炎上の火元は王宮内部
偽造資料というものは、外から投げ込まれるものだと思っていた。
敵対新聞社。
商会。
神殿。
王太子派貴族。
そういう、いかにも悪そうな外部勢力が、いかにも悪そうな密室で、いかにも悪そうな笑みを浮かべながら作るものだと。
もちろん現実は違う。
悪事は、たいてい普通の顔をしている。
普通の机。
普通の印章。
普通の閲覧申請書。
普通の備考欄。
そして、普通の王宮内部から出てくる。
「……戻ってきてしまいました」
王宮広報局の裏口前で、私は低く呟いた。
元職場である。
正確には、職務停止中の元職場である。
もっと正確には、私を国家扇動罪で燃やすための資料が作られた疑いのある元職場である。
言葉にすると胃が痛い。
言葉にしなくても胃が痛い。
つまり詰んでいる。
「顔が白いですわ」
隣でエレオノーラ様が扇を開いた。
「元職場に証拠探しで戻る顔色としては標準です」
「その標準、どこの統計ですの?」
「前世です」
「また便利な前世ですこと」
カイル様は黙って門を見ていた。
今日は剣を帯びている。
けれど、第56話の時のような危うさはない。
怒っていないわけではない。
たぶん、ずっと怒っている。
ただ、その怒りを紙の上に置く覚悟をした人の顔をしていた。
「抜きませんよね」
私が念のため確認すると、カイル様は短く答えた。
「抜かない」
「机は」
「割らない」
「記録棚は」
「折らない」
「柱は」
「比喩なら折る」
「物理は禁止です」
「わかっている」
わかっている、と言った。
この人が。
えらい。
いや、成人男性が王宮内で物を壊さないと約束しただけで感動するのもどうかと思うが、我々はこの数日で基準がかなり焼け落ちている。
裏口の門番が、私たちを見て硬直した。
私。
エレオノーラ様。
カイル様。
セラさん。
それから、王宮記録局の立会官が二名。
人選だけ見れば、完全に「王宮内部監査、圧を添えて」だった。
「リディア・ノートン氏ですね」
「はい」
「本日は、国家扇動罪告発資料に関する照合確認のため、広報記録室への入室を許可されています」
「ありがとうございます」
「なお、入室は記録局立ち会いのもと、閲覧、照合、写しの保全のみ。資料の持ち出しは不可です」
「承知しています」
「辺境伯閣下の武器は――」
「抜かない」
カイル様が先に答えた。
門番が一瞬、安心した顔をした。
私は補足した。
「机も割りません」
門番の安心が消えた。
余計なことを言った自覚はある。
でも大事な確認である。
王宮勤めにおいて、机は消耗品ではない。
門を通る。
久しぶりの王宮広報局は、知っている匂いがした。
古い紙。
乾いたインク。
薄い茶。
そして胃薬。
帰ってきた、とは思わなかった。
ここにいた頃の私は、誰かの言葉を書いていた。
今の私は、自分への告発を作ったかもしれない紙を探しに来ている。
人生は、なかなか親切な構成をしてくれない。
廊下の端で、元同僚たちがこちらを見ていた。
目を逸らす人。
小さく頭を下げる人。
明らかに怯えている人。
私の中で、少しだけ黒い感情が動いた。
黙るのか。
私が燃えている時に。
でも、すぐにその言葉を飲み込む。
味方が黙る時もある。
怖いから。
守るものがあるから。
どう言えばいいかわからないから。
沈黙を全部、裏切りに分類してはいけない。
分類は便利だ。
でも便利すぎる分類は、人の心を紙の上で殺す。
「リディアさん」
資料室前で、ひとりの局員が待っていた。
以前、私と夜中まで訂正依頼を束ねたことのある先輩だ。
頬がこけている。
胃薬棚の前でよく会った顔である。
「鍵を預かっています」
「ありがとうございます」
「私は中には入れません。記録局の命令で、鍵の受け渡しだけです」
「はい」
先輩は鍵束を握ったまま、少しだけ視線を落とした。
「……全部が、あなたを疑っているわけじゃない」
声は小さかった。
廊下に吸われそうなほど。
私は返事に迷った。
ありがとう。
信じています。
大丈夫です。
どれも、少し嘘になる。
だから、仕事の言葉を選んだ。
「記録を残してくださって、ありがとうございます」
先輩の指が、わずかに震えた。
鍵が回る。
広報記録室の扉が開く。
そこは、紙の森だった。
壁一面の棚。
年ごとの王宮声明。
会見録。
訂正依頼。
神殿照会。
