表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
北方辺境伯の悪評

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/100

王都は遠く、噂は近い

 鐘が三回鳴った。


 一回。


 二回。


 三回。


 雪を含んだ北方の空気の中で、その音は思ったより遠くまで響いた。


 王都の水晶掲示板(すいしょうけいじばん)は、文字が流れる。


 王都の新聞は、紙が配られる。


 北方では、鐘が鳴る。


 音は古い。


 けれど、速い。


「三回だ!」


 外で子どもの声がした。


「噂だ!」


「走るな!」


「走ったら熊と同じ!」


「熊ではない!」


 最後の声は、たぶん村の子どもではなく、反射的に言ったカイル様だった。


 この状況で熊否定を挟めるあたり、北方辺境伯様はある意味で安定している。


 いえ、安定しているのは熊否定だけかもしれない。


 村長宅の外では、家々から人が出てきていた。


 雪を払う音。


 扉のきしむ音。


 子どもを抱え上げる母親の声。


 なべの火を止める音。


 兵士の靴音。


 誰も悲鳴を上げていない。


 誰も武器を取って走り出していない。


 ただ、皆が広場へ向かう。


 急ぎすぎず、遅すぎず。


 それは訓練された動きだった。


 噂に慣れている動き。


 慣れてしまった動き。


 私は、王都瓦版の速報紙を握ったまま、広場へ出た。


 紙面の見出しは、白い雪の中でやけに黒く見えた。


『北方で反乱準備か』

『辺境伯、給与未払い兵を集結』

『王都への不満高まり、軍事行動の恐れ』


 火種は、まだ見えている。


【火種:北方反乱説】

【火種:兵士集結誤報】

【火種:給与未払いから暴動連想】

【火種:王都対北方】

【火種:辺境伯武力蜂起印象】

【火種:補助金遅延責任隠蔽】


 胸の奥が冷える。


 反乱。


 この二文字は、北方にとってただの見出しではない。


 私は第32話の馬車の中で見た古い紙片を思い出した。


『北方が反乱準備か』


『混乱を避けるため、援軍派遣は慎重に判断すべき』


 その後、援軍は遅れた。


 カイル様の父は戦死した。


 全部はまだ聞いていない。


 聞いていないから、勝手に結論を書いてはいけない。


 それでも、紙の切れ端と今の見出しが、同じ方向を向いていることだけはわかった。


 王都は、同じ型の刃をまた使っている。


 広場には、すでに多くの村人が集まっていた。


 中央には木で組まれた掲示台がある。


 第33話で見た、古い紙の剥がし跡が残る掲示板だ。


 黒く残った釘の跡。


 消えた文字。


 読めないのに、何かが貼られていたことだけはわかる場所。


 そこに村長が立った。


 白髪混じりのひげに雪がついている。


 村長はつえを一度、地面についた。


 音は小さい。


 だが、人々のざわめきが止まった。


「鐘三回」


 村長が言った。


「噂だ」


 子どもたちまで黙る。


「噂が届いた。王都瓦版が、北方で反乱準備と書いた」


 広場に、低いざわめきが走った。


 怒り。


 不安。


 あきれ。


 恐れ。


 どれか一つではない。


 広場の端に立つ若い母親が、抱いていた子どもの耳を片手でふさいだ。


 それを見て、私は胸が詰まった。


 この村では、噂も子どもの耳をふさぐ理由になる。


 村長は続けた。


「確認済みの事実を言う」


 私は思わず顔を上げた。


 確認済みの事実。


 それは私がいつも言う言葉だ。


 だが、村長の口から出ると、王宮の会議室よりずっと重い。


「第一に、辺境軍は動いていない」


 村人たちがカイル様を見る。


 カイル様は広場の端に立っている。


 腕を組み、黙っている。


 その沈黙は、王都で見れば威圧に見える。


 だが、この村では違う。


 村人たちは、その沈黙を見て落ち着いている。


