神託ログ23『神様たち、子どもの秘密を守りたい』
子どもという生き物は、大人が思っている以上に嘘が上手い。
少なくとも、レンはそう思っていた。
笑っていれば平気だと思われる。元気に返事をすれば、困っていないと思われる。何も言わなければ、何も考えていないと思われる。
だが、実際には違う。
子どもは、大人が知らないところで驚くほど多くのことを考えている。
何を言えば怒られるのか。
誰に相談すれば迷惑をかけるのか。
どこまで本当のことを話していいのか。
そんなことを、小さな頭で必死に考えている。
そして時には、大人を安心させるために嘘をつく。
だからこそ、レンは目の前の少年が浮かべた笑顔を、簡単には信じられなかった。
「……大丈夫です」
ユウはそう言った。
昨日、管理院の確認を保留したばかりの少年だった。
大神殿の中庭。
朝の光が石畳を照らし、植え込みの葉には夜露が残っている。神官たちが忙しそうに行き交う中、ユウは古い木箱を胸に抱えて立っていた。
レンはその顔を見つめた。
「……本当に?」
「はい」
返事は早かった。
早すぎるくらいだった。
レンは少し考えた。
それから、できるだけ普段どおりの声で尋ねた。
「昨日、ちゃんと眠れた?」
「……はい」
「朝ご飯は?」
「食べました」
「何食べた?」
「……パン」
「何個?」
「……一個」
「美味しかった?」
「……はい」
レンは頷いた。
「そっか」
ユウは少しだけ安心したようだった。
だが、その瞬間。
『質問が多すぎます』
ノアが淡々と言った。
「……え?」
『現在の会話は、相手の状態を確認するというより、尋問に近づいています』
「尋問!?」
『質問を重ねることで、相手が期待される回答を探す可能性があります』
「……なるほど」
レンは口を閉じた。
確かに、そうかもしれない。
心配だから聞く。
でも、聞きすぎれば、相手は答えなければならないと思ってしまう。
レンはユウへ向き直った。
「……ごめん。色々聞きすぎた」
ユウは目を丸くした。
「……え?」
「心配だったからさ。でも、答えたくないことは答えなくていいよ」
ユウはしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……はい」
レンは笑った。
「じゃあ、今日は何しに来たの?」
ユウは少し考えた。
そして、抱えていた木箱を差し出した。
「……これ」
「ん?」
「……もう一回、見てほしくて」
レンは木箱を受け取った。
昨日修理した、花の模様が彫られた古い箱。
蓋の金具はきちんと留まっている。木材にも、新しい傷は見当たらなかった。
「……どこか壊れた?」
ユウは首を横に振った。
「……壊れてないです」
「……じゃあ?」
ユウは少しだけ俯いた。
「……本当に、直ったのかなって」
レンは木箱を見つめた。
そして、ゆっくり蓋を開けた。
中には、小さな布切れが一枚入っていた。
薄い青色の布。
端には、花の刺繍が施されている。
「……お母さんの?」
レンが尋ねると、ユウは小さく頷いた。
「……はい」
レンはそれ以上、何も聞かなかった。
ただ、木箱の蓋を閉じ、ユウへ返した。
「……大丈夫。ちゃんと直ってるよ」
ユウは木箱を受け取った。
そして、少しだけ笑った。
「……よかった」
その笑顔は、先ほどより自然に見えた。
◇
その日の午前中、大神殿には一通の通知が届いた。
差出人は、職業管理院。
内容は、昨日保留されたユウの確認についてだった。
アリアが通知を読み上げると、レンは思わず眉を寄せた。
「……保留の再確認?」
「はい」
アリアは静かに頷いた。
「昨日の確認が完了しなかったため、改めて説明の場を設けたいそうです」
「……それだけ?」
「表向きは、そうです」
レンはその言葉に引っかかった。
「……表向き?」
アリアは少し考えた。
「確認が終わっていない子どもについて、学校への登録手続きが一時的に止まる可能性があると書かれています」
「……学校?」
レンは顔を上げた。
ユウはまだ幼い。
この町で生活を続けるなら、学ぶ場所も必要だ。
それなのに、性質の確認を保留しただけで、学校へ通う手続きまで止まるかもしれないという。
「……それ、おかしくない?」
レンが言うと、リナが頷いた。
「私もそう思う」
アリアは通知を机へ置いた。
「ただ、管理院は安全確認が必要だと説明しています」
レンは黙った。
安全。
また、その言葉だ。
