表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
婚約破棄会見、炎上します

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/15

王宮炎上対応係、今日も胃が痛い

 王宮広報局おうきゅうこうほうきょくの壁には、金縁の額に入った標語が飾られている。


 **王宮は、常に民の声を聞いております。**


「聞いているなら、返事くらいしてくださいよ……」


 私、リディア・ノートンは、冷めきった薬草茶を片手にそう呟いた。


 朝一番の王宮広報局は、いつも静かだ。


 静か、と言えば聞こえはいい。


 実際は、全員が昨夜の緊急対応で魂を半分ほど王都の空へ飛ばしているだけである。


 隣の机では、先輩職員のマルクさんが封筒の山に頬をつけたまま動かない。


 死んでいるのではない。


 たぶん寝ている。


 たぶん。


 向かいの席では、同僚のセラが目を開けたまま羽ペンを握っている。書類には一行だけ文字があった。


『今後このようなことがないよう、』


 そこで止まっている。


 その下に、インクの染みが広がっていた。


 涙かもしれないし、インク壺を倒したのかもしれない。


 どちらでも大差はない。


 王宮広報局。


 正式名称は、王宮広報局危機声明管理室ききせいめいかんりしつ


 通称、炎上対応係えんじょうたいおうがかり


 もっと親しみを込めて呼ぶ者は、火消し部屋と言う。


 親しみではなく、だいたい悪意である。


 仕事は簡単だ。


 王族が失言する。


 貴族が喧嘩する。


 神殿が余計な布告を出す。


 商会が怪しい広告を打つ。


 王都瓦版おうとかわらばんが刺激的な見出しをつける。


 水晶掲示板すいしょうけいじばんが爆発する。


 そして最後に、なぜか私たちが謝罪文を書く。


 大変わかりやすい職場だった。


 やりがい以外は全部ある。


「リディア……」


 机に突っ伏していたマルクさんが、顔を半分だけ上げた。


 灰色の髪は寝癖で鳥の巣になっている。目の下には、王宮地下水路より深そうな隈がある。


「胃薬、残ってるか……?」


「戸棚の三段目です。でも一人二粒までです。昨日、総務から使用量について問い合わせが来ました」


「胃薬の使用量を問い合わせる前に、胃薬が必要になる案件を減らしてほしいな」


「それを総務に言ったら、総務も胃薬を飲みます」


「この国、もう駄目かもしれない」


 マルクさんはそう言って、また机に沈んだ。


 駄目かもしれない、で済んでいるうちはまだいい。


 前世の私は、駄目になった会社にいた。


 広報部という名の、謝罪文製造部署。


 上司が不祥事を起こせば謝罪文。


 役員が会見で余計なことを言えば訂正文。


 商品の欠陥が見つかれば想定問答。


 社員の内部告発があれば、まず「事実確認中です」と書かされた。


 事実など、とっくに会議室の机の上に並んでいたのに。


 炎上したら、まず火元を見ろ。


 前世の先輩はそう言っていた。


 燃えている場所ではなく、最初に火をつけた場所を見ろ、と。


 あの時の私は、火元を見ていた。


 けれど、消すことはできなかった。


 火元が、火元らしい顔をしていなかったからだ。


 そして私は、会社の盾にされ、謝罪文と苦情と深夜残業に埋もれて、気づけばこの世界の王宮職員になっていた。


 転生というものは、普通もう少し夢があるのではないだろうか。


 剣と魔法の世界。


 貴族令嬢。


 煌びやかな舞踏会。


 運命の恋。


 そういうものを少しは期待しても罰は当たらないと思う。


 なのに、私が得たものは王宮職員証と胃薬の常備棚だった。


 神様は人事異動の才能がない。


「リディア、これ、昨日の王弟殿下の失言に対する再発防止策案」


 セラが震える手で書類を差し出してきた。


「王弟殿下、昨日は何を?」


「隣国使節の前で、『あちらの王家は代々髪が薄い』と」


「……なぜ?」


「お酒が入っていたらしいわ」


「お酒で外交を燃やすの、そろそろ規制した方がいいですね」


「再発防止策に『酒を飲ませない』って書いたら、上から『王族への敬意が足りない』って戻された」


「では『飲酒量の品位ある調整』で」


「品位って便利ね」


「便利な言葉は、たいてい責任を薄めるためにあります」


 そう言いながら、私は書類に赤を入れていく。


 この世界の私は、リディア・ノートン。


