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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
王都瓦版戦争

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49/100

瓦版社長の裏帳簿

 裏帳簿という言葉には、妙な魅力がある。


 悪事の証拠。


 黒幕の名前。


 金の流れ。


 密約。


 破滅。


 物語としては、とてもわかりやすい。


 だからこそ危ない。


 裏帳簿は、手に入れた瞬間に勝利を約束する魔法の本ではない。


 むしろ、扱いを間違えるとこちらが燃える。


 証拠能力。


 入手経路。


 改ざん可能性。


 関係者保護。


 名誉毀損。


 情報窃取。


 違法取得。


 王宮圧力。


 新聞弾圧。


 見るだけで胃が踊る単語の行列である。


 そして今、私の前には本当に裏帳簿があった。


「……本当に、出ましたね」


 私は灯火新聞(ともしびしんぶん)旧印刷所の奥部屋で、机の上に置かれた革表紙の帳簿を見下ろした。


 表紙には、ただこう書かれている。


『広告調整記録 第三冊』


 堂々としている。


 悪事というものは、たまに名前だけ事務的である。


 中身は最悪なのに。


 編集長は腕を組んでいた。


 エレオノーラ様は扇を閉じ、珍しく笑っていない。


 セラさんは記録水晶(きろくすいしょう)を三つ並べ、写本用の白紙を整えている。


 カイル様は扉の横に立っていた。


 立っているだけなのに、部屋の警備費が浮いている気がする。


 ただし、本人は帳簿を睨んでいる。


 帳簿は睨んでも自白しない。


「入手元は」


 私は編集長に聞いた。


「王都瓦版の経理係だった男だ。先週解雇された。理由は『紙代計算の不備』」


「本当の理由は?」


「見すぎたんだろうな」


「名前は伏せます」


「本人もそれを望んでる」


 セラさんが記録した。


『情報提供者名、現時点では秘匿。本人保護優先』


 私は頷く。


 ここで名前を出せば、記事は強くなる。


 しかし、証言者は消えるかもしれない。


 第48話の失敗が、まだ胸に残っている。


 届かせるために前へ出した言葉が、その人の背中に刃を向けることがある。


 だから、今は急がない。


 たとえ、相手がすでにこちらを潰しに来ていても。


「開きます」


 私は手袋をつけた。


 帳簿の一枚目をめくる。


 几帳面な字。


 日付。


 支払元。


 支払先。


 名目。


 備考。


 そこに並んでいた名前を見た瞬間、胃の奥が冷たくなった。


『ローレン子爵家 社交広告費』

『東市場商会連合 購読奨励金』

『神殿外郭慈善会 祈念特集協賛』

『王都瓦版社 緊急増刷調整』

『王宮儀典局補助費』

『宰相府補佐官室関連調整費』


 最後の一行に、手が止まる。


 宰相府補佐官室。


 ベルク・アインハルトのいる部署。


 印章そのものではない。


 本人の署名でもない。


 だが、資金の流れはそこへ触れている。


 火種が、視界の端で膨らんだ。


【火種:宰相府関与疑惑】

【火種:ベルク名指しリスク】

【火種:王宮内部資金流用】

【火種:新聞社買収疑惑】

【火種:証拠入手経路追及】

【火種:反王宮勢力認定】


「……ありますね」


 エレオノーラ様が静かに言った。


「あります」


 私は答えた。


 カイル様が短く聞く。


「ベルクか」


「まだ言えません」


「名前がある」


「部署関連調整費です。本人の支払いとは断定できません」


「逃げ道だな」


「証拠の言葉では、逃げ道ではなく未確定部分です」


 カイル様は不満そうに眉を寄せた。


「面倒だ」


「面倒な方が燃えにくいです」


「燃えている」


「もっと燃えるのを防いでいます」


 編集長が帳簿を覗き込む。


「王都瓦版社長、ダリオ・ハルトが昨日うちへ来たのは、この帳簿が流れたことを掴んだからか」


「おそらく」


 私は次のページをめくった。


 そこには、特集記事の題名らしきものが並んでいた。


『強い王特集』

『辺境支援遅延と弱い王宮』

『悪役令嬢問題総括』

『元聖女候補沈黙の真相』

『王宮広報官による情報統制疑惑』


 横には金額。


 支払元。


 掲載日。


 水晶掲示板への拡散依頼数。


 貴族サロン配布写し数。


 吟遊詩人向け短句。


 私は思わず額に手を当てた。


「吟遊詩人向け短句まで買っているんですか」


 先輩が青ざめる。


「歌われる炎上……」


「やめてください。胃に旋律がつきます」


 エレオノーラ様が一枚を指で示した。


「この『悪役令嬢問題総括』。支払元がローレン子爵家ですわね」


「王太子派のサロンを主催していた家ですね」


