真実は地味なので、伝え方を変えます
真実は地味である。
これは、危機声明管理室時代から私が嫌というほど知っている事実だった。
事実確認。
時系列。
関係者一覧。
証拠保全状況。
未確認事項。
訂正依頼先。
再発防止策。
どれも重要だ。
重要なのに、読まれない。
読まれない真実は、机の上に積まれた乾パンに似ている。
栄養はある。
必要でもある。
でも、宴会場で香草焼きと蜂蜜菓子の隣に置かれたら、ほぼ誰も手を伸ばさない。
そして噂は、だいたい蜂蜜を塗った毒菓子の顔をしている。
「つまり、真実にも味付けが必要です」
私は灯火新聞の旧印刷所で、原稿束を前に宣言した。
編集長が煙草も吸っていないのに、煙草を揉み消すような顔をした。
「味付けを間違えると、新聞ではなく宣伝になる」
「わかっています」
「本当にか」
「わかっています。だから胃が痛いんです」
「便利な判定方法だな」
便利ではない。
痛いだけだ。
机の上には、前回出した北方広告と記事への反応写しが積まれていた。
広告欄の一文は、それなりに届いた。
『北方には、王都を憎む声もある。だが、辺境軍の武器は王都へ向けるためのものではない。国境と民を守るためのものである。――カイル・ヴァレンシュタイン』
短いようで、カイル様にしては長い。
長いようで、王都の読者にはぎりぎり読まれた。
水晶掲示板には、相変わらず好き勝手な反応が並んでいる。
『辺境伯、広告でも硬い』
『王都を憎む声もあるって正直すぎない?』
『むしろ信用できる』
『いや怖いだろ』
『寒いだけ、ちょっと好き』
『灯火新聞は辺境伯に買われた新聞』
『広告って明記してるからまだマシ』
『王都瓦版の広告主も明記しろ』
完璧ではない。
でも、噂の流れに小石を投げ込むことはできた。
問題は次だ。
灯火新聞の読者は少し増えた。
だからこそ、次の記事は読まれる。
読まれるなら、失敗も大きくなる。
「で、リディアさんの初稿がこれか」
編集長が私の原稿を持ち上げた。
「はい」
「題名は」
「『王都主要紙における一連の報道傾向と訂正拒否事例について』です」
旧印刷所の中が静まった。
セラさんが目を伏せた。
先輩が胃薬瓶をそっとこちらへ滑らせた。
エレオノーラ様が扇で口元を隠した。
カイル様は原稿を一行読んで、すでに遠くを見ている。
「編集長」
「なんだ」
「何か問題が?」
「これは新聞ではなく冬眠用の毛布だ」
「毛布」
「読者が三行で寝る。五行で春まで起きない」
「そんなにですか」
「そんなにだ」
編集長は私の原稿を机に置いた。
「内容は悪くない。むしろ証拠の並べ方はいい。だが、これは王宮内部の報告書だ。新聞記事じゃない」
「でも、正確です」
「正確なだけなら写本師に頼め」
「うっ」
「新聞は読まれてからが始まりだ。読まれなければ、ただの紙だ」
わかっている。
わかっているのだ。
だから困っている。
事実を強く見せるには、切り口が必要になる。
切り口を作るには、何かを前に出し、何かを後ろへ下げる。
それは、切り抜きと何が違うのか。
どこまでが構成で、どこからが誘導なのか。
先日から、その境界線がずっと私の胃を焼いている。
エレオノーラ様が、静かに紅茶のカップを置いた。
今日の彼女は、淡い菫色のドレスを着ている。
社交界の情報戦から戻ったばかりなのに、背筋は少しも崩れていない。
その姿は美しい。
美しいからこそ、たまに私は不安になる。
この人は、どこに疲れを置いているのだろう。
「リディア」
「はい」
「人は物語で理解しますわ」
その言葉に、私は思わず顔を上げた。
エレオノーラ様の声は柔らかい。
けれど、その言い回しは私の中に冷たい影を落とした。
ベルクの声が蘇る。
『見事です。物語の修正がお上手だ』
物語。
その言葉は便利すぎる。
誰かの人生を、読みやすい筋書きにしてしまう。
悪役令嬢。
聖女候補。
冷血公。
強い王。
言葉を並べるだけで、人間は役に押し込まれる。
「……ベルクも、似たようなことを言いました」
