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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
婚約破棄会見、炎上します

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2/12

婚約破棄会見を中断します

 広間は、一瞬だけ完全に沈黙した。


 音楽も、囁きも、衣擦れの音さえ消えたように感じた。


 たぶん、実際には数秒にも満たなかったのだろう。


 けれど私には、その沈黙がやけに長く思えた。


 王太子殿下の右後ろに控えていた近衛騎士が、反射的に一歩動く。


 無礼な乱入者を排除するための動き。


 当然だ。


 王太子殿下の婚約破棄宣言を、下級職員が遮ったのだから。


 普通なら、その場で腕を取られて会場の外へ引きずり出されても文句は言えない。


 いや、ある。


 文句は山ほどある。


 ただし、その文句を述べる場所が地下牢だった場合、広報官としての勝率はかなり低い。


 私の膝は、正直に言えば震えていた。


 胃も痛い。


 今すぐ胃薬を噛み砕きたい。


 けれど、近衛騎士の手は途中で止まった。


 彼の視線が、私の胸元に落ちたからだ。


 王宮広報局危機声明管理室ききせいめいかんりしつの徽章。


 そして、私の手にある起動済みの記録水晶。


 今ここで私を力ずくで排除すれば、その行為は王家による公式記録妨害として残る。


 王太子殿下の婚約破棄騒動に、今度は「広報官排除」という見出しが乗る。


 近衛騎士は、それを直感したのだろう。


 剣より先に、視線で上官の指示を求めた。


 そう。


 今この場で一番強い武器は、剣ではない。


 記録だ。


 ……などと冷静に考えているふりをしながら、私は内心で叫んでいた。


 怖い。


 ものすごく怖い。


 でも、黙っている方がもっと痛かった。


 王太子殿下が、ゆっくりと私を見た。


 その顔に浮かんでいたのは、怒りというより困惑だった。


 なぜ、今ここで下級職員が口を挟むのか。


 なぜ、自分の正しい断罪を止めるのか。


 その疑問が、ありありと見えた。


 王太子殿下は、ほんの少し顎を上げた。


 叱られるとは、思っていなかった顔だ。


 ああ。


 この方は、自分が火を持っていることにも気づいていない。


「国が燃える、だと?」


 低い声だった。


 広間の奥で、誰かが小さく息を呑む。


 記者席の羽ペンは止まっている。


 止まっているが、あれは驚いて書けないのではない。


 どの言葉を最初に書くべきか、獲物を選んでいる沈黙だ。


 嫌な静けさだった。


「下級職員が、王太子である私を脅すのか」


 胃の奥が、きり、と鳴った。


 下級職員。


 脅す。


 王太子。


 見出しにしやすい単語がそろいすぎている。


 素材が良すぎる。


 料理人が悪意ある記者なら、一晩で王宮の食卓が丸焦げだ。


 私は深く一礼した。


「脅しではございません。危機評価です」


「危機評価?」


「はい。殿下のご発言が今後どのような誤解、反発、抗議、報道を招くかを判断することは、王宮広報局の職務範囲です」


 声は震えていなかった。


 少なくとも、そう聞こえていてほしい。


「職務範囲だと」


 王太子殿下は、嘲るように笑った。


「私は婚約者の罪を明らかにしている。広報局が口を出すことではない」


「婚約者の罪を明らかにするのであれば、なおさら正式な手続きが必要です」


「手続き?」


「はい。証拠確認、本人への聞き取り、契約条項の確認、王宮法務部による承認、必要に応じた貴族裁定手続き《きぞくさいていてつづき》です」