 誰かが小さく言った。


「閣下がここにいるなら、軍は動いてないな」


「動く時は先に雪かき命令が来る」


「反乱より雪かきの方が早い」


 笑いが少し起きた。


 小さい。


 でも、火を少しだけ削る笑いだった。


 村長が杖をもう一度ついた。


「第二に、給与未払いはある」


 広場が静まった。


 村長は隠さない。


 カイル様も止めない。


「これは事実だ。現在、王都補助金遅延と領内財源不足により、一部支給が遅れている。辺境伯家は補填しているが、全額ではない」


 その言い方は、さっき私たちが作った文書に近かった。


 だが、村長の言葉には、紙にはない皺があった。


 待った人の声。


 待たせた人の近くにいる声。


「第三に、兵を集結させてはいない」


 村長の視線が、広場の兵士たちを巡る。


「今日ここにいる兵は、鐘三回により噂確認へ集まった者だ。反乱ではない」


「俺、巡回明けです」


 ダンが手を上げた。


「俺は靴底の話をしに来ただけです」


 リオルも小さく言った。


 マイラが腕を組んで続ける。


「私は王都の暖炉の薪を一週間抜けと言った」


 ざわめきが少し緩む。


 私は思わず小声で言った。


「その発言は、王都で燃えます」


 マイラがこちらを見る。


「燃やすために言った」


「正直ですね」


「北方なので」


 北方なので、の使い勝手が広すぎる。


 村長はさらに言った。


「第四に、公式確認まで動くな」


 広場がぴたりと静まる。


「家に戻る者は戻れ。兵は持ち場へ戻れ。王都瓦版を読んだ者は、読んでいない者へ勝手に話を広げるな。話すなら、今聞いた確認済みの事実だけを話せ」


 私は息を呑んだ。


 噂対策だ。


 しかも、かなり実践的な。


 誰かが不安で走る前に、集める。


 噂を隠さない。


 確認済みの事実を示す。


 未確認の話を広げない。


 動くな、と命じる。


 鐘三回。


 噂。


 これはただの合図ではない。


 火が広がる前に、村全体を一度止める仕組みだ。


 王宮広報局より、初動が速いのでは。


 いや、言ってはいけない。


 職業的に負けた気がして胃が痛い。


 村長がカイル様を見た。


「閣下」


 カイル様が一歩前に出る。


 雪を踏む音がした。


 広場の人々が、自然に道を空ける。


 王都なら、ここで見出しになるだろう。


『辺境伯、民を威圧』


 だが、ここでは違う。


 道を空けるのは恐怖だけではない。


 聞く準備でもある。


 カイル様は掲示台の前に立った。


 しばらく黙る。


 村人たちも待つ。


 王都の記者なら、この沈黙に勝手な意味をつける。


 怒っている。


 黙秘している。


 不満を隠している。


 反乱を否定しない。


 でも、北方の人々は黙って待つ。


 沈黙を、勝手に埋めない。


 カイル様が口を開いた。


「反乱はしない」


 短い。


 非常に短い。


 だが、広場の空気が少しだけ落ち着いた。


「給与は遅れている」


 カイル様は続ける。


「悪い」


 兵士たちの何人かが顔を伏せた。


 私は、昨日リオルが言った言葉を思い出す。


 謝られると、大丈夫ですと言わなければならない気がする。


 カイル様も、たぶん思い出したのだろう。


 少しだけ言葉を止めた。


 それから、言い直した。


「いや」


 広場が静かになる。


「悪い、だけでは足りない」


 私は、手に持った記録帳を握りしめた。


 カイル様が、自分で続きを書いている。


 短いけれど。


 まだぎこちないけれど。


「十日ごとに知らせる」


 カイル様は言った。


「遅れている額。王都への照会。支給予定。掲示する」


 村人たちは黙って聞いている。


 誰も歓声を上げない。


 誰も拍手しない。


 それが、妙に本物だった。


 遅れた給与は、今の一言で支払われるわけではない。


 不安は、消えない。


 だから拍手は起きない。


 でも、何人かの兵士が目を上げた。


