北方兵の未払い問題
帳簿は、雪より冷たい。
少なくとも、北方第七村の村長宅で開いた北方常備兵給与配分記録は、私の胃をかなり冷やした。
数字が並んでいる。
月別支給額。
冬季手当。
危険地域巡回加算。
装備維持費。
補填欄。
そして、遅延理由。
『王都補助金遅延』
『王都補助金、再審査中』
『王都補助金、回答保留』
『王都補助金、追加資料請求』
『王都補助金、処理待ち』
処理待ち。
この言葉ほど、現場で人を苛立たせるものはない。
王宮の机上では「処理待ち」は棚の上に積まれた紙の状態を示す。
けれど、現場では違う。
兵士の家の食卓に肉が出ない。
子どもの靴の底が薄いままになる。
妻が薬を買うのを一日延ばす。
巡回後の兵が、笑って「次でいい」と言う。
そして、その「次」は来ない。
「……これを、王都では何と?」
村長が言った。
私は手元の記事を見た。
王都から持ってきた切り抜きだ。
大手瓦版の見出しには、勇ましく、わかりやすく、そして腹立たしい字が踊っている。
『冷血公、兵を酷使か』
『北方辺境伯領、給与未払い疑惑』
『軍備費不透明運用 民を削る辺境統治』
『王都を嫌う軍事貴族、独自兵力を拡大』
完全な嘘ではない。
給与未払いはある。
軍備費も大きい。
兵は厳しい環境で働いている。
だが、その理由と流れを抜き取れば、事実は簡単に刃物になる。
私は記事を机に置いた。
「こう書かれています」
村長は紙面を見て、顔を動かさなかった。
怒りもしない。
驚きもしない。
ただ、深い皺の奥の目が少しだけ暗くなる。
「読みやすいな」
「はい」
「腹が立つほど、読みやすい」
「はい」
私は否定できなかった。
悪意ある見出しは、たいてい読みやすい。
正しい説明は、だいたい長い。
炎上対応係として、非常に腹立たしい現実である。
カイル様は、窓際に立っていた。
外の雪雲を見ている。
いや、見ていないのかもしれない。
彼は帳簿を一度読んだきり、ずっと無言だった。
私は帳簿の補填欄を指でなぞる。
『辺境伯家私財より補填』
『辺境伯家冬季備蓄売却分より補填』
『北方猟師組合より短期借入』
『領主私物馬具売却』
最後の項目に、私は眉を寄せた。
「馬具まで売ったんですか」
「不要だった」
カイル様が答えた。
「領主用の儀礼馬具ですよね」
「戦には使わん」
「社交には使います」
「王都へ行かない」
「最近来ました」
「面倒だった」
「馬具以前の問題ですね」
村長が咳払いした。
笑ったのか、咳なのか、判断が難しい。
北方の人は表情が寒冷地仕様である。
私は帳簿に視線を戻した。
「辺境伯様」
「何だ」
「王都へ、補助金遅延の照会は何回出しましたか」
「十二」
「十二回」
「正式には」
「非正式には?」
「数えていない」
とても嫌な答えだった。
数えられない照会。
返事のない申請。
王宮にとっては、部署間の調整。
北方にとっては、兵士の給与。
この距離が、国を燃やす。
「控えはありますか」
「ある」
「全部見せてください」
カイル様は短く頷いた。
村長が奥の棚へ向かう。
棚から出てきたのは、紐で束ねられた書類だった。
分厚い。
かなり分厚い。
私はそれを見て、一瞬だけ心が折れかけた。
契約書、帳簿、照会状、返信状、督促状。
最近の人生、紙と胃薬しかない。
恋愛小説とは。
とはいえ、これが仕事である。
私は書類をほどいた。
最初の照会状は、形式通りだった。
『北方防衛補助金の支給予定日につき、確認を求める』
返答。
『現在、関係部署にて確認中である』
二度目。
『冬季巡回開始に伴い、早期支給を要請する』
返答。
『追加資料を提出されたい』
三度目。
『追加資料提出済。支給予定日の明示を求める』
返答。
『混乱を避けるため、正式決定まで対外的説明は控えられたい』
私の指が止まった。
混乱を避けるため。
その言葉が、紙の上に座っていた。
なんでもない顔で。
丁寧な文体で。
王宮の印章を押されて。
私は、窓際に立つカイル様を見た。
彼は動いていない。
ただ、右手の指が手袋の縫い目を押さえていた。
強く。
前にも見た仕草。
第26話で、神殿広報官オルドが同じような言葉を使った時。
第32話で、古い記事の断片が馬車の中に落ちた時。
今回も、同じ。
私は何かを聞きかけた。
けれど、口を閉じた。