私は言った。
エレオノーラ様は頷く。
「でしょうね」
「なら、同じになりませんか」
「同じ道具を使うことと、同じ目的で使うことは違いますわ」
扇が、ぱちりと閉じられる。
「ベルク様は、人を動かすために物語を作る。私たちは、人が立ち止まれるように順序を整える。似ております。だから怖い。けれど、怖いから使わない、では相手の見出しだけが走ります」
正論だ。
腹が立たない正論だ。
つまり、とても厄介だ。
「読ませるための構成と、操るための物語」
私は呟いた。
「境界線は?」
「常に確認し続けるしかありませんわ」
「曖昧ですね」
「ええ。だから人間がやるのです」
編集長が頷いた。
「いいことを言うな、公爵令嬢」
「悪役令嬢ですもの」
「肩書きが変わってるぞ」
「便利な方を使いますわ」
先輩が小声で言った。
「強い……」
私は原稿を見下ろした。
正確だ。
でも眠い。
正しさが眠気を誘うとは、エレオノーラ様に前にも言われた。
今の原稿は、読者に毛布をかけている。
炎上中に寝かせてどうする。
「では、証言を中心にします」
私は新しい紙を取った。
「大手新聞社の資金疑惑そのものは、まだ裏帳簿が確定していません。今出せるのは、訂正拒否の記録、切り抜き報道の比較、被害を受けた当事者の証言です」
「証言者の名前は?」
セラさんが聞く。
「危険がある人は伏せます。本人許可がある場合のみ名を出す。ただし、匿名にしすぎると信頼性が落ちるので、属性と記録水晶の保全状況を明記します」
「いつものリディアさんですね」
「いつもの私です」
少し安心した。
手順があると落ち着く。
手順は、胃薬の次に私を支えてくれる。
ただし、手順だけでは読まれない。
私は北方で聞いた言葉を思い出す。
薬代は難しくないよ。
払えなかった。
それだけ。
兵士の妻が言った言葉だ。
彼女は名前を出すことをまだ迷っていた。
でも、証言の使用は許可してくれている。
生活の具体がある。
薬代。
靴代。
毛布。
子どもの手紙。
訂正欄の小ささ。
人は抽象では怒れない。
いや、怒れる。
でも、届くのは具体だ。
ミリア様が「皆さま」から名前を取り戻しつつあるように。
エレオノーラ様が「悪役令嬢」ではなく、エレオノーラ・グランフェルトであるように。
北方兵が「辺境軍」ではなく、靴が破れ、薬代に困る人であるように。
私は筆を置いた。
そして見出しを書いた。
『小さな訂正欄の陰で、薬代は戻らなかった』
書いた瞬間、火種が揺れた。
【火種:感情的見出し】
【火種:大手新聞社への反発集中】
【火種:証言者特定リスク】
【火種:北方被害の消費】
【火種:王都読者の罪悪感刺激】
胃が痛い。
でも、読まれる。
たぶん読まれる。
編集長が見出しを覗き込み、目を細めた。
「いい」
「いいですか」
「いい。強い。内容も見える。怒りの向きもある」
「強すぎませんか」
「強い。だが嘘ではない」
それが怖い。
嘘なら直せる。
でも、嘘ではない強い言葉は、時々いちばん危ない。
「本文は」
編集長が促す。
私は書き始めた。
『王都瓦版が北方反乱準備説を大きく報じた日、訂正欄は紙面の隅に小さく置かれた。だが、その見出しの裏で、北方の兵士家族は別の問題を抱えていた。遅れた給与は、食卓だけでなく薬棚にも影を落としていた。』
書く。
手が速い。
こういう文章は、書ける。
読まれるようにするため、場面を作る。
読者が紙面の中に入れるように。
北方の寒さ。
薬棚。
破れた靴。
干し肉では補えない貨幣給与。
王都補助金の遅延。
大手紙の訂正欄の小ささ。
灯火新聞が保全した証言。
事実を置く。
証拠を置く。
そして、感情が通る道を作る。
私の筆は止まらなかった。
途中で、カイル様が原稿を読んだ。
読むのに時間がかかった。
けれど、寝なかった。
これは大きな進歩である。
「どうですか」
「読める」
「最高評価ですね」
「薬代の話は」
「本人に使用許可をもらっています。ただし名前は伏せます」
「ならいい」