 貴族たちの間に、ざわめきが走った。


 今の単語は効く。


 貴族裁定手続き。


 それは貴族同士の重大な名誉問題や契約問題を扱う、古くて面倒で、だからこそ権威のある制度だ。


 王太子殿下がそこを飛ばしたことを、ここで全員が思い出した。


 空気が少しだけ変わる。


 王太子殿下の怒りが増し、貴族たちの困惑が濃くなる。


 火は、ただ燃えているだけではない。


 風向きが変わり始めていた。


「そんなものは後日でよい」


 王太子殿下は言った。


「今この場では、私の意思を宣言しているだけだ」


「では、今この場でエレオノーラ様の罪を断定する必要はございません」


 言った瞬間、背中に冷たいものが走った。


 広間が、また静まった。


 言い切った。


 下級職員が、王太子殿下に。


 マルクさん、セラ、室長。


 すみません。


 私の机の引き出しに私物があります。


 胃薬は共有物なので使ってください。


「貴様」


 王太子殿下の声が、わずかに鋭くなる。


「私の判断が間違っていると言うのか」


「現時点では、判断材料が公式に確認されておりません」


「証拠はある」


「では、その証拠を正式に確認する必要がございます」


「エレオノーラはミリアを傷つけた」


 その名を出した瞬間、王太子殿下はちらりと隣を見た。


 ミリア・セレス様。


 淡い桃色の髪を伏せ、白い指を胸元で組んでいる少女。


 彼女は怯えたように肩を揺らした。


 王太子殿下の表情が、そこで一瞬だけ変わる。


 怒りではない。


 確認。


 自分が正しいことを、彼女の痛ましさで確かめるような目。


 それとも。


 続きを促す合図を探したのか。


 すぐに殿下は私へ視線を戻した。


 短すぎる間だった。


 でも、見逃せなかった。


「彼女は傷ついている」


「その事実を確認するためにも、発言の順序が重要です」


「順序だと?」


「はい」


 私は記録水晶を持つ手に力を込めた。


 指先が冷たい。


 でも、言葉は出る。


「殿下の最初のお言葉が『婚約破棄』であり、その後に罪状を述べられた場合、世間はこう受け取ります」


 私は、あえて少し間を置いた。


「王太子殿下は、結論を先に決めていた、と」


 記者席で、羽ペンが一本、紙を引っかく音がした。


 やっぱり書いた。


 今のは書かれる。


 けれど、書かれるべきだ。


 火を隠すより、火元を見せた方がいい時もある。


「リディア・ノートン」


 王太子殿下が、私の名をゆっくり呼んだ。


 嫌な響きだった。


 上司にフルネームで呼ばれた時と同じ胃の痛みがする。


「お前は誰に仕えている」


「王宮に仕えております」


「ならば王太子である私に従え」


「王宮広報官として、王家の信用を守る義務がございます」


「私の信用を守るなら、黙っていろ」


 王太子殿下は本気で言っていた。


 黙ることが守ることだと信じている。


 王太子殿下の隣で、ミリア様が小さく肩を震わせた。


 その震えが恐怖なのか、戸惑いなのか、私にはまだわからない。


 ただ、彼女の周りにある空白が、また気になった。


 言葉の余白。


 誰かが先に書き込むために空けてあるような空白。


 嫌な感じだ。


 私は視線を戻す。


「沈黙で守れる信用もございます」


 ゆっくりと言った。


「ですが、今は違います」


「なぜだ」


「隣国使節がいらっしゃいます。王都瓦版おうとかわらばんの記者もいます。神殿関係者も、公爵家に連なる貴族もいます。この場で殿下の発言を王宮が止めなかった場合、それは王宮がこの断罪を承認したと受け取られます」