「ええ。ですが、この金額は子爵家単独では少し大きいですわ。おそらく名義を貸しただけ」


「実質の出資者が別にいる」


「その可能性が高いです」


 セラさんが地図を広げた。


 第46話でエレオノーラ様が集めた社交界の情報網。


 茶会。


 菓子代。


 令嬢たちの噂。


 商会の納品履歴。


 新聞記事の掲載日。


 それらを線で結んだ地図だ。


 地図というより、蜘蛛の巣である。


 蜘蛛が誰かは、まだ断定できない。


 でも、糸は見えてきた。


「ここ」


 セラさんが小さく言った。


「灯火新聞の北方記事が出た翌日、王都瓦版の『辺境支援遅延と弱い王宮』特集に追加金が入っています」


「北方の被害を王太子派の物語へ接続するためですね」


「支払名目は『国境不安対策広告』」


「広告名目が便利すぎます」


 私は帳簿の該当箇所を書き写した。


 手が震えないように、ゆっくり。


 ここで興奮してはいけない。


 裏帳簿を見つけた時ほど、事務処理が命綱になる。


 確認。


 複写。


 照合。


 記録水晶。


 原本保全。


 封印。


 第三者立ち会い。


 証人保護。


 記事化判断。


 やることが多い。


 胃痛同盟、改め臨時広報調査室りんじこうほうちょうさしつは、名前のわりに仕事が法務寄りになってきた。


 胃薬ではなく、弁護士が欲しい。


 この世界に弁護士がいるかは知らない。


 いても炎上対応には来たがらないだろう。


「リディア」


 カイル様が低く言った。


「はい」


「これで押さえられる」


「何をですか」


「瓦版社」


 嫌な予感がした。


「押さえる、とは」


「兵を出す」


「出しません」


「護衛だ」


「武装した護衛が新聞社へ行けば、見出しは『辺境伯、大手紙を武力で威圧』です」


「事実を突きつける」


「剣と一緒に突きつけると、事実が負けます」


 カイル様は黙った。


 納得はしていない顔だ。


 しかし、言葉を飲み込んでいる。


 偉い。


 最近のカイル様は、怒りをすぐ武器にしない努力をしている。


 ただ、努力している顔がものすごく怖い。


 先輩が小声で言う。


「辺境伯様、我慢の圧が強い……」


 カイル様がそちらを見た。


 先輩が椅子ごと後退した。


 エレオノーラ様が扇で口元を隠す。


「カイル様。お気持ちはわかりますが、今回はリディアの言う通りですわ」


「遅い」


「ええ。法に沿う追及は遅いです」


「その間に燃やされる」


「だからこそ、燃やされても使える証拠にするのです」


 エレオノーラ様の声は穏やかだった。


 しかし、言葉は逃げない。


「こちらが暴力で黙らせれば、相手は喜びます。弱い新聞を王宮と辺境伯が潰した、という物語にできますもの」


 カイル様が低く言う。


「なら、殴らない」


「当然です」


「机は」


「だめです」


「壁は」


「だめです」


「帳簿を出した男を守るためなら」


「守る方法を選んでくださいませ」


 カイル様は、少しだけ考えた。


 それから、ぼそりと言った。


「殴れば早い」


 部屋中の声が重なった。


「だめです」


 全員同時だった。


 自分でも驚くほど綺麗に揃った。


 カイル様は不満そうだ。


 私は思わず、ほんの一瞬だけ思ってしまった。


 殴れば早い。


 本当に、一瞬だけ。


 王都瓦版社長ダリオ・ハルト。


 彼は昨日、灯火新聞を買いに来た。


 証言記録を寄越せと言った。


 私たちの失敗をえぐり、証言者の痛みを武器にした。


 この帳簿を見る限り、彼の新聞は、怒りも不安も痛みも商品として値付けしている。


 そんな相手を、法に沿って、手順を踏んで、証拠能力を整え、相手に反論機会まで与える。


 面倒だ。


 遅い。


 その間にも次の記事が出る。


 誰かが傷つく。


 それなら、力で止めた方が。


 そこまで考えて、私は自分の手を見た。


 怖かった。


 私も、今、一瞬だけ早さを選びかけた。


 火を消すためなら、多少乱暴でもいいと。


 相手が悪いなら、手順を省いていいと。


 前世で何度も見た理屈だ。


 会社を守るためなら。


 混乱を避けるためなら。


 大きな被害を防ぐためなら。


 誰かの声を後回しにしてもいい。


 そうやって、私は誰かの言葉を消した。


 私は深く息を吸った。


「……今、一瞬だけ、早いと思いました」


 部屋が静かになる。


 自分で言う必要はなかったかもしれない。


 でも、言わないと自分の中で見えなくなる。


「殴れば早い、と」


 カイル様が私を見る。


 エレオノーラ様も。


 編集長も。


 私は続けた。


「だからこそ、だめです。相手が悪くても、こちらが手順を捨てた瞬間、相手の物語になります。『王宮広報官と辺境伯が、新聞社を暴力で黙らせた』。それは、読者にとってわかりやすい。強い。売れる。こちらの証拠は、その見出しの下に潰されます」