彼は少し黙った。
「だが、苦い」
「はい」
「北方の話は、いつも苦いな」
「苦くしたいわけではありません」
「知っている」
その短い言葉が、少しだけ胸に落ちた。
彼は責めていない。
ただ、事実の味を言っただけだ。
エレオノーラ様が原稿を読み、目を伏せる。
「読まれますわ」
「傷つけますか」
「読まれる文章は、たいてい誰かを傷つけます」
「救いがありませんね」
「だから慎重に傷つけるのです」
慎重に傷つける。
嫌な言葉だ。
でも、たぶん本当だ。
まったく誰も傷つけない言葉などない。
問題は、その傷を何のために、誰に、どれだけ負わせるのか。
私は初稿を仕上げた。
編集長が赤を入れる。
私も赤を入れる。
セラさんが証言許可の記録番号を確認する。
先輩が「胃薬棚への影響も記事に」と言って却下される。
エレオノーラ様が、感情が強すぎる箇所を二箇所削る。
カイル様が「北方を我慢強いと書くな」と一箇所だけ言う。
そこはすぐ直した。
我慢強い、と書くと、我慢が当然になる。
北方で学んだことだ。
最終見出しはこうなった。
『訂正欄の陰で、薬代は戻らなかった』
副題。
『北方給与遅延、王都補助金遅延、大手紙の訂正拒否記録を検証』
本文の冒頭には、匿名の証言を入れた。
『食料は助かりました。でも、肉は薬代にはなりません』
これは本人の言葉だ。
削らない。
飾らない。
ただし、見出しに合わせて強く響く場所に置いた。
それが少し怖い。
翌朝、灯火新聞は刷られた。
王都の朝は、紙の音から始まる。
広場で、写し屋が見出しを読み上げる。
「灯火新聞号外! 北方給与遅延、薬代への影響! 大手紙訂正拒否記録も掲載!」
人が集まる。
市場の女が紙を買う。
靴職人が覗き込む。
学生が水晶掲示板へ写す。
酒場の主人が壁に貼る。
そして、反応は早かった。
『薬代はきつい』
『肉は薬代にならない、これ刺さる』
『北方かわいそう』
『王都補助金遅延って誰の責任?』
『大手紙、訂正小さすぎでは』
『灯火新聞また辺境伯寄り』
『薬代の証言、本当か?』
『匿名なら何でも書けるだろ』
『いや記録水晶保全ありって書いてある』
読まれている。
届いている。
私は旧印刷所の水晶掲示板写しを見ながら、安堵しかけた。
その時だった。
セラさんが、少し硬い顔で紙片を持ってきた。
「リディアさん」
「はい」
「北方から至急の通信です」
胸の奥が冷えた。
カイル様も顔を上げる。
通信紙には、北方辺境伯府の簡潔な印があった。
差出人は、村の連絡役。
文面は短い。
『記事確認。証言者本人、動揺。名は伏せられているが、村内で推測されつつあり。本人は「薬代の女」と呼ばれることを恐れている。対応求む』
指先が冷たくなった。
私は紙を読み返した。
薬代の女。
そんな呼ばれ方を、私は想定していなかった。
いや、違う。
想定すべきだった。
匿名でも、狭い共同体では推測される。
証言が具体的であればあるほど、誰かは気づく。
私はそれを知っていた。
知っていたはずなのに、読ませることに意識が向きすぎた。
届かせるために、証言を前に出した。
その結果、証言者が見出しに近づきすぎた。
火種が遅れて見えた。
【火種:証言者の特定】
【火種:北方内部での噂化】
【火種:被害者の見出し化】
【火種:灯火新聞への不信】
【火種:リディアによる証言利用批判】
遅い。
遅い。
火種感知は、私自身が強く作った文章の火には鈍くなる。
胃が、きゅっと縮む。
「……私の判断です」
私は言った。
誰にともなく。
「本人の許可はありました」
セラさんが静かに言う。
「名前も伏せました」
「でも、推測される形にしてしまいました」
編集長が険しい顔で記事を見た。
「見出しが強かったな」
「はい」
「本文冒頭の証言も強い」
「はい」
「読ませるために前へ出した」
「はい」
言い訳はできない。
事実だから。
エレオノーラ様は何も言わなかった。
その沈黙が痛い。
カイル様が通信紙を受け取った。
短く読んだ。