もちろん、安全を守ることは大切だ。
だが、何を守るための安全なのか。
誰にとっての安全なのか。
それが曖昧なまま、子どもの生活が制限されていいのだろうか。
『……問題がありますね』
ノアが言った。
『確認の必要性と、教育を受ける機会の制限は、別々に検討すべき事項です』
「……うん」
『両者を結びつける合理的な理由が示されていません』
レンは頷いた。
その時、メルクが口を開いた。
『……レン』
「……何?」
『これは交渉の問題でもあるよ』
「……交渉?」
『相手は、確認を進めたい。そのために、学校の手続きを止める可能性を示している』
レンは黙って聞いた。
『でも、こちらが求めているのは、確認そのものを永久に拒否することじゃない。説明を受け、納得してから判断することだ』
「……なるほど」
『だったら、その二つを分けて話せばいい』
レンは顔を上げた。
「……学校の手続きは進めてもらって、確認については別に話し合う?」
『そういうことさ』
メルクが楽しそうに笑った。
『相手の要求を全部受け入れる必要も、全部拒否する必要もない。交渉というのは、その間にある道を探すことだからね』
レンは少し感心した。
「……メルク、たまにはいいこと言うね」
『たまには余計だよ』
「……ごめん」
『謝罪料を請求しようかな』
「前言撤回!!」
リナが吹き出した。
◇
午後。
レンたちはユウと一緒に、大神殿の相談室へ向かった。
管理院からの通知について説明するためだった。
ユウは静かに話を聞いていた。
だが、学校という言葉が出た瞬間、表情が変わった。
「……学校、行けなくなるんですか?」
レンはすぐには答えられなかった。
代わりにアリアが口を開いた。
「まだ決まったわけではありません。ただ、手続きが遅れる可能性があるそうです」
ユウは俯いた。
「……そっか」
小さな声だった。
レンは少し考えた。
「……ユウ」
「はい」
「学校、行きたい?」
ユウはしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……はい」
「……そっか」
レンは頷いた。
「じゃあ、その気持ちもちゃんと伝えよう」
ユウは顔を上げた。
「……いいんですか?」
「もちろん」
レンは笑った。
「学校へ行きたいって思うのは、悪いことじゃないから」
ユウは少しだけ安心したようだった。
だが、その直後。
「……でも」
声が震えた。
「……調べられるのは、嫌です」
レンは頷いた。
「うん」
「……わがままですか?」
その質問に、レンは胸が詰まった。
学校へ行きたい。
でも、自分の秘密は知られたくない。
その二つを望むことが、どうしてわがままになるのだろう。
「……違うよ」
レンは静かに答えた。
「わがままじゃない」
ユウは目を丸くした。
「……本当に?」
「うん」
レンは笑った。
「どっちも大切なことだよ」
ユウはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり頷いた。
「……はい」
その時、リナが口を開いた。
「……ユウ」
「はい」
「一つ、提案してもいい?」
ユウは顔を上げた。
「……何ですか?」
「管理院に、学校の手続きだけ先に進めてもらえないか聞いてみようと思うの」
ユウは少し驚いたようだった。
「……そんなこと、できるんですか?」
「分からない」
リナは正直に答えた。
「でも、聞いてみる価値はあると思う」
ユウは少し考えた。
そして。
「……お願いします」
小さく頭を下げた。
レンは頷いた。
「うん。一緒に考えよう」
◇
その日の夕方、レンたちは管理院へ向かった。
建物の前には、以前より多くの人が集まっていた。
性質の確認を待つ者。
登録について相談する者。
職業の変更を申請する者。
それぞれが、何かしらの事情を抱えている。
レンはその光景を見て、少しだけ胸が重くなった。
管理院は、この世界の人々にとって当たり前の存在だ。
職業を登録し、性質を確認し、必要な手続きを行う場所。
それ自体が悪いわけではない。
だが、そこに人々の人生が強く結びついているからこそ、管理する側の判断には大きな責任がある。
受付で事情を説明すると、しばらく待つように言われた。
レンたちは廊下の椅子に座った。
ユウは落ち着かない様子で、何度も周囲を見回している。
レンは何か声をかけようとした。
だが、リナが小さく首を振った。
今は、無理に話さなくてもいい。