 二十歳。


 王宮広報局危機声明管理室所属の下級職員。


 身分は低い。家柄も地味。後ろ盾もない。


 特技は、文章の火種を見つけること。


 この世界で授かったスキルの名は、たぶん《火種感知》。


 正式に鑑定されたわけではない。


 なぜなら、王宮の人事記録には「文章確認能力に優れる」とだけ記されていたからだ。


 雑すぎる。


 けれど、私には見える。


 誰かの発言。


 声明文。


 記事の見出し。


 謝罪文。


 会見台本。


 そういった言葉の中に潜む、燃える可能性が。


 たとえば、昨日の王弟殿下の発言。


『あちらの王家は代々髪が薄い』


 私にはこう見える。


【火種:隣国王家侮辱】


【火種:外交問題】


【火種:酒席発言の公式責任】


 この三つが見えた時点で、もう十分だった。


 その奥にも細かい火種はある。


 でも、全部拾っていたら朝が終わる。


 なお、朝が終わるだけならまだいい。


 だいたい昼も夜も終わる。


「リディア、顔が死んでる」


「発言が生き生きと燃えているので、均衡を取っています」


「人はそれを過労と言うのよ」


「言葉を選んでください。燃えます」


「何でも燃やさないで」


 セラは笑い、私は再発防止策の文面を書き換えた。


『今後、王族の酒席における外交上の発言については、同席補佐官による事前確認および速やかな訂正手順を整備する』


 長い。


 だが短くすると燃える。


 この仕事をしていると、世界はだいたい二種類に分かれる。


 長くて読まれない文章。


 短くて燃える文章。


 ちょうどいい文章は、たいてい誰かの睡眠時間を犠牲にして生まれる。


「リディア」


 今度は室長の声がした。


 危機声明管理室長、バルド・ハインズ。


 五十代。温厚。胃が弱い。


 王宮広報局に二十年勤め、生き残っているだけで尊敬に値する人物である。


 ただし、最近は髪より先に魂が薄くなっている。


「はい、室長」


「至急案件だ」


 その言葉に、部屋の空気が変わった。


 至急案件。


 それは、この部署において火災報知器と同義である。


 マルクさんが顔を上げた。


 セラが羽ペンを落とした。


 私は無意識に胃のあたりを押さえた。


「どなたですか?」


「王太子殿下だ」


 全員が黙った。


 たぶん今、部屋の中の全員が同じことを考えた。


 またか、と。


 ルーファス王太子殿下。


 この国、アルヴェリア王国の次期国王。


 容姿端麗。剣術優秀。魔力も高い。


 ただし、言葉選びに致命的な欠陥がある。


 以前、病気療養中の老侯爵に向かって、


『まだご存命でしたか』


 と言った人物である。


 その時、私たちは三日間帰れなかった。


「今度は何をおっしゃったんですか?」


 私が尋ねると、室長は重々しく一枚の羊皮紙を机に置いた。


「まだ、おっしゃってはいない」


「はい?」


「今夜、おっしゃる予定だ」


 予定されている失言。


 嫌な言葉だった。


 私は羊皮紙を受け取り、表題を見る。


 そこには、流麗な筆致でこう書かれていた。


 **王太子殿下主催舞踏会における婚約関係の重大発表に関する想定問答**


「……婚約関係の重大発表?」


 嫌な予感が、背中を撫でた。


 こういう時の私の嫌な予感は、だいたい当たる。


 当たってほしくない時ほどよく当たる。


「室長」


「うむ」


「王太子殿下は、まさか」


「今夜の舞踏会で、グランフェルト公爵令嬢との婚約を破棄なさるおつもりらしい」


 部屋の誰かが、息を呑んだ。


 それは私だったかもしれない。


 エレオノーラ・グランフェルト公爵令嬢。


 王太子殿下の婚約者。


 王国最大派閥の一つ、グランフェルト公爵家の一人娘。


 貴族学校を首席で卒業し、王妃教育も完璧。


 冷たい、美しすぎる、隙がない、などと社交界では噂されている。


 だが、公式行事で彼女を何度か見たことがある私は知っている。


 あの人は、常に王太子の失言を三歩後ろで処理していた。


 王太子が隣国使節の名前を間違えそうになれば、扇を落として場を逸らす。


 王太子が苦手な貴族に刺々しい言葉を向ければ、微笑んで話題を変える。


 王太子が退屈そうにしていれば、先に謝意を述べて会話を締める。


 王太子殿下が表舞台で輝いて見えた時、その光の影には、だいたいエレオノーラ様がいた。


 その人を、婚約破棄?