勝手に続きを書くな。
まだ、ここで理由を引き出す場面ではない。
私は紙に視線を戻した。
「この文面、王宮側の部署印があります」
「ある」
「宰相府補佐官室……」
署名欄に目を落とした瞬間、胃の奥が冷えた。
直接の署名ではない。
だが、承認欄に小さく部署印がある。
ベルク・アインハルトが所属する、宰相補佐官室。
本人の名はまだない。
それでも、紙の匂いが変わった気がした。
丁寧で、整っていて、冷たい。
「ベルク様の部署印です」
村長が問う。
「誰だ」
「王宮の宰相補佐です」
「偉いのか」
「偉いです。そして、文章が非常に上手いです」
「悪い意味か」
「状況によります」
私は返答を濁した。
ベルク様はまだ、はっきりと敵とは言えない。
けれど、彼の言葉にはいつも同じ匂いがある。
混乱を避ける。
秩序を保つ。
有効な認識。
必要な物語。
どれも綺麗で、どれも人の名前がない。
私は照会状を横に置き、給与帳簿へ戻った。
「兵士の方に話を聞きたいです」
カイル様がこちらを見る。
「今からか」
「可能であれば」
「疲れている」
「私がですか」
「お前も、兵も」
「否定できません」
村長が腕を組む。
「今日は巡回明けが三人いる。聞くなら短くしろ」
「はい。質問は三つにします」
「王都も三つが好きなのか」
「神殿から嫌な形で学びました」
「ろくな学びではないな」
「はい。ただ、使い方次第です」
私は記録帳に質問を書いた。
一つ。
未払いで実際に困っていること。
二つ。
辺境伯に言いたいこと。
三つ。
王都に言いたいこと。
書いてから、少し迷う。
この三つは、整理として正しい。
でも、正しすぎるかもしれない。
人の生活は質問三つに収まらない。
「……最後に、言い足りないことがあれば自由に、を入れます」
「四つだな」
カイル様が言った。
「四つです」
「民は三つ以上覚えられないのでは」
「それは神殿広報官の台詞です。私は覚えられなくても記録します」
「そうか」
カイル様は少しだけ目を伏せた。
表情は変わらない。
けれど、さっきより手袋の縫い目から指が離れていた。
最初に来た兵士は、三十代半ばの男性だった。
名をダンという。
肩幅が広く、頬に古い傷がある。
椅子に座る前に、カイル様へ一礼した。
だが、カイル様は部屋に入らなかった。
「俺はいない方が話す」
そう言って、外に出た。
ダンは少し困った顔をした。
「閣下は、そういうところがある」
「そういうところ、とは」
「黙って気を遣う」
「高度ですね」
「だが黙るから、気を遣われた方が困る」
「非常に高度ですね」
私は記録水晶を置いた。
「記録してよろしいですか。公開前には内容確認をします。氏名については、匿名も選べます」
「名前は出していい」
「本当に?」
「俺の未払いは俺の未払いだ」
強い。
だが、私はすぐに頷かなかった。
「では、公開前にもう一度確認します。今は記録上、氏名公開可の意向として残します」
「面倒だな」
「燃えないためです」
「北方の火は雪で消える」
「炎上は雪で消えません」
「子どもも言っていたな」
「北方全体で私に雪を勧めないでください」
ダンが少し笑った。
そこから、話を聞いた。
未払いで困っていること。
「靴だな」
「靴」
「冬靴は高い。底が減る。子どもに先に買う。俺のは去年のままだ」
「食料ではなく?」
「食料は村で回す。靴は合わんと歩けん」
辺境伯に言いたいこと。
ダンは少し黙った。
「言ってもいいのか」
「はい」
「先に説明しろ」
私はペンを止めた。
「説明?」
「閣下は、金が遅れたら自分で埋める。肉も出す。装備も回す。それはわかる。だが、何がどれだけ遅れているかを言わん」
「なぜ言わないと思いますか」
「心配を増やしたくないんだろう」
ダンは眉を寄せた。
「だが、知らないまま待つのもきつい」
私は書いた。
知らないまま待つのもきつい。
王都に言いたいこと。
ダンは即答した。
「遅い」
また、その言葉。
「それだけですか」
「それだけで十分だ」
「……はい」
「いや」
ダンは少し考えた。
「違うな」
「どうぞ」
「遅いなら、遅いと言え」
私の手が止まる。
「届かないなら、届かないと言え。待てと言うなら、いつまで待つか言え。何も返ってこないのが、一番腹が立つ」
私は、その言葉を記録した。
文字にすると短い。