そして、私を見た。
「対応する」
「はい」
「今すぐ」
「はい」
責めない。
責めないから、余計に痛い。
私はすぐに紙を取った。
「まず、北方辺境伯府へ返信。本人へ謝罪と、追加確認の申し入れ。記事の訂正ではなく補足を出します」
「訂正ではないのか」
カイル様が聞く。
「本文に虚偽はありません。許可もあります。ただし、証言の扱いに配慮不足がありました。そこは謝罪します」
「謝るのか」
「はい。したことに対して謝ります。していない罪には謝りません」
自分で言いながら、第57話の未来が少しよぎった。
いつか私は、自分の炎上で同じことを言うのかもしれない。
でも、今はこの人を守る。
薬代の証言をしてくれた人を。
私は文案を書いた。
『本日掲載した記事について、証言者本人の許可および記録保全に基づき掲載したものであるが、証言内容の配置および見出しにより、証言者が周囲から推測される可能性への配慮が不足していた。灯火新聞および臨時広報調査室は、本人に対し謝意と謝罪を伝えるとともに、当該証言を「個人の特異な困窮」として消費せず、給与遅延および補助金遅延の構造的問題として扱うことを改めて明示する』
硬い。
でも、これは速さが必要だ。
編集長が読んで、首を振った。
「補足としては硬い。誰も読まん」
「でも急ぎです」
「急ぐからこそ読ませろ」
彼は別紙を取った。
赤を入れる。
『本紙は本日、「薬代」に関する証言を掲載しました。この証言は本人許可と記録保全に基づくものです。しかし、見出しと配置により、証言者が周囲から推測される恐れへの配慮が足りませんでした。これは、ひとりの女性を見出しにするための記事ではありません。北方給与遅延と王都補助金遅延が、生活のどこを削ったのかを示すための記事です。本紙は証言者本人に謝意と謝罪を伝え、今後の扱いについて再確認します』
短い。
読める。
悔しいが、読める。
「ありがとうございます」
「礼は後だ。出すぞ」
「はい」
補足はその日の昼前に出された。
早い。
灯火新聞の編集長は、訂正と補足の速度だけは本当に信用できる。
ただし、出したからといって傷が消えるわけではない。
北方からの二度目の通信は、夕方に届いた。
『本人、補足確認。謝罪受領。ただし「もう少し考えてほしかった」とのこと。今後、追加証言は保留』
私はその文面を長く見た。
もう少し考えてほしかった。
その通りだ。
私は届かせることを考えた。
読まれることを考えた。
大手新聞社に対抗することを考えた。
でも、証言した人が翌朝どんな顔で村の道を歩くかを、最後まで考えきれていなかった。
届いた。
でも傷つけた。
その事実が、紙の端からじわじわ滲むように私を濡らした。
「リディア」
エレオノーラ様が声をかけた。
「はい」
「あなたは、今とても嫌な顔をしていますわ」
「すみません」
「謝る相手が違います」
「はい」
エレオノーラ様は私の隣に立ち、補足記事を見た。
「読まれる文章を書けば、こういうことは起きます」
「慣れたくありません」
「慣れてはいけませんわ」
その声は、少しだけ優しかった。
「ただ、怖くなって何も書けなくなるのも違います」
「……はい」
「次は、もう少し考える。それしかありません」
エレオノーラ様は、そう言ってから一瞬だけ口を閉じた。
何かを飲み込むように。
それから、いつもの微笑みに戻る。
「私の記事も、いつか誰かを傷つけるでしょう。その時は止めてくださいませ」
「はい」
「できれば、見出しになる前に」
「努力します」
「そこは断言なさい」
「止めます」
エレオノーラ様は頷いた。
カイル様は旧印刷所の入口近くに立っていた。
通信紙を見て、ずっと黙っている。
私は彼に向き直る。
「カイル様」
「なんだ」
「北方の方を傷つけました」
「そうだな」
短い肯定。
逃げ道をくれない。
でも、裁く言葉でもない。
「次から、証言の具体度と推測可能性をもっと細かく確認します。本人許可だけでなく、掲載後の生活圏でどう読まれるかも確認します」