 広間の奥。


 隣国使節の一人が、わずかに扇を動かした。


 表情は変わらない。


 けれど、隣の者と視線を交わした。


 見ている。


 全部、見ている。


「さらに」


 私は続けた。


「この会場において、エレオノーラ様の発言機会が与えられないまま罪状が流布された場合、明朝の見出しは二つに割れます」


「何?」


「一つは、殿下に好意的なものです。『王太子、真実の愛のため悪女を断罪』」


 貴族令嬢たちの間に、微かなざわめきが走った。


 この見出しは、彼女たちの中にもすでに浮かんでいたのだろう。


 わかりやすい物語は、火より早く広がる。


「もう一つは、殿下に不利なものです。『王太子、証拠未確認のまま公爵令嬢を公開処刑』」


 今度は、記者席が動いた。


 数人が書いた。


 書くなと言いたい。


 でも、言ったところで書く。


 なら、せめて正しく燃えてほしい。


 おかしな表現だが、広報局にいるとそういう感覚になる。


「公開処刑だと?」


 王太子殿下の頬が赤くなった。


「言葉が過ぎるぞ」


「見出しとは、たいてい言葉が過ぎます」


 私は言った。


「だからこそ、見出しにされる前に発言を整える必要があります」


 王太子殿下は、初めて言葉に詰まった。


 その沈黙の中で、私はエレオノーラ様を見た。


 彼女はまだ、私を見ていた。


 救われた人の目ではない。


 どちらかといえば、警戒に近い。


 当然だ。


 いきなり下級職員が飛び出して、自分を守るようなことを言っている。


 何が目的か。


 誰の差し金か。


 ここで自分が乗れば、さらに状況が悪くなるのではないか。


 そう考えていてもおかしくない。


 エレオノーラ様は、ほんのわずかに顎を引いた。


 私はそれを、安堵ではなく観察だと受け取った。


 この方は、まだ私を味方と認めていない。


 それでいい。


 いきなり信じる方が危ない。


「エレオノーラ様」


 私は彼女に向かって声をかけた。


 王太子殿下の眉が跳ねる。


 神殿関係者の席で、白衣の男がわずかに姿勢を正す。


 聖女候補ミリア様のそばに立っていた男。


 穏やかな顔。


 細い目。


 口元の微笑み。


 神殿広報官、オルド。


 何度か布告文で名前を見たことがある。


 今はまだ動かない。


 けれど、こちらを見ている。


 嫌な見方だった。


 言葉を、人ではなく材料として見る者の目。


「この場で発言を希望されますか」


 エレオノーラ様の目が、わずかに細くなった。


 答える前に、王太子殿下が声を荒げる。


「その必要はない。彼女の罪は明らかだ」


 胃の奥が、じり、と焼けた。


 発言権を奪う言葉は、いつも短い。


 短いから、奪われた側が声を取り戻すには時間がかかる。


 エレオノーラ様の扇を持つ指が、白くなる。


 彼女は泣かない。


 怒らない。


 ただ、沈黙する。


 その沈黙が、選ばれたものなのか、奪われたものなのか。


 さっきまでは判断できなかった。


 今は、少しだけわかる。


 少なくとも、王太子殿下は彼女に選ばせる気がない。


「殿下」


 私は言った。


「今のご発言で、公爵家からの正式抗議はほぼ確定いたしました」


 広間が揺れた。


 比喩ではない。


 貴族たちが一斉に反応したせいで、空気が動いた。


「何を馬鹿な」


「被告発者本人の発言を許さず、証拠未確認のまま公の場で罪を断定されたためです」


「私は王太子だ」


「はい」


「公爵家が私に抗議するというのか」


「公爵家は、王太子殿下ではなく、王宮の手続き不備に抗議するでしょう」


 私は一拍置いた。


「その方が燃えます」


 言ってから、少し後悔した。


 でも事実だ。


 王太子個人への怒りなら、まだ恋愛騒動で済ませられる可能性がある。


 王宮の手続き不備になれば、王家全体の信用問題だ。


 火の種類が変わる。


 煙ではなく、柱が燃える。


 王太子殿下の側近たちが顔を見合わせる。


 ここでようやく、彼らも火の匂いに気づき始めたらしい。


 遅い。


 でも、気づかないよりはましだ。


「リディア殿、とおっしゃいましたか」


 柔らかな声がした。