だが、重かった。
二人目の兵士は若かった。
名前はリオル。
まだ二十歳前後だろう。
緊張して、椅子に座ってから三度も姿勢を直した。
「匿名にしますか」
「いえ。母が、名前が出るなら姿勢よく話せと言っていました」
「お母様、広報意識が高いですね」
「王都の新聞は嫌いですが、近所への評判は気にします」
「非常によくわかります」
未払いで困っていること。
「妹の薬代です」
即答だった。
「村の薬師に待ってもらっています。ですが、待ってもらうのが続くと、薬師も困ります」
辺境伯に言いたいこと。
「謝らないでほしいです」
「謝らないで?」
「閣下は、給与が遅れるたびに短く謝ります」
「何と?」
「悪い、と」
カイル様らしい。
短い。
重い。
「でも、謝られると、こちらが大丈夫ですと言わないといけない気がします」
私はペンを握り直した。
「……大丈夫ではないのに?」
「はい」
王都に言いたいこと。
リオルは少し黙った。
手を膝の上で握る。
「北方兵は、反乱したくて武器を持っているわけではありません」
声が少し震えた。
「守るためです」
私は頷いた。
「はい」
「それを書いてください」
「書きます」
「でも、格好よくしすぎないでください」
私は顔を上げた。
リオルは真剣だった。
「格好よく書かれると、苦しいと言いにくくなります」
胸を突かれた。
王都向けの記事にするなら、私はきっとこう書きたくなる。
北方兵は厳寒の地で民を守る誇り高き盾である。
悪くない。
事実でもある。
でも、それだけでは、妹の薬代は消える。
靴底の薄さも消える。
大丈夫ではないのに「大丈夫です」と言わされる苦しさも消える。
「……気をつけます」
私は言った。
リオルは少しだけ笑った。
「王都の人は、そう言って本当に気をつけますか」
「時々、忘れます」
「正直ですね」
「忘れたら、訂正します」
「訂正が届くといいですね」
それは皮肉ではなかった。
だから余計に痛かった。
三人目は女性兵士だった。
名前はマイラ。
短く切った黒髪に、鋭い目。
椅子に座るなり、私を見た。
「王都の広報官」
「はい」
「記事を書くなら、辺境伯を善人にしすぎるな」
開口一番、それだった。
「……本日二度目の警告です」
「二度で済むと思うな」
「はい」
「閣下はいい領主だ。だが、説明が足りない。腹が立つほど足りない」
非常に遠慮がない。
カイル様が席を外して正解だった。
「給与が遅れる。閣下は肉を出す。防寒具を出す。巡回数を減らす。自分の馬具を売る。そこまではいい」
「はい」
「だが、なぜ遅れるのか、いつまで遅れるのか、こちらから聞くまで言わない」
「……」
「こちらは兵だ。命令なら従う。だが、生活もある」
マイラは机の上の帳簿を指で叩いた。
「王都の記事は腹立たしい。だが、閣下に何も問題がないわけではない」
私はペンを止めなかった。
むしろ、強く書いた。
辺境伯に何も問題がないわけではない。
これは必要な言葉だ。
削ったら、美談になる。
「公開しても?」
「名前ごと出せ」
「辺境伯様との関係に支障が出ませんか」
「出たら直接言う」
「強い」
「兵だからな」
未払いで困っていること。
「家族に嘘をつくことだ」
「嘘」
「次で出る。もう少し待て。領主が何とかする。そう言う」
「実際、辺境伯様は補填されています」
「だが全額ではない」
「はい」
「嘘ではない。でも、全部でもない」
私は一瞬、手を止めた。
嘘ではない。
でも、全部でもない。
広報で一番危険な場所だ。
真実の一部は、時に嘘より人を疲れさせる。
「王都に言いたいことは」
「王都の暖炉の薪を一週間抜いてから、北方の軍備費を語れ」
「そのまま書くと燃えます」
「燃やせ」
「物理的にですか、比喩的にですか」
「任せる」
「任されると困ります」
マイラは少し笑った。
それから、ふっと真顔になる。
「王都は遠い。だが、王都の紙はここまで来る。なら、返事も来るはずだろう」
私は、頷けなかった。
来るはず。
その当然が、何度も破られてきた場所で、簡単に頷いてはいけない気がした。
「来るようにします」
「約束か」
「努力目標です」
「弱い」
「約束して届かなければ、もっと傷つけます」
「それはそうだ」
マイラは立ち上がった。
扉の前で、振り返る。
「広報官」
「はい」
