は暴力犯罪者の更生を目的としていた。


薬は脳の共感機能を強化し、他人の苦痛を自分の苦痛として感じさせる作用を持っていた。


効果は絶大だった。


殺人犯は被害者の痛みを理解し、暴力を振るう者は自らの行為に耐えられなくなった。


やがて薬は一般市民にも配布された。


戦争は終わった。


虐待はなくなった。


人類は初めて、完全な平和を手に入れた。


しかし、薬には一つだけ問題があった。


人間は、相手を救うために与える苦痛と、相手を傷つけるために与える苦痛を、区別できなくなった。


医者は痛みを伴う治療を避けるようになった。


教師は生徒の間違いを指摘できなくなった。


裁判官は罪人に刑罰を言い渡せなくなった。


そして人々は、苦しんでいる人間から目を背けるようになった。


苦しみを認識すること自体が、自分を傷つけたからだ。


それでも社会は崩壊しなかった。


むしろ、人々の幸福度は年々上昇した。


不幸な出来事を報道する新聞はなくなった。


失業率の統計は廃止された。


病院では死亡者数を公表しなくなった。


誰もが幸せだった。


少なくとも、誰もがそう信じていた。


僕は大学の研究室で、アガペーについて調べ続けた。


そして、ある事実に辿り着いた。


アガペーの作用は、遺伝子に定着していた。


僕たちの世代は、生まれたときから他人を傷つけられない身体になっていたのだ。


僕だけを除いて。


僕には、人を傷つけることができた。


母が死んだ日、救急隊員を殴った。


春香に、母が死んだと告げた。


そして今も、人々が目を背けている事実を口にすることができる。


僕の身体には、アガペーへの耐性があった。


それがなぜなのかは分からなかった。


ただ、一つだけ確かなことがあった。


僕は、この世界を変えられるかもしれない。


五


研究を始めてから七年が経った。


僕は二十四歳になっていた。


その頃には、春香と再会していた。


彼女は看護師になっていた。


昔と変わらず、よく笑う人だった。


僕たちは何度も食事をし、映画を見て、休日には遠くの海へ出かけた。


彼女は僕の研究を理解していなかった。


それでも、いつも応援してくれた。


「きっと、素晴らしいものができるね」


ある夜、僕は春香に尋ねた。


「もし、僕が世界中の人を悲しませる薬を作ったら、どうする?」


春香は少し考えた。


「そんなことしないよ」


「どうして?」


「あなたは優しい人だから」


「でも、必要なことかもしれない」


春香は微笑んだ。


「悲しませる必要なんて、ないよ」


僕は彼女の顔を見た。


「君は、僕のことが好き?」


「もちろん」


「僕が間違ったことをしたら、止めてくれる?」


「もちろん」


「僕を傷つけることになっても?」


春香は黙った。


長い沈黙だった。


やがて彼女は言った。


「あなたが悲しむようなこと、私にはできないよ」


僕はそのとき、彼女が僕を愛しているのだと知った。


そして、彼女が僕を救うことは決してないのだとも知った。


六


解毒剤が完成したのは、それから三年後だった。


アガペーによって変化した神経機能を元に戻す薬。


それを投与すれば、人間は再び他人を傷つけられるようになる。


僕は研究成果を政府に提出した。


担当者は笑顔で言った。


「素晴らしい研究ですね」


「実用化できますか」


「もちろん、あなたの努力は尊重されるべきです」


「では、いつから?」


「焦らなくても大丈夫ですよ」


三か月後、研究は凍結された。


理由は、国民に不安を与える可能性があるためだった。


僕は抗議した。


担当者は僕の話を最後まで聞き、何度も頷いた。


「お気持ちはよく分かります」


そして何も変わらなかった。


その年、国内で大規模な感染症が発生した。


初期症状は軽い発熱と倦怠感。


しかし、放置すれば高い確率で呼吸不全を引き起こす病気だった。


治療法は存在した。


ただし、治療には激しい痛みを伴う処置が必要だった。


医者たちは患者に処置を勧めなかった。


患者を苦しませたくなかったからだ。


患者たちも医者に処置を求めなかった。


医者を困らせたくなかったからだ。


病院では、毎日大勢の人が死んだ。


ニュースでは連日、医療従事者たちの献身的な姿が報道された。


画面の中で、医者も看護師も患者も笑っていた。


春香も、その病院で働いていた。


ある晩、彼女から電話がかかってきた。


「ねえ、今日ね、患者さんが亡くなったの」


彼女は泣いていた。


僕は初めて、春香が人の死を口にするのを聞いた。


「助けられたんだよ。本当は助けられたの」


「春香」


「でも、痛がると思ったら、何もできなかった」


僕は彼女の話を聞いた。


「私、優しい人になりたかっただけなのに」


翌朝、春香は病院の屋上から飛び降りた。


遺書には、一言だけ書かれていた。


『もう誰も傷つけたくありません』


七


僕は解毒剤を大気中に散布する方法を考案した。


都市の給水施設に組み込まれた薬剤散布装置を利用すれば、数週間で世界中に行き渡らせることができる。


違法な行為だった。


しかし、僕を止める人間はいなかった。


研究施設の警備員は、僕が立入禁止区域に入っても怒らなかった。