 カイル様は黙っている。


「暴力で黙らせたら、相手の物語になります」


 私は言った。


 自分にも言い聞かせるように。


「今回は、殴りません。燃やしません。押収もしません。買収もしません。合法的に追及します」


 先輩が小さく手を上げた。


「あの、合法的に追及、具体的には?」


「まず、帳簿の原本を第三者保全に回します。灯火新聞単独ではなく、商会監査人、グランフェルト公爵家の法務代理人、可能なら王宮記録局の中立記録官にも写しを預ける」


「王宮記録局、協力しますかね」


「エレオノーラ様経由で照会します」


「私の出番ですわね」


 エレオノーラ様が微笑んだ。


 その笑みは優雅だが、目が少し鋭い。


「それから、帳簿記載と実際の記事掲載日、広告欄、商会支払記録、社交界での同時噂、掲示板拡散文言を照合します」


 私は紙に手順を書き出した。


 一、帳簿原本の封印記録。


 二、写本作成。


 三、記録水晶での複写過程保全。


 四、外部監査人への照会。


 五、記事掲載記録との照合。


 六、名義貸し疑惑のある貴族家への質問状。


 七、王都瓦版への反論機会付与。


 八、回答期限設定。


 九、回答不能または拒否の場合、その事実を掲載。


 十、号外準備。


 書いているだけで肩が凝る。


 でも、この面倒くささが防火壁になる。


「質問状を出すのか」


 カイル様が言った。


「はい」


「相手に逃げる時間を与える」


「相手に答える機会を与えます」


「同じだ」


「似ています。でも違います」


 カイル様は眉間を寄せる。


 私は少しだけ声を柔らかくした。


「カイル様。北方の手紙も、返事がありませんでした。こちらが相手に返事の機会を与えずに断罪したら、同じになります」


 その言葉に、カイル様の表情が少し変わった。


 北方。


 手紙。


 返事。


 この人にとって、軽い言葉ではない。


「……わかった」


 短い。


 でも、飲み込んだ言葉だった。


 私は小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


「ただし」


「はい」


「逃げたら」


「逃げた事実を書きます」


「隠したら」


「隠した記録を書きます」


「燃やしたら」


「燃やした灰も記録します」


 カイル様は頷いた。


「ならいい」


 よくはない。


 でも、少しだけ前に進んだ。


 その時、セラさんが帳簿の中盤で手を止めた。


「リディアさん」


「はい」


「これ、神殿外郭慈善会の支払いです」


「聖女ブーム関連ですか」


「はい。ただ、支払先が王都瓦版だけではありません。水晶掲示板の管理商会、絵姿版元、香油組合にも流れています」


「香油……」


 思い出した。


『一滴で心清らかに』


 法的に危ない効能表記。


 あのふざけた広告も、同じ網の中にあった。


 エレオノーラ様が顔を曇らせる。


「ミリア様の件にも繋がりますわね」


「ただし、ミリア様はまだ外部発言制限中です。今、名前を出して巻き込むのは危険です」


「ええ。第30話の時点で、彼女はまだ火の外に出ていない」


 私は王宮記録局から届いていた報告を思い出す。


『ミリア・セレスの聖女候補辞退申請について、神殿側は正式受理をなお保留。王宮記録局による保護移管手続きは進行中。外部面会は引き続き記録局立ち会いに限定』


 まだだ。


 ミリア様の言葉は、まだ細い。


 ここで大手新聞社の資金疑惑に彼女を巻き込めば、また「元聖女候補、広告詐欺の中心」と消費される。


 それは避ける。


「ミリア様関連は、まず記録局に保全照会。本人名は出さず、神殿外郭慈善会の資金流入として扱います」


「正しいですわ」


 エレオノーラ様は頷いた。


「ただ、王都瓦版はそこを突いてくるかもしれませんわね」


「はい」


「リディアたちは元聖女候補を隠している、と」


「火種ですね」


【火種:ミリア隠蔽疑惑】

【火種:王宮保護という名の沈黙】

【火種:神殿再利用】

【火種:被害者の再商品化】


 うん。


 胃が痛い。


 そろそろ胃が労働組合を作る。


 編集長が帳簿の別頁を指で叩いた。


「商会の金も大きいな」


 そこには、東市場商会連合、西門輸送組合、南香油商会、王都紙問屋組合の名が並んでいた。


 商会から新聞へ。


 新聞から世論へ。


 世論から商品へ。


 商品からまた広告へ。


 炎上は、金になる。


 知っていた。


 でも帳簿で見ると、吐き気がするほど生々しい。


「情報を売る者は、何を売っているのか」


 私は呟いた。


 エレオノーラ様が静かに答える。


「不安ですわ」


 編集長が続ける。


「怒りだな」


 セラさんが言う。


「安心もです」


 先輩がぽつりと言った。


「誰かを悪者にして、安心する権利みたいなものも」


 部屋が少し沈黙した。


 先輩は慌てて手を振る。


「あ、すみません。今の、ちょっと真面目すぎました?」


「いえ」


 私は首を振った。


「記事に入れたいくらいです」


「やめてください、私の胃が見出しになります」


「なりません」


 たぶん。


 今は。


 私は帳簿の写しを見ながら、記事構成を考え始めた。


 ただし、号外に全部は出せない。


 全部出せば、焦点がぼやける。


 王太子派貴族。


 神殿。


 商会。


 王宮内部部署。


 全部を一度に並べれば、大陰謀だ。


 大陰謀は読まれる。


 だが同時に、陰謀論にも見える。


 こちらが追っているのは、確認可能な金の流れだ。


 感情に流されるな。


 強く書け。


 でも煽るな。


 読ませろ。


 でも消費するな。


 無理難題にもほどがある。


 前世の上司が夢の中で言いそうだ。


 私はその幻に心の中で赤字を入れた。


「記事の柱は三つに絞ります」


 私は言った。


「一つ、大手新聞社が特定論調の記事について外部資金を受け取っていた疑い。二つ、その資金が王太子派貴族、神殿関連団体、商会、王宮系部署にまたがること。三つ、これらの記事が訂正拒否、切り抜き、同時拡散と結びついていること」