「理由は?」


 私の声が、自分でも驚くほど低くなった。


 室長は目を逸らした。


「聖女候補ミリア・セレス嬢への嫌がらせ、とのことだ」


「証拠は?」


「王太子殿下側近から、数点の証言書が提出されている」


「確認は?」


「まだだ」


「まだ?」


「王太子殿下が、正式調査の前に発表したいと」


 私は羊皮紙を見下ろした。


 想定問答。


 王太子殿下の発表文。


 王宮側の補足説明。


 記者への回答例。


 私は一行目を読んだ。


『本件は、王太子殿下の私的なご判断であり、王家としては両者の意思を尊重するものである。』


 瞬間、視界に火が走った。


【火種:王家責任回避】


【火種:公爵家侮辱】


【火種:婚約契約の公的性質無視】


【火種:王位継承不安】


 四つ見えたところで、私は読むのをやめた。


 まだ一行目だ。


 まだ一行目なのに、すでに煙が出ている。


 私は二行目に目を落とした。


『エレオノーラ嬢の行為は、未来の王妃として看過しがたいものであり、王太子殿下は苦渋の決断をなされた。』


【火種:事実未確認の罪状断定】


【火種:名誉毀損】


【火種:王太子被害者演出】


 もういい。


 十分だ。


 紙面が火事だった。


 私はそっと羊皮紙を机に置いた。


 置かないと破りそうだったからだ。


「室長」


「うむ」


「これは、駄目です」


「だろうな」


 室長は深く頷いた。


 その顔は、すでに三日寝ていない人間のそれだった。


「王太子殿下へ中止の進言は?」


「した」


「結果は?」


「『余計な口出しをするな』とのことだ」


「王宮法務部は?」


「正式な婚約契約解除には調査が必要だと進言した」


「結果は?」


「『今夜は心情の表明であって、正式手続きは後日でよい』とのことだ」


「それを公衆の面前で言うんですか?」


「そのようだ」


「火に油を注いでから、後日消火方法を検討するおつもりですか?」


「実に王族的な工程だな」


 室長が遠い目をした。


 マルクさんが震える手で胃薬を噛み砕いている。


 セラは小声で祈っていた。神殿ではなく、休暇の神に。


 私はもう一度、書類に目を落とした。


 王太子殿下の発表予定文。


 エレオノーラ様の罪状。


 ミリア様の証言要旨。


 会場には、王都貴族、神殿関係者、隣国使節、王都瓦版の記者も招かれている。


 どうして火薬庫の中で花火大会を開こうとするのか。


 しかも、誰も水を用意していない。


「これ、恋愛問題ではありません」


 私が言うと、室長はゆっくりと頷いた。


「だが上は、私的な婚約問題として処理したいらしい」


「王太子殿下と公爵令嬢の婚約が、私的な問題で済むはずがありません。王位継承、派閥均衡、神殿との関係、外交、全部燃えます」


「そうだ」


「なら、なぜ止めないんですか」


 言ってから、少しだけ後悔した。


 室長を責めても仕方がない。


 この人は止めようとしたのだろう。


 止まらなかっただけだ。


 前世でも、そうだった。


 止めた。


 書いた。


 警告した。


 でも、火はついた。


「リディア」


 室長が私を見た。


「今夜、お前も会場に入れ」


「私が、ですか?」


「控えの広報官としてだ。何かあった時、即座に声明草案を作れる者が必要になる」


「何かは、確実にあります」


「だからお前を行かせる」


 それは信頼なのか、死地への派遣なのか。


 判断が難しい。


「私は下級職員です。王太子殿下の発表に口を出す権限はありません」


「口を出せとは言っていない」


 室長は苦々しく笑った。


「記録しろ。見ろ。燃え方を判断しろ。そして、可能なら被害を小さくしろ」


「つまり、火事場に行って延焼範囲を測れと」


「そうだ」


「消火器は?」


「ない」


「防火服は?」


「ない」


「胃薬は?」