「お仕事、頑張ってくださいね」


そう言って微笑んだ。


僕は薬を散布した。


一週間後、世界中で異変が起き始めた。


教師が生徒を叱った。


医者が患者に余命を告げた。


親が子供を殴った。


政治家が互いを非難した。


数十年ぶりに、戦争が始まった。


人々は恐怖した。


なぜ自分たちが、突然こんなにも残酷になったのか理解できなかった。


そして、僕の存在が明らかになった。


世界中の人々が僕を憎んだ。


僕の顔写真が新聞に載った。


僕の名前がテレビで繰り返し報道された。


人々は僕を悪魔と呼んだ。


だが、僕は後悔しなかった。


病院では、医者が患者に苦痛を伴う治療を施すようになった。


学校では、教師が生徒の間違いを正すようになった。


街では、飢えた老人に食事を与える人が現れた。


それと同時に、殺人が起こり、強盗が起こり、虐待が起こった。


世界は再び、醜くなった。


けれど僕は、これこそが人間なのだと思った。


人を傷つけることができるからこそ、人を救うこともできる。


僕はそう信じていた。


八


裁判は三年続いた。


僕は人類に対する犯罪で起訴された。


検察官は、僕の薬によって引き起こされた戦争や犯罪の被害者数を読み上げた。


その数は、僕が想像していたものより遥かに多かった。


弁護人は、僕の薬によって救われた命の数を示した。


感染症による死亡率は劇的に低下していた。


医療技術は再び進歩し始めていた。


世界中で、数えきれないほどの命が救われていた。


しかし、裁判官は言った。


「被告人は、人類から平和を奪った」


僕は答えた。


「平和ではありません。あれは、見て見ぬふりをしていただけです」


「あなたの行為によって、多くの人間が苦しんでいます」


「以前も苦しんでいました」


「ですが、以前の人々は幸福でした」


「幸福だと信じ込まされていただけです」


裁判官は僕を見つめた。


「あなたは、幸福だった人々を不幸にしたのです」


僕は何も言い返せなかった。


それが事実だったからだ。


判決は死刑だった。


九


処刑の前夜、僕のもとに一人の老人が訪ねてきた。


かつて駅前でパンを渡した、あの老人だった。


彼はもう九十歳を超えていた。


「久しぶりだな」


老人は言った。


「お元気そうで」


僕が答えると、老人は笑った。


「お前さんのおかげで、最近はよく腹が立つ」


「それはよかった」


「よくないわい。隣の部屋の男が毎晩うるさくてな。昨日はとうとう怒鳴ってしまった」


老人は愉快そうに笑った。


そして、ふと真顔になった。


「後悔しておるか」


僕は首を振った。


「いいえ」


「そうか」


老人は椅子に腰を下ろした。


「わしはな、最近になって、昔の患者のことをよく思い出す」


「余命を告げられなかった人ですか」


「ああ」


老人は窓の外を見た。


「今なら、ちゃんと言えると思う」


僕は頷いた。


「それなら、よかった」


老人はしばらく黙っていた。


それから、小さな声で言った。


「だがな、坊主。わしは最近、別のことも考えるんだ」


「何ですか」


「あの患者は、余命を知らずに死んだ。だが、最期まで自分は治ると信じておった」


老人は僕を見た。


「それは、本当に不幸だったのかね」


僕は答えられなかった。


「わしには、もう分からんよ」


老人は立ち上がった。


「ただ、一つだけ言えることがある」


「何ですか」


「お前さんは、わしにパンをくれた」


老人は微笑んだ。


「あの日のことだけは、今でも嬉しかったと思っておる」


老人が帰ったあと、僕は一晩中考えた。


母のこと。


春香のこと。


そして、僕が救った人々のこと。


僕は人間を救ったのだろうか。


それとも、ただ自分の信じる正しさを、世界中の人間に押しつけただけなのだろうか。


答えは出なかった。


十


処刑は、春のよく晴れた日に行われた。


僕は刑場へ向かう廊下を歩いた。


窓の外では、桜が咲いていた。


看守が言った。


「何か、最後に言い残すことはありますか」


僕は少し考えた。


「母さんに、会いたいです」


看守は黙っていた。


やがて、小さく答えた。


「そうですか」


それだけだった。


僕は笑った。


昔の世界なら、きっと彼はこう言っただろう。


大丈夫ですよ。


きっと会えますよ。


あなたは幸せになれますよ。


けれど、今の彼はそんな嘘をつかなかった。


僕はそれが、少し嬉しかった。


刑場には、誰もいなかった。


僕を見送る家族も、友人も、恋人も。


春香は死んだ。


母も死んだ。


僕が救った人々は、僕の名前すら知らない。


僕が傷つけた人々は、僕の死を望んでいる。


看守が僕の目を覆った。


最後に、僕は尋ねた。


「あなたは、僕が死んで悲しいですか」


看守はしばらく黙っていた。


そして答えた。


「いいえ」


僕は頷いた。


「そうですか」


足元の床が開いた。


その瞬間、僕は初めて、自分が本当は死にたくなかったのだと知った。

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