そう言われた気がした。
レンは黙って隣に座った。
やがて、奥の扉が開いた。
「……お待たせしました」
現れたのは、ディンだった。
以前、レグルのもとで働いていた若い職員だ。
レンは少し驚いた。
「……ディンさん?」
「はい」
ディンは小さく頭を下げた。
「事情は聞いています。こちらへどうぞ」
レンたちは案内された部屋へ入った。
そこには、小さな机と数脚の椅子が並んでいた。
ディンは全員が座るのを待ってから、静かに口を開いた。
「……まず、学校の登録についてですが」
ユウが顔を上げた。
「現時点では、性質確認が完了していないことを理由に、手続きが保留されています」
レンは眉を寄せた。
「……やっぱり」
「ただし」
ディンは続けた。
「正式に入学を拒否されたわけではありません」
リナが尋ねた。
「では、確認を受けるまでずっと待たなければならないんですか?」
ディンは少し考えた。
「……通常の手続きでは、そうなります」
「通常の?」
レンが聞き返した。
ディンは頷いた。
「例外申請という方法があります」
レンは顔を上げた。
「……例外申請?」
「はい。事情がある場合、確認を保留したまま、学校の手続きだけ先に進めるよう求めることができます」
ユウの目が大きく開かれた。
「……本当ですか?」
「はい。ただし、認められるかどうかは審査次第です」
レンは頷いた。
完全な解決ではない。
だが、道はある。
「……それ、お願いできますか?」
ディンは静かに頷いた。
「申請書を用意します」
そして、机の引き出しから紙を取り出した。
その時。
レンは、ディンの手がわずかに震えていることに気づいた。
「……ディンさん?」
「……何でしょう」
「……大丈夫ですか?」
ディンは一瞬、動きを止めた。
そして、小さく笑った。
「……大丈夫です」
だが、その笑顔はどこか硬かった。
レンはそれ以上、何も聞かなかった。
今は、ユウの手続きを進めることが先だった。
◇
申請書の記入が終わる頃には、外が暗くなり始めていた。
ディンは書類を確認し、静かに頷いた。
「……これで受理できます」
ユウは大きく息を吐いた。
「……よかった」
リナも笑った。
「まずは一歩だね」
「うん」
レンは頷いた。
その時、ディンが小さく声を落とした。
「……レンさん」
「……はい?」
「少しだけ、お話できますか」
レンはリナを見た。
リナは頷いた。
「私たちは外で待ってる」
「……ありがとう」
リナとユウが部屋を出ると、ディンは扉を閉めた。
そして、しばらく黙っていた。
レンは急かさず待った。
やがて、ディンが口を開いた。
「……最近、管理院の中で妙なことが起きています」
レンは表情を引き締めた。
「……妙なこと?」
「確認を保留した人の記録が、通常とは違う部署へ送られているんです」
「……どこへ?」
ディンは首を横に振った。
「分かりません。閲覧権限がありませんから」
レンは黙った。
「ただ……」
ディンは続けた。
「送られた記録の一部に、古い育成管理機構と同じ識別形式が使われています」
レンの胸がざわついた。
育成管理機構。
あの、二百年前から続いているという仕組み。
自分の名前や職業を勝手に決めようとした存在。
その仕組みが、今も動いている。
「……つまり」
レンは静かに尋ねた。
「確認を保留した人が、育成管理機構に関係する何かへ送られている?」
ディンは頷かなかった。
「……まだ、断定はできません」
そして、小さく息を吐いた。
「ただ、偶然にしては不自然です」
レンは黙った。
ユウの確認。
学校の手続き。
そして、育成管理機構。
別々の問題だと思っていたものが、少しずつ繋がり始めている。
その時、エリオスが低い声で言った。
『……レン』
「……何?」
『その識別形式について、詳しく聞け』
レンは少し驚いた。
エリオスの声には、普段とは違う緊張があった。
「……ディンさん」
「はい」
「その識別形式って、どんなものなんですか?」
ディンは少し迷った。
そして、紙の端へ小さく記号を書いた。
円の中に、一本の縦線。
その下に、短い横線が二つ。
レンはその記号を見つめた。
見覚えはない。
だが。
『……それは』
エリオスの声が止まった。
「……エリオス?」
返事がない。
レンは眉を寄せた。
「……知ってるの?」
しばらく沈黙が続いた。
そして。
『……知っている』
エリオスが静かに答えた。
レンは息を呑んだ。