 神殿広報官オルドが、ゆっくりと前に出る。


 白い法衣は皺一つない。


 微笑みもまた、皺一つない。


「聖女候補ミリア様は、大変傷ついておられます。エレオノーラ様への配慮も大切ですが、ミリア様への配慮もお忘れなきよう」


 滑らかな言葉だった。


 滑らかすぎる。


 床に油を撒くなら、きっとこういう声がする。


 私はミリア様を見る。


 彼女は俯いていた。


 両手を胸の前で組み、細い肩を震わせている。


 見れば誰もが、守るべき少女だと思うだろう。


 その印象自体は、たぶん間違いではない。


 だが、それだけでもない。


 私の視界に、火種とは違うものが見える。


 空白。


 彼女自身の言葉が入るべき場所に、何もない。


「もちろんです」


 私はオルドに向かって答えた。


「だからこそ、ミリア様の発言についても正式に記録する必要がございます」


 ミリア様の肩が、小さく跳ねた。


 オルドの微笑みは変わらない。


 だが、目だけが少し細くなった。


「正式に、ですか」


「はい。誰が何を言い、誰が何を言わなかったのか。後から切り取られないためにも必要です」


「ミリア様は傷ついておられます。無理に語らせるのは酷では?」


「無理に語らせる必要はございません」


 私は記録水晶を持ち上げた。


「ですが、語らないことと、語らせないことは違います」


 オルドが黙った。


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ。


 けれど、その沈黙は見逃せなかった。


 神殿の人間にとって、沈黙は祈りにも見える。


 でも今の沈黙は、計算が止まった音だった。


 ミリア様が小さく唇を開く。


「わ、私は……」


 声はかすれていた。


 王太子殿下がすぐに彼女の前へ出る。


「ミリア、無理をするな。私が守る」


 その言葉に、会場のあちこちで感嘆の息が漏れた。


 美しい構図だ。


 傷ついた聖女候補。


 守る王太子。


 断罪される公爵令嬢。


 そして、邪魔をする下級広報官。


 最悪だ。


 私が悪役側の小物に見える。


 いや、実際、身分だけなら完全に小物だ。


 ただし、ここで黙ると物語は完成してしまう。


 完成した物語は強い。


 強すぎる。


 あとから訂正するには、初動の十倍の労力がいる。


「殿下」


 私は言った。


「ミリア様を守るためにも、殿下ご自身が彼女の代弁を続けることはお控えください」


「私がミリアのために話して何が悪い」


「代弁は、本人の言葉を奪う場合があります」


 広間が静まった。


 ミリア様が、ほんの少し顔を上げる。


 エレオノーラ様も、私を見ていた。


 さっきよりさらに鋭く。


 この下級職員は、誰を守ろうとしているのか。


 そう問う目だった。


 答えは、私にもまだ明確ではなかった。


 エレオノーラ様を守りたい。


 でも、ミリア様もこのまま見出しにされるのは危うい。


 王太子殿下は火元だ。


 だが、隣にいる少女が薪なのか、油なのか、それとも誰かに置かれた紙人形なのか。


 まだわからない。


 わからないなら、燃やしてはいけない。


「先ほどから君は」


 王太子殿下が、苛立ちを隠さず言った。


「王太子である私より、エレオノーラやミリアの言葉を優先するのだな」


「はい」


 答えた瞬間、場が凍った。


 しまった。


 即答しすぎた。


 でも、嘘はつけない。


「王宮広報局は、王太子殿下個人の言葉だけでなく、王宮全体の信用を扱います」


 私は慌てず、続けた。


「そのためには、関係者の言葉が不当に消されていないかを確認する必要がございます」


「詭弁だ」


「広報です」


 マルクさんがこの場にいたら、たぶん胃薬を落としていた。


 王太子殿下は、怒りを押し殺すように息を吐いた。


「ならば、証拠を見れば黙るだろう」


 来た。


 私は記録水晶を握り直した。


 証拠。


 それが本当に証拠なら、もちろん確認すべきだ。


 だが、第一話で見た想定問答の時点で嫌な匂いがしている。


 火種感知は、真実を見抜く力ではない。


 けれど、燃えやすい資料には共通点がある。


 日付が甘い。


 主語が曖昧。