「ベルクの名は?」


 編集長が聞く。


「出しません」


 カイル様が不満そうにする。


 私は続けた。


「今は部署名までです。本人名を出すには足りません。ここでベルク様を名指しすると、相手は『根拠なき個人攻撃』へ論点をずらせます」


「では逃げる」


「逃げた道を記録します」


「遅い」


「はい」


 私は認めた。


「遅いです。でも、遅くても崩れない形にします」


 カイル様はまた黙った。


 今度の沈黙は、怒りを飲み込んでいるだけではなかった。


 たぶん、考えている。


 この人は少しずつ、長い手順に向き合おうとしている。


 それが、私にはわかるようになってきた。


 編集長は帳簿を閉じた。


「号外は出せる。だが、王都瓦版の反撃も来る」


「何で来ますか」


「まずは入手経路批判。盗品だ、偽造だ、王宮が作った偽資料だ。次に証言者脅し。あと、灯火新聞は辺境伯の金で動いている、という広告費の話も蒸し返すだろう」


「カイル様の広告費は明記済みです」


「明記していても叩ける。読者は明記欄を読まん」


「見出しだけで殴る文化、禁止したいです」


「禁止すると新聞が死ぬ」


「一部死んでください」


「本音が出てるぞ」


 いけない。


 疲れている。


 私は胃薬を取り出した。


 すると、カイル様が机に小さな包みを置いた。


「飲め」


「ありがとうございます。これは?」


「北方の胃薬」


「またですか」


「効く」


「北方、胃薬文化が発達しすぎでは」


「王都の記事のせいだ」


「否定できません」


 私はありがたく受け取った。


 エレオノーラ様が少しだけ笑った。


 その笑みは、今日初めて見た柔らかいものだった。


「さて。リディア」


「はい」


「質問状の文案を作りましょう。相手に逃げ道を与えるのではなく、逃げた場所を記録できる形に」


「はい」


 私は白紙を取った。


 王都瓦版社長ダリオ・ハルト宛。


 ローレン子爵家宛。


 神殿外郭慈善会宛。


 東市場商会連合宛。


 王宮儀典局宛。


 宰相府補佐官室関連部署宛。


 書く相手が多すぎる。


 手紙というより包囲網だ。


 ただし、剣ではない。


 質問で囲む。


 記録で囲む。


 返答期限で囲む。


 私は筆を動かした。


『貴紙広告調整記録第三冊と見られる帳簿写しに、以下の記載が確認されています。貴紙として、当該記録の存在、記載内容、資金授受の有無、記事編集方針への影響について、七日以内にご回答ください』


 硬い。


 だが必要だ。


 続いて、読者向け記事の仮見出しを別紙に書く。


『王都瓦版、特定記事に外部資金か』


 弱い。


『強い王特集に、王太子派資金の影』


 強い。


 火種が見える。


【火種:王太子派反発】

【火種:名誉毀損主張】

【火種:王宮内対立激化】


 まだ早い。


 私は線を引いて消す。


『大手紙の金の流れを問う』


 地味。


 でも、逃げない。


 編集長が横から覗いた。


「見出しで悩むな」