 それだけで、たぶん十分だった。


 カイル様は最後に言った。


「待たせた」


 一拍。


「次から、知らせる」


 昨日書いた一文。


 でも、紙の上ではなく、本人の声だった。


 広場の端で、マイラが腕を組んだまま頷いた。


 ダンが靴の底を地面に押しつける。


 リオルは少しだけ目を伏せた。


 私は、記録水晶を起動していた手を止める。


 これは公式発言として残すべきだ。


 だけど、今この場の沈黙まで、王都向けに整えてしまうのは違う気がした。


 記録はする。


 けれど、すぐ記事にはしない。


 私はそう決めた。


 その時、広場の後ろから子どもの声が上がった。


「じゃあ、鐘四回は?」


 緊張の切れ目に入り込むような声だった。


 村長が眉を上げる。


「鐘四回はない」


「作ればいいのに」


「何のために」


「王都がまた変なこと言った時」


 別の子どもが言った。


「それ、三回で足りるよ」


「でも王都はよく変なこと言うから、専用がいる」


 私は笑いそうになって、笑えなかった。


 王都が変なことを言う。


 子どもの口から出るには、少し悲しい常識だった。


 カイル様がその子どもを見た。


「三回で足りる」


「熊と同じなのに?」


「熊より危ない時もある」


 子どもたちが真剣に頷いた。


「じゃあ三回だ」


「王都、熊より危ない」


「熊ではない」


「王都も熊じゃないよ」


「知っている」


 広場に小さな笑いが広がった。


 雪の上を転がるような、乾いた笑い。


 燃えた空気を少しだけ冷ます。


 でも、完全には消さない。


 笑った後、村人たちは少しずつ広場を離れていった。


 兵士たちは持ち場へ戻る。


 母親は子どもの耳から手を離す。


 老人は掲示板の前で、しばらく古い釘跡を見ていた。


 私はその老人に近づいた。


「ここには、昔も何か貼られていたんですか」


 老人は私を見た。


 目が薄い灰色だった。


「王都の紙だ」


 それだけ言う。


「どんな内容だったか、覚えていますか」


 聞いてから、少し後悔した。


 踏み込みすぎかもしれない。


 老人はすぐには答えなかった。


 雪が肩に積もる。


 長い沈黙の後、老人は掲示板の黒い釘跡を指で触れた。


「読まない方がよかった紙だ」


 それ以上は言わない。


 私は頷いた。


「……ありがとうございます」


「王都の人間は、礼を言うのが早いな」


「早かったですか」


「まだ話しておらん」


 私は口を閉じた。


 老人はゆっくりと息を吐いた。


「昔、ここに紙が貼られた。北方が王都に逆らうと書いてあった。領主が私兵を集めていると書いてあった。援軍を急がせるため、王都を脅していると書いてあった」


 言葉が、雪の上に落ちていく。


 私は記録帳を開かなかった。


 今は、書く手を止めた。


「その紙を読んだ者が、三人、村を出た」


「王都へ?」


「違う」


 老人は首を振った。


「王都へ説明に行っても無駄だと言って、隣村へ走った。自分たちで備えろと伝えに行った。途中で魔獣に遭った」


 私は息を止めた。


「一人は戻った。二人は戻らなかった」


 老人は淡々と言う。


 淡々としか言えないのかもしれない。


「それから鐘三回ができた」


 王都の新聞が届くより早く。


 噂で人が走り出す前に。


 走ると危ない。


 熊も噂も。


 子どもの冗談みたいな言葉の奥に、二人分の戻らなかった足音がある。


 私は喉の奥が詰まった。


 謝りたい。


 でも、私が謝ることではない。


 謝らないのも違う。


 言葉が見つからない。


「……王都の紙は、雪より冷たい」


 老人が言った。


「雪は積もれば見える。紙は、読んだ後に人の中へ入る」


 私は、その言葉を覚えた。


 記録帳に書かずに。


 いったん、胸の中に置く。


 後で書くかもしれない。


 でも今、この場で、すぐに「使える言葉」にしたくなかった。