新聞対応記録。
王族失言分類表。
王族失言分類表だけで棚一段を使っているあたり、王家には一度本気で発言研修を受けてほしい。
「懐かしいですか」
セラさんが聞いた。
「懐かしいです」
「戻りたいですか」
「いいえ」
即答した。
セラさんが、少し笑った。
「安心しました」
戻りたいわけではない。
けれど、この部屋を全部否定したいわけでもない。
エレオノーラ様の会見録もここにある。
ミリア様の言葉を削らず残した記録もここにある。
北方から届いた手紙の写しも、ここに保管した。
ここには、人を守ろうとした紙もある。
だからこそ許せない。
同じ場所が、人を燃やすために使われたなら。
「問題の告発補強資料に記載されていた管理番号は、第三保管棚、東列、下段八号です」
記録局の立会官が淡々と言った。
私は頷く。
第三保管棚。
そこは、直近の広報対応記録が仮置きされる場所だった。
最終保管前の資料。
つまり、まだ多くの人が触れる。
その分、混ざりやすい。
そして、抜かれやすい。
棚の前に置かれた閲覧簿を開く。
日付、閲覧者、所属、閲覧目的、写しの有無、照合印。
規則正しく並んだ文字。
こういう整った書式を見ると、少し安心する。
同時に、少し怖い。
整った書式は、責任の所在を明らかにする。
だが、責任を分散させることもできる。
「該当日はここですね」
セラさんが指した。
国家扇動罪の告発資料が王宮外に出る三日前。
『閲覧者:王宮広報局整理補助員 ニコラ・ベイ
閲覧目的:過去声明草稿の形式確認
持ち出し:無
照合印:有』
「ニコラさん……」
私は名前を見て、眉を寄せた。
若い補助員だ。
目立つ子ではない。
書類を運び、印章を確認し、指示された棚を開ける。
そういう仕事をしていた。
「犯人か」
カイル様が聞く。
「まだです」
「名前がある」
「名前がある人が、火元とは限りません」
私は閲覧簿の次の行を見た。
同じ日。
夕刻。
『閲覧者:宰相府補佐官室 代理閲覧
閲覧目的:認識整理参考資料
写し:三部
照合印:有
備考:混乱防止のため至急』
空気が止まった。
カイル様の視線が、その一文に落ちる。
混乱防止。
たった四文字。
でも、彼の中の古い傷に触れるには十分だった。
私は火種を見る。
【火種:辺境伯感情再燃】
【火種:王宮内威圧再発】
【火種:記録破損】
【火種:北方反乱説再燃】
けれど、カイル様は拳を握らなかった。
机もない。
いや、棚はある。
あるけれど、折らない。
彼は、ただ文字を読んでいた。
「……同じだ」
低い声だった。
「父の時も、似た言葉だった」
「はい」
私は頷いた。
「でも、今は読みましょう」
「読む」
短い返事。
それだけで、胸の奥が少し痛くなった。
第56話で机を割った人が、今は同じ怒りを閲覧簿の上に留めている。
怒りが消えたわけではない。
形を変えている。
それは、誰にも見えない成長だった。
だから、私だけは見逃したくなかった。
「箱を開けます」
記録局の立会官が封印紐を解く。
箱の中には、問題となった記録群が入っていた。
会見録。
私の個人記録。
灯火新聞との照会文。
北方補助金遅延資料。
王太子演説関連記録。
そこに、不自然な要約紙が挟まっていた。
私は一枚抜き取る。
題名。
『リディア・ノートン氏発言傾向要約』
「私、要約されています」
「おめでとうございます」
セラさんが言った。
「全然めでたくありません」
「すみません。言わないと胃が痛くて」
「わかります」
紙には、私の過去発言が並んでいた。
『未確認情報で人を殴らないでください』
『それは謝罪ではありません。燃料です』
『火元を見ます』
『民の怒りは間違いではありません』
全部、言った。
言ったけれど。
隣には、別の解釈が付けられていた。
『未確認情報で人を殴らないでください』
――民衆の自然発言を否定し、情報選別権を自らへ集中させる表現。
『それは謝罪ではありません。燃料です』
――王族謝罪を妨害し、王家権威を低下させる表現。
『火元を見ます』
――民衆感情を操作対象として分析する表現。
『民の怒りは間違いではありません』
――民衆扇動への同調可能性。
見事だった。
腹が立つほど。
「切り抜きの見本市ですね」
私が言うと、エレオノーラ様が紙を覗き込んだ。
「雑ではありませんわね」