 証言者が便利すぎる。


 そして、作った人間がなぜか自信満々。


 王太子殿下が側近に視線を向ける。


 側近の青年が、勝ち誇ったように封筒を掲げた。


 その顔を見て、私は思った。


 ああ。


 資料、燃えそう。


「こちらが、エレオノーラ嬢がミリアを害した証拠だ」


 側近は封筒を開き、数枚の書類を取り出した。


 証言書。


 侍女の報告書。


 破損した髪飾りの目録。


 茶会の出席記録らしきもの。


 遠目に見ただけで、私は軽く胃を押さえた。


 文字の周囲に、薄く赤が滲んでいる。


 はっきりした火種ではない。


 でも、煙は出ている。


「拝見してもよろしいでしょうか」


 私が言うと、王太子殿下は鼻で笑った。


「なぜ広報官に証拠を見せる必要がある」


「今ここで公に提示されるなら、提示方法も含めて記録対象となるためです」


「法務官ではないだろう」


「はい。法的判断はいたしません」


 私は少しだけ間を置いた。


「ただし、明日の見出しがどう燃えるかは判断できます」


 記者席が微かに揺れた。


 やめてください。


 あなたたちの反応が一番怖い。


 王太子殿下は不快そうに顔を歪めた。


 だが、ここで拒めば、証拠を見せられない理由があると思われる。


 それくらいは、側近も理解したらしい。


 彼は渋々、私に一枚目の書類を渡した。


 侍女の証言書。


『エレオノーラ様は、聖女候補ミリア様の茶器を故意に落とされた』


 日付は、月の第三日。


 私は二枚目を見る。


 茶会の出席記録。


 同じ日付。


 ただし、エレオノーラ様の名前はない。


 代わりに添付された別紙には、王妃教育の講義記録がある。


 開始時刻は午後二時。


 茶会も午後二時。


 場所は王宮東棟と神殿庭園。


 馬車でも二十分。


 ……なるほど。


 燃えている。


 しかも、わかりやすく燃えている。


 私は三枚目を見る。


 髪飾りの破損報告。


 作成日は月の第五日。


 破損日は月の第七日。


 未来だ。


 未来で壊れる髪飾りの報告書を、二日前に作っている。


 高度な予言能力である。


 神殿もびっくりだ。


 私は顔を上げた。


「殿下」


「何だ」


「こちらの証言書では、エレオノーラ様が月の第三日、午後二時に神殿庭園でミリア様の茶器を落としたとされています」


「そうだ」


「同時刻、エレオノーラ様は王妃教育の講義に出席されています」


 ざわり、と広間が揺れた。


 エレオノーラ様の視線が、初めて私から書類へ移る。


 王太子殿下が側近を見る。


 側近の笑みが、少しだけ崩れた。


「そ、それは記録の誤りかと」


 出た。


 記録の誤り。


 便利な言葉だ。


 便利な言葉は、たいてい責任を薄めるためにある。


「では、確認済みの証拠ではないということでしょうか」


「いや、そうではなく」


「さらに」


 私は髪飾りの破損報告を掲げた。


「こちらの報告書は、作成日が破損日より二日前です」


 広間が、今度こそ大きくざわめいた。


 記者席の羽ペンが走る。


 走るな。


 いや、走る。


 これは走る。


 私でも書く。


 王太子殿下の顔から、さっと血の気が引いた。


「どういうことだ」


 側近が汗を浮かべる。


「お、おそらく、日付の記載ミスで」


「日付の記載ミス」


 私は復唱した。


 王太子殿下の側近が、ほっとしたような顔をする。


 違います。


 助け船ではありません。


 火力確認です。


「証拠書類において、日付の記載ミスは軽微ではございません。特に、破損前に破損報告が作成されている場合、証拠全体の信頼性が疑われます」


 王太子殿下は黙った。


 その沈黙の途中で、彼はまたミリア様を見た。


 ほんの一瞬。


 彼女の顔色をうかがうように。


 あるいは、自分の物語がまだ正しいか確かめるように。


 ミリア様は俯いている。


 その隣で、オルドだけが穏やかに笑っていた。


 やはり、この人は嫌だ。


 私は王太子殿下へ向き直る。


「殿下」


「……何だ」


「この証拠群をこの場で正式提示された場合、王都瓦版の見出しはこうなります」


 私は一拍置いた。