「閣下は、兵に苦しいと言われるのが下手だ」
「……はい」
「だが、聞く気はある」
「はい」
「そこは書いていい」
そう言って、出て行った。
部屋に残ったのは、私と記録水晶と、重い帳簿だった。
私はしばらく動けなかった。
兵士たちの言葉が、紙の上でばらばらに並んでいる。
靴。
薬代。
説明不足。
謝られると大丈夫と言わなければならない。
格好よく書かれると苦しいと言えない。
王都の暖炉の薪を抜け。
返事も来るはずだろう。
どれも、記事にしにくい。
そして、どれも削ってはいけない。
扉が開いた。
カイル様が戻ってくる。
「終わったか」
「はい」
「言ったか」
「かなり」
「そうか」
それだけ。
怒らない。
言い訳もしない。
問い返しもしない。
私は少しだけ苛立った。
たぶん、疲れていた。
たぶん、彼が黙ることに、こちらが勝手に意味を読みそうになった。
「辺境伯様」
「何だ」
「兵士の方々は、あなたを責めていました」
「そうか」
「そこは、もう少し反応してください」
声が強くなった。
自分でもわかった。
カイル様は私を見る。
表情は変わらない。
「俺が悪い」
「全部ではありません」
「俺の領地だ」
「王都補助金の遅延があります」
「俺の兵だ」
「あなたが私財で補填していた記録もあります」
「足りていない」
短い言葉が、机に落ちる。
私は言葉を失いかけた。
カイル様は続けない。
いつものように、そこで切る。
それが少し悔しかった。
「足りていないことと、全部あなたの責任であることは違います」
「違わない」
「違います」
「兵は待っている」
「だからこそ説明が必要です」
「金は出ない」
「説明してもお金は出ません」
「なら意味がない」
「あります」
私は立ち上がっていた。
「待つ側にとって、何も知らないまま待つのは苦しいんです」
ダンの言葉。
リオルの言葉。
マイラの言葉。
私の言葉ではない。
でも、今は私の口から出ている。
「あなたが謝ると、兵士は大丈夫ですと言わなければならない気がするそうです。あなたが何も言わないと、何がどれだけ遅れているのかわからない。あなたが全部背負うと、兵士は苦しいと言いにくくなる」
カイル様は黙っている。
私は続けた。
「あなたが悪いと言えば、そこで終わってしまいます。王都の遅延も、補助金の構造も、兵士の生活も、全部あなたの沈黙に隠れます」
「……」
「それは、守っているようで、隠していることになります」
言ってから、しまったと思った。
強すぎる。
まただ。
私は、正しいと思った瞬間に踏み込みすぎる。
カイル様の顔が硬くなった。
冷たい怒りではない。
痛みを見せないための硬さ。
「隠したつもりはない」
低い声だった。
「……すみません。今の言い方は」
「いや」
カイル様は首を振った。
「隠れていた」
私は黙った。
カイル様は机の上の帳簿を見る。
「言わなければ、心配しないと思った」
「はい」
「違った」
「……はい」
「言えば、金がないことを突きつける」
「はい」
「言わなければ、待たせる」
彼の言葉は短い。
でも、逃げてはいなかった。
「どちらも悪い」
私は、すぐに慰めなかった。
それは違います、とも言わなかった。
ここで否定すれば、兵士たちの言葉を軽くする。
ここで肯定しすぎれば、カイル様だけに責任を押しつける。
正しい一文が見つからない。
なので、別のことを言った。
「では、次にどう説明するかを考えましょう」
カイル様がこちらを見る。
「説明」
「はい。まず領内向けです。兵士と家族へ、現状を説明する短い文書を出します」
「長いか」
「短めにします」
「どれくらい」
「辺境伯様基準では長い。王宮基準では奇跡的に短い」
「わからん」
「三段落です」
「長い」
「妥協してください」
私は紙を一枚取った。
下書きを始める。
『北方常備兵給与支給に関する説明』
硬い。
でも、必要。
私はペンを止めて、書き直した。
『給与支給遅延について』
これでいい。
飾らない。
まず、遅れていることを認める。
『現在、北方常備兵の一部給与について、支給遅延が発生している』
カイル様が紙を見る。
「発生している、は逃げている」
私は顔を上げた。
「……たしかに」
発生している。
自然災害のような言い方だ。
給与は勝手に遅れない。