 広場の中央では、村長とカイル様が短く話していた。


 いや、村長が話し、カイル様が頷いている。


 たまに一言だけ返す。


 それで会話が成立しているのが不思議だ。


 王都では、この短さは空白になる。


 北方では、空白の扱い方を皆が知っている。


 私はそれを羨ましいと思いかけて、すぐに違うと気づいた。


 これは美しい文化ではない。


 傷からできた習慣だ。


 噂で死なないための、生活の知恵だ。


 たたえすぎれば、また苦しみを飾ってしまう。


 村長がこちらへ来た。


「広報官」


「はい」


「王都へ訂正を出すのだろう」


「出します」


「何を書く」


「確認済みの事実を」


「それだけか」


 私は詰まった。


 確認済みの事実。


 それは必要だ。


 でも、それだけでは届かないことも、私は知り始めている。


 ただし、感情を足しすぎれば歪む。


 北方を「耐える民」にしすぎれば、兵士が苦しいと言えなくなる。


 カイル様を「寡黙な名君」にしすぎれば、説明不足の問題が消える。


 王都を「悪」にしすぎれば、王宮補助金の遅延構造と、それを利用する誰かの火元がぼやける。


 私は答えた。


「事実と、未確認情報の否定。それから、北方の噂対策について少し」


「鐘三回か」


「はい。ただし、美談にはしません」


 村長は目を細める。


「どう書く」


「……噂が人を走らせないための仕組み、と」


 村長はしばらく黙った。


「悪くない」


 カイル様の「悪くない」とは違う。


 少し低く、少し重い。


「ただし、父の話は書くな」


 村長が言った。


 私はカイル様を見る。


 彼は何も言わない。


 雪を見ている。


 まただ。


 肝心なところで黙る。


 でも今回は、私は続きを書かない。


「書きません」


 村長が頷いた。


「まだ早い」


 その言葉の意味も、私は聞かなかった。


 まだ早い。


 誰にとって。


 何が。


 いつなら早くないのか。


 質問はいくらでもあった。


 でも、今は訂正が先だ。


 噂はもう走っている。


 私は村長宅へ戻り、机に向かった。


 紙を広げる。


 王都へ送る訂正照会文ていせいしょうかいぶん


 灯火新聞へ送る速報要点。


 王宮広報局への確認依頼。


 王都瓦版社への抗議文。


 書くべきものは多い。


 多すぎる。


 胃薬を出そうとして、袋が軽いことに気づいた。


「残量が危機です」


 隣でカイル様が干し肉の袋を置いた。


「食え」


「胃薬の代わりに干し肉を出さないでください」


「肉はある」


「第34話から財政方針が変わっていません」


 カイル様は少しだけ考えた。


「薬草茶もある」


「そちらを先にください」


 彼は無言で茶を淹れた。


 辺境伯が茶を淹れる姿は、王都の新聞が見たらどう書くだろう。


『冷血公、謎の薬草で広報官を懐柔か』


 燃える。


 実際は、ただ胃に優しい。


 私は温かい茶を受け取り、紙に向き直った。


『王都瓦版掲載記事「北方で反乱準備か」について、現地確認済みの事実を以下の通り通知します』


 硬い。


 でも、最初はこれでいい。


『一、北方辺境軍の出兵および王都方面への軍事行動は確認されていません』


『二、北方第七村における兵士集合は、反乱準備ではなく、噂確認のための鐘三回合図による住民集合です』


『三、給与支給遅延は事実ですが、原因には王都補助金支給遅延および領内財源不足が含まれます。辺境伯による着服または反乱準備資金への転用を示す資料は、現時点で確認されていません』


 私はペンを止めた。


 現時点で。


 この言葉は便利だ。


 でも、使い方を間違えると逃げになる。


 今回は必要だ。


 確認できないことを、断言しないため。


 私は続ける。


『四、北方領では、過去の噂被害を踏まえ、未確認情報が届いた際に住民が無秩序に移動しないための確認合図を設けています。鐘三回は、反乱の合図ではなく、噂確認の合図です』