「悩みます」


「号外の見出しはこっちで考える」


「不安です」


「失礼だな」


「第48話の反省がありますので」


「それは正しい」


 編集長は少し黙り、それから言った。


「証言者の件は、俺の責任でもある」


「いえ、私が」


「共同責任だ。新聞は一人で出してない」


 その言葉に、胸が少し詰まった。


 一人で背負う癖がある。


 前世からずっと。


 でも今は、違う。


 同じ紙を見ている人たちがいる。


 同じ火を見ている人たちがいる。


 だからこそ、失敗も共有される。


 少し怖い。


 少し救われる。


 その時、旧印刷所の扉が激しく叩かれた。


 全員が動きを止める。


 カイル様が一歩前へ出る。


 編集長が短く言った。


「合図が違う」


 味方ではない。


 扉の向こうから、男の声がした。


「王都瓦版社より正式抗議文を持参した! 開けられたい!」


 早い。


 早すぎる。


 まだ質問状も送っていない。


 向こうも動いている。


 セラさんが小声で言う。


「昨日の録音水晶の件でしょうか」


「おそらく」


 私は深呼吸した。


「開けましょう。ただし記録水晶を」


「もう回しています」


 セラさんは優秀だ。


 カイル様が扉に手をかける。


 私は慌てて言った。


「カイル様、穏便に」


「開けるだけだ」


「開け方にも火種があります」


 カイル様は一瞬考え、扉を普通に開けた。


 偉い。


 普通に扉を開けただけで褒めたくなる辺境伯、だいぶ危険である。


 外にいたのは、王都瓦版の使者だった。


 顔色が悪い。


 手には封書。


 後ろには、遠巻きに数人の見物人がいる。


 もう誰かが呼んでいる。


 王都の噂は、足が速いだけでなく、耳も多い。


 使者は封書を差し出した。


「王都瓦版社より、灯火新聞および臨時広報調査室に対する正式抗議である」


 私は受け取らない。


「内容を読み上げてください。記録します」


 使者は戸惑った。


「これは封書で」


「読み上げを拒否される場合、その旨を記録します」


「……っ」


 使者は封を切った。


 そして、硬い声で読み上げた。


『灯火新聞および臨時広報調査室が、王都瓦版社に関する虚偽情報を流布し、当社の信用を毀損する準備を進めているとの情報を得た。当社は、王宮関係者および辺境伯勢力による報道機関への不当圧力に強く抗議する』


 来た。


 まだ出していない記事への抗議。


 先回りの被害者化。


 火種が一気に燃え上がる。


【火種:報道機関への不当圧力】

【火種:王宮関係者による言論弾圧】

【火種:辺境伯勢力】

【火種:灯火新聞信用毀損】

【火種:臨時広報調査室解体要求】


 私は静かに聞いた。


 使者は続ける。


『特に、北方辺境伯カイル・ヴァレンシュタイン閣下より灯火新聞へ資金提供が行われている事実は、灯火新聞が中立性を欠くことを示している。当社は、灯火新聞が保有する記事資料、証言記録、および広告資金の全記録の公開を求める』