「必要だ」
「はい」
「だが」
カイル様は少し言葉を探した。
「薬代の話は、届いた」
私は息を止めた。
「それも事実だ」
「……はい」
「傷つけたことも事実だ」
「はい」
「両方、消すな」
両方、消すな。
その言葉が胸に落ちる。
私は何度も頷いた。
「消しません」
届いたこと。
傷つけたこと。
どちらかだけを記録すれば、また物語になる。
成功談か、失敗談か。
どちらも都合がいい。
でも現実は、その間にある。
胃が痛いくらい、曖昧で、苦い場所に。
私は報告書に書いた。
『本日掲載記事は一定の反響を得た。大手新聞社の訂正拒否、北方給与遅延、王都補助金遅延について、王都読者の関心喚起に成功。ただし、匿名証言者が生活圏内で推測される可能性への配慮不足により、本人に不安を与えた。今後、証言掲載時は本人許可のみならず、地域内推測可能性、見出しとの距離、掲載後保護手段を確認すること』
そして、個人用の覚書に短く書く。
『届いたのに、傷つけた』
書いた瞬間、前世の記憶が小さく疼いた。
会社を守るために整えた謝罪文。
読まれた。
届いた。
でも、被害者をさらに傷つけた。
あの時の私は、傷つけたことを見ないふりをした。
今回は、見ないふりをしない。
たぶん、それだけが違う。
その夜、旧印刷所に来客があった。
高級な香水の匂いが、インクと紙の匂いの中に混じった。
入口に立っていたのは、上等な外套をまとった男だった。
年は五十前後。
髪はきれいに撫でつけられ、指には商会印の入った指輪。
笑みは柔らかいが、目は笑っていない。
編集長の顔が露骨に険しくなる。
「……王都瓦版社長、ダリオ・ハルト」
大手新聞社。
王都瓦版。
その社長本人だった。
男は丁寧に一礼した。
「灯火新聞の皆さま。ずいぶん賑やかになられましたな」
火種が、視界いっぱいに広がる。
【火種:大手新聞社による圧力】
【火種:灯火新聞買収工作】
【火種:リディア個人攻撃】
【火種:証言者保護破綻】
【火種:名誉毀損訴訟】
【火種:臨時広報調査室解体】
ダリオ社長は私を見た。
「リディア・ノートン様。お噂はかねがね」
その言い方に、ぞっとした。
噂。
この人は、それを商品にしている。
「本日は抗議に?」
私は言った。
「いえいえ」
ダリオ社長は笑う。
「商談です」
編集長が低く唸った。
「帰れ」
「公式回答としては少々乱暴ですな」
カイル様が一歩前に出ようとした。
私は手で制した。
「では、正式に申し上げます。ご用件を確認します。録音水晶を起動しても?」
ダリオ社長の笑みが、ほんの少し深くなった。
「もちろん。透明性は大事ですから」
その声には、皮肉が混じっている。
私は録音水晶を起動した。
青い光が机上に灯る。
ダリオ社長は室内を見回し、それから言った。
「灯火新聞は最近、よく読まれるようになった。実に結構。ですが、読まれる記事には責任が伴います」
「存じています」
「本当に?」
その一言が刺さった。
昼の失敗を知っているのか。
もう掴んでいるのか。
彼は微笑む。
「証言者を傷つけたばかりの新聞が、他紙の倫理を問う。なかなか勇ましい」
部屋の空気が冷えた。
早い。
情報が早すぎる。
北方からの通信内容までは知らないはずだ。
でも、補足記事を見れば推測できる。
この人は、傷口を見つけるのが上手い。
私は手のひらを握った。
「その件については、本日補足を出しています」
「ええ。見ました。よい補足でした。誠実です」
褒めている。
だが、刃物だ。
「誠実な方は、傷つけるのも丁寧ですな」
カイル様の気配が変わった。
エレオノーラ様の扇が静かに閉じられる。
私は息を吸う。
「ご用件を」
「簡単です」
ダリオ社長は懐から封筒を出した。
分厚い。
見た瞬間、火種が弾けた。
【火種:買収提案】
【火種:灯火新聞分断】
【火種:臨時広報調査室信用失墜】
【火種:証言者名簿要求】
【火種:記事差し止め】
ダリオ社長は封筒を机に置いた。
「灯火新聞を、王都瓦版の提携紙にしませんか」