 ここまで書いて、私は迷った。


 過去の噂被害。


 どこまで書くべきか。


 詳細を書けば、読まれる。


 感情に刺さる。


 けれど、老人の話をいま王都向けの武器にするのは違う。


 私は「過去の噂被害」のまま止めた。


 いつか、本人たちが望めば書く。


 今は書かない。


 カイル様が横から紙を読んでいる。


「長い」


「まだ短い方です」


「王都は読むか」


「読む人と読まない人がいます」


「読まない者には」


「見出しが必要です」


 私は別紙に見出し案を書いた。


『北方反乱準備は未確認情報』

『鐘三回は反乱ではなく噂確認』

『給与遅延は事実、原因は王都補助金遅延を含む』


 カイル様が三つ目を見た。


「長い」


「でも大事です」


「王都補助金遅延を前に」


 私は書き換えた。


『王都補助金遅延、北方給与遅れの一因に』


 カイル様が頷いた。


「それだ」


 やはり、彼は言葉を選べる。


 短いけれど。


 逃げたいだけではない。


 ただ、長い言葉が嫌いで、怖くて、そしてたぶん、王都に奪われるのが嫌なのだ。


 私はそれを今、文章にはしない。


 勝手に続きを書かない。


「辺境伯様の一文も入れますか」


「いらん」


「……」


「何だ」


「言うと思いました」


「なら聞くな」


「期待はしました」


 カイル様は黙った。


 私は待つ。


 茶の湯気が細く上がる。


 外では、鐘の余韻はもう消えている。


 でも、村の空気はまだ少し張っている。


 噂が去ったわけではない。


 ただ、立ち止まっているだけだ。


 カイル様は、やがて言った。


「鐘三回で止まれ」


 私は顔を上げた。


「それを入れるんですか」


「北方向けだ」


「王都向けではなく?」


「王都は走る」


「否定しきれません」


「北方は止まる」


 短い。


 でも、標語としては強い。


 私は北方領内向けの掲示文に書き加えた。


『鐘三回で止まれ。公式確認まで動くな』


 これが、北方の噂対策。


 火を消す前に、人を走らせない。


 王都の広報とは違う。


 でも、同じものと戦っている。


 未確認情報。


 恐怖。


 怒り。


 そして、返事の遅さ。


 私は書類を整え、伝令に渡した。


「灯火新聞へ最優先。王宮広報局へ同時。王都瓦版社には訂正要求として正式送付。写しをグランフェルト公爵家にも」


 伝令が頷く。


「王都まで急ぎます」


 カイル様が言った。


「無理はするな」


 伝令は少し笑う。


「鐘三回なら止まります」


「それでいい」


 伝令が出ていく。


 扉が閉まる。


 私は椅子に座り込んだ。


 胃が痛い。


 寒さのせいか、記事のせいか、王都のせいか。


 たぶん全部だ。


「リディア」


 カイル様が言った。


「はい」


「父のことは」


 私は顔を上げた。


 彼は窓の外を見ていた。


「まだ、書くな」


「はい」


 それだけ。


 それ以上は続かない。


 私は聞かなかった。


 ただ、答えた。


「書きません。あなたが書いていいと言うまで」


 カイル様は何も言わなかった。


 その沈黙が、今回は少しだけ返事に聞こえた。


 夜。


 北方第七村の掲示板には、新しい紙が貼られた。


『鐘三回で止まれ。公式確認まで動くな』


 その下に、給与支給遅延についての説明。


 さらにその下に、王都瓦版記事への訂正要点。


 村人たちは立ち止まり、読んでいく。


 全部を読む人。


 見出しだけ読む人。


 隣の人に読んでもらう人。


 黙って頷く人。


 何も言わず立ち去る人。


 反応は一つではない。


 でも、誰も走らなかった。


 私はそれを見て、ようやく少し息を吐いた。


 王都は遠い。


 けれど、噂は近い。


 だから、返事はもっと近くになければならない。


 その夜遅く、灯火新聞へ向かった伝令が、雪道を駆けていった。


 私の訂正記事を持って。


 北方の鐘三回の音を、王都の文字へ変えるために。


 真実は遅い。


 でも、遅いからといって黙っていたら、また誰かが走り出す。


 私は窓の外を見ながら、冷めかけた薬草茶を飲んだ。


 苦い。


 とても苦い。


 でも、王都の菓子よりは信用できる味だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