 見事だ。


 こちらの明記済み広告費を逆手に取って、証言記録公開要求に繋げている。


 証言者を守れば「隠蔽」。


 公開すれば「証言者危険」。


 どちらにしても燃える。


 嫌な技術が高い。


 王都瓦版社長、やはりただの嫌な人ではない。


 有能な嫌な人だ。


 最悪である。


 使者が読み終える。


 私は一拍置いた。


 そして言った。


「受領しました」


「回答は」


「七日以内に文書で回答します」


「遅い!」


「正式抗議への正式回答です。即答は誤解を招きます」


 使者が苛立つ。


 見物人たちがざわつく。


 私は続けた。


「ただし、現時点で一点だけ明確にします」


 カイル様がこちらを見る。


 エレオノーラ様が静かに扇を構えた。


 私は使者に向き直る。


「証言記録は公開しません。証言者保護のためです。灯火新聞への広告資金については、掲載時に広告として明記済みです。未公開資金の有無については、記録を確認の上、回答します」


「それは隠蔽では」


「証言者保護です。必要であれば、中立記録官立ち会いで保全状況を示します」


 私は少しだけ声を強くした。


「人の証言は、新聞社同士の殴り合いの景品ではありません」


 使者は言葉に詰まった。


 見物人の一人が小さく呟く。


「景品……」


 まずい。


 そこだけ切り抜かれる可能性がある。


 火種が揺れた。


【火種:新聞社同士の殴り合い発言切り抜き】


 私はすぐ補足した。


「訂正します。今の表現は強すぎました。正確には、証言記録は本人保護を前提に管理されるべき資料であり、当事者の同意なく公開要求に応じるものではありません」


 見物人がまたざわつく。


「訂正早いな」


「灯火新聞の人たち、訂正好きだな」


 編集長が小声で言った。


「訂正欄だけは大きいからな」


 今言うことではない。


 使者は封書を置き、逃げるように去った。


 扉が閉まる。


 私は長く息を吐いた。


「先に抗議を打ってきましたね」


「想定内だ」


 編集長が言った。


「だが、向こうはまだ裏帳簿がこちらにあることを確信していない。だから圧力で止めに来た」


「なら、号外を急ぐべきです」


 セラさんが言う。


「でも、確認手順は省けません」


 私は帳簿を見た。


 質問状。


 抗議文。


 裏帳簿。


 録音水晶。


 広告記録。


 証言保護。


 もう火種だらけだ。


 でも、火元は少しずつ見えている。


 王都瓦版の紙面だけではない。


 金の流れ。


 広告主。


 王宮内部の部署。


 神殿関連団体。


 商会。


 そして、その先にいる誰か。


 ベルク。


 まだ名指しできない。


 でも、火の匂いはする。


 私は新しい紙を取った。


 編集長が言う。


「リディア、号外準備だ」


「はい」


「見出し案はこっちで出す」


「確認します」


「当然だ」


 エレオノーラ様が微笑んだ。


「私の情報網も動かしますわ。名義貸しの貴族家に、お茶会の招待状を」


「またお茶会ですか」


「情報は甘い匂いで釣れるのでしょう?」


「恐ろしい実証ですね」


 カイル様が短く言った。


「護衛を増やす」


「武装の印象が強くなりすぎない範囲でお願いします」


「難しい」


「存在が武装みたいですからね」


「俺が?」


「はい」


 カイル様は少し考え込んだ。


「……薄く立つ」


「無理しないでください」


 先輩が耐えきれずに笑いかけ、すぐ胃を押さえた。


 私は帳簿の写しをまとめ、封印した。


 紙の束が重い。


 けれど、これは剣ではない。


 弾薬でもない。


 たぶん、問いだ。


 王都の新聞は、何を売っているのか。


 誰が、それを買っているのか。


 読者は、何を買わされているのか。


 その問いを、ようやく形にできる。


 灯火新聞の印刷機が、奥で動き始めた。


 ごうん、ごうん、と古い音が鳴る。


 号外の準備が始まる音だ。


 私は胃薬を飲み、筆を握った。


 暴力は早い。


 嘘も早い。


 噂はもっと早い。


 でも、記録は残る。


 遅くても、崩れない形にする。


 それが、今の私たちにできる火消しだった。


 そして、旧印刷所の夜に、最初の仮見出しが置かれた。


『王都瓦版、資金疑惑――特定論調記事に外部資金か』


 地味だ。


 硬い。


 でも、逃げていない。


 編集長がそれを見て、にやりと笑った。


「号外を出すのはこちらだ」


 火種が、印刷機の音に混じって揺れた。

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