『それは、育成対象を管理するための古い識別印だ』
「……育成対象?」
『ああ』
エリオスは続けた。
『だが、妙だ』
「……何が?」
『その印は、本来、現在の職業管理院では使われないはずのものだ』
レンはディンの書いた記号を見つめた。
小さな印。
たったそれだけのものが、急に不気味に見えた。
「……じゃあ、何で?」
エリオスは答えなかった。
代わりに、低い声で言った。
『……誰かが、古い仕組みを再び使おうとしているのかもしれない』
レンは静かに息を吐いた。
窓の外では、町の灯りが一つずつ灯り始めていた。
その光景は、いつもと変わらない。
人々は家へ帰り、夕食の準備をし、明日の仕事を考えている。
だが、その日常の裏側で、何かが動いている。
レンは紙に書かれた記号を見つめた。
そして、小さく呟いた。
「……ユウのこと、守らないとな」
その時。
『……レン』
エリオスが静かに言った。
『一つだけ、忘れるな』
「……何?」
『守ることと、代わりに決めることは違う』
レンは少し驚いた。
そして、ゆっくり頷いた。
「……分かってる」
ユウは、自分で選んだ。
嘘をつかないこと。
確認を保留すること。
学校へ行きたいと伝えること。
その選択を、勝手に奪ってはいけない。
レンは小さく息を吐いた。
「……まずは、ユウに話そう」
エリオスは静かに頷いた。
『……ああ』
◇
大神殿へ戻る途中、ユウは少しだけ明るい表情をしていた。
学校へ行けるかもしれない。
それだけで、昨日よりも足取りが軽くなったように見えた。
リナも嬉しそうに笑っている。
「よかったね、ユウ」
「……はい」
ユウは小さく頷いた。
レンはその様子を見ながら、先ほどディンから聞いた話を思い返していた。
古い育成管理機構。
識別印。
確認を保留した人の記録。
気になることは多い。
だが、今ここで全部を話すべきなのだろうか。
レンは少し迷った。
その時、ノアが口を開いた。
『……レン』
「……何?」
『情報を伝える場合、相手が理解できる形に整理する必要があります』
「……うん」
『ただし、重要な情報を隠したまま判断させることにも問題があります』
レンは頷いた。
そうだ。
怖がらせたくないからといって、何も伝えなければいいわけではない。
でも、分からないことまで断定して話すのも違う。
レンは歩みを緩めた。
「……ユウ」
少年が振り向いた。
「……はい?」
「ちょっと話してもいい?」
ユウは頷いた。
レンは静かに言った。
「管理院の中で、まだ分からないことがあるらしいんだ」
ユウの表情が少し曇った。
「……僕のことですか?」
「ユウだけじゃない。確認を保留した人たちの記録について」
レンは続けた。
「でも、まだ何が起きてるのか分からない。だから、今すぐ何かが決まったわけじゃないよ」
ユウは黙って聞いていた。
「もし新しいことが分かったら、ちゃんと話す」
レンは笑った。
「その時、どうするか一緒に考えよう」
ユウはしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……はい」
レンは少し安心した。
だが、その瞬間。
ユウが抱えていた木箱の蓋が、わずかに浮いた。
カタリ。
小さな音だった。
レンは目を向けた。
「……あれ?」
ユウは慌てて木箱を押さえた。
「……何でもないです!」
レンは少し驚いた。
木箱の金具は、昨日きちんと修理したはずだ。
簡単に開くような状態ではない。
だが、今は確かに蓋が浮いた。
風のせいだろうか。
それとも。
『……レン』
ヴォルグが低い声で言った。
「……何?」
『その箱、昨日お前が直したものだな』
「……うん」
『金具の状態は、俺も確認した』
「……そうだね」
『なら、妙だ』
レンは眉を寄せた。
「……何が?」
ヴォルグは少し黙った。
そして。
『……金具は、外れていない』
レンは息を止めた。
「……え?」
『壊れてもいない。緩んでもいない』
レンはユウの抱える木箱を見つめた。
蓋は、すでに閉じている。
ユウは何事もなかったように歩き始めた。
だが、その横顔は少しだけ強張っていた。
『……なのに、蓋が開いた』
ヴォルグが静かに言った。
レンは何も答えられなかった。
ユウの隠している性質。
その正体は、まだ分からない。
だが。
何かが、確かに起きている。
レンは木箱を見つめた。
そして、心の中で小さく呟いた。
……ユウ。
君は、一体何を隠しているんだ?