「『王太子殿下、未来の日付の証拠で婚約者を断罪』」


 記者席で、誰かが盛大にインク壺を倒した。


 やめてください。


 今のは例です。


 見出し案ではありません。


「書かないでください」


 私が記者席へ言うと、三人ほどが目を逸らした。


 書いている。


 絶対に書いている。


「貴様……!」


 王太子殿下が怒りに震えた。


「私を愚弄するか!」


「いいえ」


 私は答えた。


「愚弄される前に止めています」


 広間の空気が、細く張り詰めた。


 王太子殿下は、私を睨んでいる。


 近衛騎士は動けない。


 記者は書いている。


 貴族たちは、もうただの恋愛劇として見ていない。


 風向きが変わった。


 それでも火は消えていない。


 燃え方が変わっただけだ。


 王太子殿下は奥歯を噛みしめるようにして、言った。


「私は、ミリアを守るために」


 その声には、怒りと、焦りと、ほんの少しの傷つきが混じっていた。


「弱い者を守ろうとしているのだ」


 ミリア様の指が震えた。


 エレオノーラ様の目が、ほんのわずかに細くなる。


 弱い者。


 守る。


 美しい言葉だ。


 だが、美しい言葉で人を殴ることもできる。


「殿下」


 私は静かに言った。


「誰かを守るために、別の誰かの発言権を奪ってよいわけではございません」


 広間に、沈黙が落ちた。


 その沈黙を破ったのは、エレオノーラ様だった。


「リディア様」


 凛とした声。


 けれど、わずかに掠れていた。


「私も、その証拠を拝見してよろしいでしょうか」


 王太子殿下が即座に言う。


「必要ない」


 エレオノーラ様は、表情を変えなかった。


 ただ、扇を閉じた。


 ぱちん、と乾いた音がした。


「私の罪を示すものだとおっしゃるなら、私には確認する権利がございます」


 その声は、泣いていなかった。


 怒鳴ってもいなかった。


 しかし、広間にいた誰よりも鋭かった。


 王太子殿下が何か言おうとする。


 私はその前に、記録水晶を掲げた。


「殿下。エレオノーラ様への開示を拒まれる場合、その事実も公式記録に残ります」


 王太子殿下の顔が歪む。


 数秒。


 長い数秒だった。


 やがて彼は、乱暴に手を振った。


「見せてやれ」


 側近が書類をエレオノーラ様へ渡す。


 エレオノーラ様は、すぐには書類を受け取らなかった。


 一度、王太子殿下を見た。


 次に、記者席を見た。


 最後に、私の手の中の記録水晶を見た。


 そのうえで、彼女は静かに手を伸ばした。


 この人は、ただ証拠を見るために動いたのではない。


 この場に残る記録と、明日の見出しまで見ている。


 エレオノーラ様は一枚ずつ、丁寧に目を通した。


 静かだった。


 静かすぎるほどだった。


 やがて、彼女は言った。


「この侍女は、私の屋敷にはおりません」


 広間がざわつく。


「この茶会の日、私は王妃教育の講義を受けておりました。講師は王妃殿下付きのマレーネ女史です。出席記録も残っております」


 彼女は次の書類を見る。


「この髪飾りについては、破損したとされる日の前日に、ミリア様ご本人が身につけていらっしゃるのを拝見しました」


 ミリア様が、はっと顔を上げた。


 何かを言いかける。


 だが、オルドがそっと視線を向けた瞬間、彼女の唇は閉じた。


 見えた。


 今、はっきり見えた。


 ミリア様は、何かを知っている。


 けれど、言えない。


 エレオノーラ様は書類を閉じた。


「殿下」


 彼女は王太子を見た。


「私は、正式な調査を望みます」


「エレオノーラ……」


「私を断罪なさるなら、どうか正しい手続きで」


 その言葉は静かだった。


 だが、強かった。


 悪役令嬢。


 誰が、そんな雑な名前をつけたのだろう。


 王太子殿下は何も言えなかった。


 その沈黙を、神殿広報官オルドが破る。


 ぱち、ぱち、と小さな拍手。


「見事なご弁明です、エレオノーラ様」


 柔らかい声だった。


 だが、胃の奥がじり、と焼けた。


 ご弁明。


 その言葉は、彼女に罪があることを前提にしている。


 オルドは微笑む。