編集長が低く笑った。
「断る」
「即答は損をしますよ」
「損は慣れている」
「でしょうな。だから小さい」
編集長の眉が動く。
私は封筒を見た。
「提携の条件は」
「紙面支援、印刷設備提供、配達網共有、広告主紹介。灯火新聞にとって悪い話ではない」
「代わりに?」
「大手紙批判記事の停止」
ダリオ社長は笑みを崩さない。
「証言記録の共有」
私の背中が冷えた。
「および、臨時広報調査室との距離の見直し」
つまり。
灯火新聞を買う。
証言者の記録を奪う。
私たちを切り離す。
編集長が封筒を指で押し返した。
「帰れ」
ダリオ社長は、今度はカイル様を見た。
「辺境伯閣下。新聞は弾薬だそうで」
カイル様の目が冷える。
「誰から聞いた」
「新聞社には耳があります」
「切るか」
「比喩でしょうか」
「どうだろうな」
「カイル様」
私は小声で制した。
ダリオ社長は楽しそうに笑った。
「怖い怖い。やはり北方は物騒だ」
火種が増える。
【火種:辺境伯威圧印象】
【火種:取材妨害】
【火種:北方暴力性強調】
私は前へ出た。
「社長」
「はい」
「録音中です」
「承知しております」
「では、確認します。王都瓦版は、灯火新聞に対し、資金および設備支援を条件に、大手紙批判記事の停止、証言記録の共有、臨時広報調査室との距離の見直しを求めた。相違ありませんか」
ダリオ社長の笑みが止まった。
ほんの一瞬。
「表現が硬いですな」
「正確です」
「正確すぎる文章は、読まれませんよ」
「では、読みやすくしましょうか」
私はまっすぐ見た。
「王都瓦版社長が、灯火新聞を買いに来た」
部屋が静まった。
ダリオ社長の目が、初めて笑わなくなった。
「見出し向きですね」
「ええ」
私は言った。
「見出しは刃物です。扱いには気をつけています」
「その割に、今日は人を傷つけた」
「はい」
私は逃げずに頷いた。
「だからこそ、今ここで証言記録は渡しません。証言者を守るためです」
ダリオ社長は私を見た。
長く。
そして、微笑み直した。
「残念です」
「こちらもです」
「あなたは、新聞を敵に回す」
「新聞を敵にしたいわけではありません」
「では何を敵に?」
私は少しだけ考えた。
そして答えた。
「事実を傷つける見出しです」
ダリオ社長は、封筒を懐へ戻した。
「綺麗な言葉だ」
「そうならないよう気をつけます」
「またお会いしましょう、リディア・ノートン様」
「記録水晶の前でお願いします」
彼は一礼し、去っていった。
香水の匂いが残る。
扉が閉まった瞬間、先輩が椅子に崩れ落ちた。
「胃が、胃が新聞にされる……」
「それは嫌な見出しですね」
編集長は録音水晶を見た。
「使えるな」
「使いますか」
「すぐには使わん。裏帳簿と合わせる」
エレオノーラ様が頷く。
「社長自ら動いたということは、焦っておりますわ」
「同時に、こちらの傷も見ています」
私は昼の補足記事を見た。
「次は、そこを突かれます」
「突かれますわね」
「なら、隠さない」
カイル様が言った。
私は彼を見る。
「今日の失敗も、記録する」
短い。
でも、正しい。
「はい」
私は頷いた。
「隠しません。成功も、失敗も。届いたことも、傷つけたことも」
旧印刷所の外では、夜の王都がざわめいている。
噂は速い。
真実は遅い。
そして、読まれる真実は危ない。
でも、もう眠らせる毛布だけでは戦えない。
私は新しい紙を取った。
次の記事の仮題を書く。
『王都瓦版社長、灯火新聞に提携を打診』
硬い。
弱い。
少し考えて、書き直す。
『大手紙社長、灯火新聞を買いに来る』
火種が見える。
【火種:名誉毀損】
【火種:対立激化】
【火種:新聞戦争拡大】
【火種:灯火新聞への攻撃】
それでも、私はその文字を消さなかった。
真実は地味だ。
だから、伝え方を変える。
ただし、変えた言葉が誰を傷つけるのか、もう目を逸らさない。
新聞戦争は、次の火元へ進んでいた。
大手新聞社の社長が、直接こちらを潰しに来たのだ。