「そこが嫌です」
「あなたをよく読んでいますもの」
そう。
これを書いた者は、私を知らない人間ではない。
私の言葉のどこを切れば冷たく見えるか。
どこを並べれば危険人物に見えるか。
それを理解している。
つまり、これは外部の想像だけで作られた紙ではない。
王宮内部の記録に触れた者がいる。
火種が浮かぶ。
【火種:内部記録悪用】
【火種:リディア人格操作】
【火種:広報局不信拡大】
【火種:補助員単独犯化】
【火種:宰相府関与疑惑】
私は紙を机に置いた。
机。
よかった、まだ割れていない。
「筆跡は」
カイル様が聞く。
「転写機の活字です。手書きではありません」
「逃げられる」
「はい。活字は便利です。責任から逃げる時にも」
我ながら嫌な言い方だった。
でも、本当だ。
活字は整う。
整うと、誰の声かわからなくなる。
ベルクが好みそうな匿名性だ。
箱の底を調べると、古い冊子が出てきた。
私は動きを止める。
表紙は色褪せ、角が丸くなっている。
題名。
『王宮広報局 民声収集および応答整理暫定手引』
「民声……?」
セラさんが眉をひそめた。
私も知らない。
少なくとも、危機声明管理室で日常的に使う資料ではなかった。
冊子を開く。
古い王宮文書特有の、背筋だけが立派な文章が並んでいる。
『一、民声とは、地方掲示板、請願箱、神殿祈願記録、新聞投書欄、水晶掲示板、商会苦情帳簿等に表出する民意の兆候をいう』
『二、民声は、反乱、流言、王家不信、地方不満、税負担、神殿不信、貴族横暴等の兆候を早期に把握するため、定期的に収集されるべきものとする』
『三、収集した民声は、混乱防止のため適切に分類し、回答の要否を上申すること』
私は、ページの上に指を置いた。
民声。
王宮は、民の声を集めていた。
昔から。
まだ、民声の塔というものの正体は知らない。
王宮地下にそんなものがあるなんて、この時点の私は知らない。
けれど、この冊子は示していた。
王宮は、民の声を聞こうとしていた。
少なくとも、集めていた。
壁の標語が、脳裏に浮かぶ。
『王宮は、常に民の声を聞いております』
あれは、ただの飾り文句ではなかったのかもしれない。
聞いていた。
問題は。
返事をしたのか、だ。
私はページをめくる。
『回答例一。地方税負担に関する民声』
『貴殿らの声は確かに受領された。王宮は慎重に状況を確認し、必要に応じて適切なる措置を検討するものである』
沈黙。
セラさんが真顔で言った。
「これを読まされた民が反乱したのでは」
「否定できないのがつらいです」
硬い。
遠い。
返事の形をしているのに、誰にも返事をしていない。
前世で何度も見た文章だった。
受領しました。
確認します。
検討します。
適切に対応します。
その間に、誰かの生活は壊れる。
誰かの怒りは膨らむ。
誰かの声は、燃え上がることでしか届かなくなる。
次のページ。
私は息を止めた。
『混乱防止のため、回答を保留』
たった一文。
でも、その文字列は私の前世と、この王国と、カイル様の過去を一瞬で繋いだ。
混乱防止。
回答を保留。
混乱を避けるため。
援軍判断を慎重化。
父は死んだ。
私は横を見る。
カイル様は、その一文を見ていた。
顔から表情が消えている。
けれど、手は剣に触れていない。
拳も震えていない。
ただ、ページの端を見つめている。
「これも、同じだ」
彼が言った。
「はい」
「昔からある」
「この手引きが有効だったなら、そうです」
「王都は、ずっとこの言葉を使っていたのか」
「……まだ、全部はわかりません」
私は断定しなかった。
したくなかった、のではない。
断定には証拠がいる。
怒りには証拠がいらない。
だからこそ、今は証拠が必要だった。
火種感知は真実を教えてくれない。
ただ、火の繋がりを見せるだけだ。
今、私には見えている。
古い手引き。
カイル様の父を殺した記事。
私への告発資料。
それぞれに同じ種類の言葉がある。
答えないための言葉。
責任を遠ざけるための言葉。
混乱を避けるため、と言って、誰かを混乱の中に置き去りにする言葉。
エレオノーラ様が、冊子の後半に挟まった紙を見つけた。
「リディア、これを」
新しい紙だった。
古い冊子の間に、最近差し込まれている。
題名。
『民声収集資料の再整理に関する覚書』
日付は、王太子演説騒動の直前。