「ですが、ミリア様が傷つかれたこともまた事実。どうか、その点をお忘れなきよう」


 ミリア様の顔が青ざめた。


 私は記録水晶を握り直した。


 火は、消えていない。


 場所を変えただけだ。


 王太子殿下は、自分の手元の火に気づき始めた。


 エレオノーラ様は、沈黙の中から剣を抜いた。


 ミリア様は、まだ言葉を閉じ込められている。


 そして神殿は、涙を見出しにしようとしている。


 私は息を吸った。


 胃が痛い。


 でも、まだ倒れるわけにはいかない。


「記者の皆様」


 私が声を上げると、広間の端にいた瓦版記者たちが一斉にこちらを見た。


「現時点で、ミリア様の涙をもって事実認定する記事はお控えください」


 若い記者の一人が、眉を上げる。


「涙は事実でしょう」


「はい。涙は事実です」


 私は頷いた。


「ですが、涙の理由はまだ確認されておりません」


 広間がまた静まる。


「悲しみか、恐怖か、罪悪感か、混乱か。あるいは別の理由か。涙そのものを見出しにすることで、読者は理由まで知った気になります」


 ミリア様が、私を見た。


 初めて。


 怯えたような、驚いたような目で。


「ミリア様を守るためにも、エレオノーラ様を守るためにも、今この場で涙を消費するべきではありません」


 消費、という言葉に、オルドの笑みが止まった。


 ほんの一瞬だけ。


 でも十分だった。


 私は記録係へ向き直る。


「会場記録係。現在の発言をすべて記録していますか」


「は、はい」


「発言者名、時刻、証拠提示の有無、発言遮断の有無も記録してください」


「発言遮断、ですか」


「はい」


 私は言った。


「誰が、誰の言葉を止めたのか。重要です」


 王太子殿下が私を睨む。


 オルドが微笑む。


 記者たちが書く。


 エレオノーラ様は、私を見ている。


 今度は、少しだけ違う目だった。


 味方を見る目ではない。


 でも、駒を見る目でもない。


 この下級職員は使えるのか。


 そう測っている目だ。


 十分です。


 まずはそれで。


「会見は、一時中断すべきです」


 私は王宮側の進行役へ向かって言った。


「証拠確認、本人への聞き取り、王宮法務部への照会が必要です。これ以上の発言は、全員を燃やします」


 王太子殿下が怒鳴ろうとした。


 だが、今度は側近の一人が袖を引いた。


 遅い。


 本当に遅い。


 でも、ようやく現場が火を見た。


 数秒後。


 王宮式部官が震える声で宣言した。


「本件につきましては、確認のため、一時休会といたします」


 広間が爆発したようにざわめいた。


 貴族たち。


 記者たち。


 神殿関係者。


 隣国使節。


 全員が、それぞれの火を持って動き出す。


 私は記録水晶を止めなかった。


 まだだ。


 会見は止まった。


 でも、炎上はこれから始まる。


 エレオノーラ様が、私の横を通り過ぎる。


 その瞬間、彼女は足を止めずに、小さく言った。


「あなた、命知らずですのね」


 褒めてはいない。


 たぶん。


「職務です」


 私も小さく返した。


「ずいぶん危険な職務ですこと」


「よく言われます」


 彼女は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、口元を動かした。


 笑ったのか。


 呆れたのか。


 まだわからない。


 それでいい。


 その直後、セラが血相を変えて駆け込んできた。


「リディア!」


「何ですか」


「水晶掲示板がもう燃えてる!」


 早い。


 本当に早い。


 私は水晶板を受け取った。


【速報】王太子殿下、婚約破棄会見を中断


【広報官つよい】


【未来日付の証拠って何】


【悪役令嬢、反撃開始?】


【ミリア様泣いてたらしい】


【涙の理由は未確認、って誰か言った?】


【国が燃えます】


【もう燃えてる】


 私は目を閉じた。


 胃が痛い。


 でも、まだ倒れられない。


 火は消えていない。


 ただ、ようやく火元が見え始めただけだ。

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