誰かが払い、誰かが止め、誰かが待たせている。
私は線を引いた。
『現在、北方常備兵の一部給与を、予定日に支給できていない』
カイル様が頷く。
「それだ」
私は少しだけ驚いた。
今、カイル様は言葉を選んだ。
逃げない表現を選んだ。
「次です」
『原因は、王都補助金の支給遅延および領内財源の不足である』
これも必要。
王都だけの責任にすると、領内財源不足が消える。
カイル様だけの責任にすると、王都補助金遅延が消える。
両方書く。
美しくない。
でも、たぶんこれが近い。
『辺境伯家は私財による補填を行っているが、全額支給には至っていない』
カイル様が眉を寄せた。
「私財は書くな」
「なぜですか」
「美談になる」
私は目を瞬いた。
さっき、同じことを思った。
彼もわかっている。
「では、こうします」
『不足分については一部補填を行っているが、全額支給には至っていない』
「誰が補填したかわからない」
「領内向けにはわかります。王都向けには別紙で出します」
「別紙」
「はい。王都向けには資金流れの証拠として必要です。領内向けには、あなたの美談より、未払いの事実と今後の予定が先です」
カイル様はしばらく紙を見ていた。
やがて、短く言う。
「わかった」
私は続きを書く。
『今後、未支給分の額、支給予定、王都への照会状況を月ごとに掲示する』
カイル様が言う。
「月ごとでは遅い」
「では?」
「十日ごと」
「大変ですよ」
「待つ方が大変だ」
私はペンを止めた。
「……はい」
書き換える。
『十日ごとに掲示する』
その一文は短い。
でも、少しだけ火種が消えた気がした。
完全にではない。
未払いは消えない。
王都補助金もまだ遅れている。
兵士の靴も、妹の薬代も、今すぐ解決はしない。
けれど、何も返ってこない状態からは一歩出る。
「最後に、辺境伯様の言葉を」
「いらん」
「いります」
「またか」
「またです」
私はまっすぐ見た。
「謝罪だけではなく、今後の説明責任を引き受ける言葉です」
「長い」
「短くていいです。ただし、逃げないでください」
カイル様は沈黙した。
長い沈黙だった。
窓の外で風が鳴る。
どこか遠くで、犬が吠えた。
私は急かさなかった。
これは彼の言葉だ。
待つしかない。
やがて、カイル様は言った。
「待たせた」
私はペンを構える。
「はい」
「次から、知らせる」
短い。
不器用。
でも、逃げていない。
私はそのまま書いた。
『待たせた。次から、知らせる。――カイル・ヴァレンシュタイン』
読み返す。
短い。
あまりにも短い。
だが、さっきの『事実無根。以上。』とは違う。
相手がいる。
待たせた相手がいる。
次から、という未来がある。
私は小さく息を吐いた。
「悪くありません」
「短いか」
「短いです」
「悪いか」
「今回は、悪くありません」
カイル様は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
その直後。
村長宅の扉が乱暴に叩かれた。
「閣下!」
外から若い兵士の声がする。
カイル様が扉へ向かう。
入ってきた兵士の手には、水晶通信の写しが握られていた。
息が白い。
顔が強張っている。
「王都瓦版の速報です」
私は嫌な予感で胃を押さえた。
兵士が紙を差し出す。
そこには、大きな見出しがあった。
『北方で反乱準備か』
『辺境伯、給与未払い兵を集結』
『王都への不満高まり、軍事行動の恐れ』
私は視界の端に火種を見た。
【火種:北方反乱説】
【火種:兵士集結誤報】
【火種:給与未払いから暴動連想】
【火種:王都対北方】
【火種:辺境伯武力蜂起印象】
【火種:補助金遅延責任隠蔽】
思わず、低く呟いた。
「早い」
悪意は、いつも早い。
カイル様は紙を見た。
表情は変わらない。
ただ、先ほど書いたばかりの『待たせた。次から、知らせる』という一文の横で、彼の指が静かに拳を作った。
村長が窓の外を見た。
「鐘を鳴らすか」
カイル様が答える。
「三回だ」
次の瞬間、北方の夕闇に鐘の音が響いた。
一回。
二回。
三回。
噂だ。
王都より遠いこの村で、王都から来た火が鳴っている。
私は書きかけの説明文を握りしめた。
次は、それだ。
未払い問題の火元は、帳簿だけではない。
王都の見出しが、もう次の火を投げ込んできていた。