私は本文を読む。
『近時、王都および地方における民声の流動性が高まっている。王太子殿下に関する評価、神殿問題、北方補助金遅延問題、報道機関不信等が相互に接続する危険があるため、関連資料を再整理すること』
その下。
『調整責任者
宰相府補佐官 ベルク・アインハルト』
部屋の空気が、静かに沈んだ。
ようやく。
名前が出た。
噂ではない。
社交界の証言でもない。
新聞社の裏帳簿でもない。
王宮内部の覚書に、正式な役職つきで。
ベルク・アインハルト。
私は紙を見つめる。
あの丁寧な微笑みを思い出す。
『見事です。物語の修正がお上手だ』
『混乱を避けるため、有効な認識を整える必要があります』
彼は、嘘とは言わない。
整える。
整理する。
有効にする。
その言葉で、人の声を並べ替える。
「捕まえるか」
カイル様が言った。
「まだです」
「名前がある」
「はい。でも、これだけでは、私への偽造資料を作らせた証拠にはなりません」
「足りないのか」
「足りません」
「なら、足す」
「はい」
私は頷く。
「閲覧申請の原本、写し三部の移動先、ニコラ補助員への聞き取り、宰相府補佐官室の代理閲覧者。全部繋ぎます」
「読む」
「お願いします」
カイル様は、覚書を見た。
眉間に深く皺が刻まれている。
でも、逃げない。
怒りの外へ出ない。
言葉の中に留まっている。
私はその姿を見て、喉の奥が熱くなった。
泣く場面ではない。
泣いたら紙が滲む。
紙が滲むと照合が面倒だ。
よし、実務で感情を殴った。
いつもの私である。
セラさんが保全用封筒を用意する。
「この覚書、複写して記録局保全印を取ります。灯火新聞には?」
「まだ全部は出しません」
「ですよね」
「この段階で出すと、補助員単独犯にされるか、王宮全体不信に拡大します。まず線を繋ぐ必要があります」
エレオノーラ様が微笑んだ。
「慎重ですわね」
「慎重にしないと燃えます」
「燃えないため?」
「……いえ」
私は少しだけ考えた。
「間違った人を火元にしないためです」
エレオノーラ様の目元が、ほんの少し和らいだ。
火元を見る。
燃えている人ではなく、火をつけた場所を見る。
その心得を、私は何度も口にしてきた。
けれど、自分が燃えている時ほど、火元を見誤りやすい。
ニコラ補助員の名前はある。
でも、彼が火元とは限らない。
若い補助員を犯人にすれば、物語は簡単になる。
王宮の若手がリディアを恨み、資料を流した。
終わり。
わかりやすい。
だから危ない。
ベルクが好みそうな幕引きだ。
私は封筒に入れられた覚書を見た。
重い。
紙数枚のはずなのに。
たぶん、火元に近づいているからだ。
その時、広報記録室の扉の外で、小さな物音がした。
誰かが息を潜めている。
カイル様が一歩、扉の方へ動いた。
私は袖を掴む。
「物理は禁止です」
「まだ何もしていない」
「事前注意です」
「信用がない」
「机の件がありますから」
カイル様は黙った。
反論しないあたり、自覚はあるらしい。
エレオノーラ様が扇を閉じる。
「王宮も、こちらを見ているようですわね」
「でしょうね」
私は扉を見た。
王宮は、見ている。
民の声も。
私たちの言葉も。
都合の悪い苦情も。
返事をしないまま、分類し、保留し、整理してきた。
そして今、その仕組みの一部が、私を燃やすために使われている。
火元は、外だけではない。
王宮内部にある。
もっと深く言えば。
声を集めて、返事をしない仕組みそのものに、火種がある。
私は封筒を胸に抱えた。
「行きましょう」
カイル様が短く言う。
「どこへ」
「火元へ」
「まだ火元の手前です」
「なら、その手前へ行く」
「表現は正確にお願いします」
「長い」
「はい。でも必要です」
カイル様は少しだけ目を伏せた。
「……読む」
私は頷いた。
「一緒に読みましょう」
広報記録室を出る。
廊下の向こうで、局員たちがこちらを見ていた。
その視線に、恐怖と期待と沈黙が混ざっている。
私はもう、その全部を味方か敵かに分類しなかった。
まだ、分類できない。
まだ、返事もできない。
でも、記録は残す。
言葉は繋ぐ。
火元まで行く。
封筒の中には、正式な名前があった。
宰相府補佐官。
ベルク・アインハルト。
丁寧な言葉で火を整える男が、ようやく紙の上に姿を現した。