「持っていけ」


 私は深く息を吐いた。


 壁の標語が目に入る。


 王宮は、常に民の声を聞いております。


 嘘ではないのかもしれない。


 聞いているだけなら。


「室長」


「なんだ」


「会場で王太子殿下が、想定問答以上の発言をされた場合は?」


 室長は一瞬、目を閉じた。


 そして、疲れ切った声で言った。


「その場合は……リディア」


「はい」


「生きて帰れ」


「業務命令が重いです」


 セラが小さく吹き出した。


 マルクさんも、机に伏したまま肩を震わせている。


 笑うしかない。


 こういう時、人間は笑うしかないのだ。


 私も苦笑して、羊皮紙を抱えた。


 その時だった。


 部屋の扉が勢いよく開いた。


「危機声明管理室! 追加案件です!」


 若い伝令係が、顔色を失って飛び込んできた。


 全員の視線が彼に向かう。


 伝令係は息を切らしながら、巻物を差し出した。


「王太子殿下側近より、今夜の発表文の最新版が届きました!」


「最新版?」


 私は反射的に受け取った。


 嫌な予感がした。


 今度こそ外れてほしかった。


 だが、私の嫌な予感は本当によく当たる。


 巻物を開く。


 最初の一文が目に入った。


『エレオノーラ・グランフェルト。お前のような女を、未来の王妃にするわけにはいかない。』


 赤い文字が、視界の端で弾けた。


【火種:公爵家侮辱】


【火種:女性蔑視】


【火種:王家信用低下】


 三つ見えた時点で、もう十分だった。


 その奥に、まだいくつもの火が重なっている。


 数えたら、たぶん私は夕方まで動けない。


 私は巻物を閉じた。


 もう一度開いた。


 文字は変わっていなかった。


 残念ながら、現実だった。


「リディア?」


 セラが恐る恐る声をかけてくる。


 私は静かに言った。


「室長」


「うむ」


「王太子殿下の発表文ですが」


「どれほど悪い?」


 私は少し考えた。


 正確に伝えるべきだ。


 過度な表現はよくない。


 広報官として、冷静に、客観的に、事態を説明する必要がある。


 だから私は言った。


「国家規模の焚き火です」


 部屋の空気が死んだ。


 マルクさんが胃薬の瓶を抱きしめた。


 セラは祈る神を変えた。


 室長は天井を見上げた。


「……リディア」


「はい」


「今夜の舞踏会、必ず記録水晶を持っていけ」


「はい」


「それから、声明用の白紙を多めに」


「はい」


「あと、胃薬を」


「はい」


「全部持ったら、最後にこれを持て」


 室長は引き出しから、小さな金属製の徽章を取り出した。


 王宮広報局の徽章。


 危機声明管理室の職員であることを示すものだ。


「控えの広報官として、会場内での記録権限を認める」


「発言権は?」


「ない」


「ですよね」


「だが」


 室長は私をまっすぐ見た。


「本当に国が燃えそうなら、燃える前に叫べ」


 私は徽章を受け取った。


 小さく、冷たい。


 けれど、妙に重かった。


 前世の会議室の匂いが、一瞬だけ鼻の奥によみがえった。


 冷めたコーヒー。


 閉じられた議事録。


 誰かの声を、なかったことにした空気。


 私は徽章を胸につけた。


 今夜、誰かの人生が燃やされようとしている。


 そして私は、その会場に立つ。


 剣もない。


 攻撃魔法もない。


 身分もない。


 あるのは、赤インクと、記録水晶と、胃薬だけ。


 私は王太子殿下の発表文をもう一度広げる。


 何度見ても、紙の上に油を塗って導火線をつけたような文章だった。


 私は赤インクの瓶を開け、羽ペンを握った。


「リディア、何をする気?」


 セラが聞いた。


「想定問答を作り直します」


「王太子殿下は読むと思う?」


「読みません」


「じゃあ」


「私たちが読むんです。燃えた後に、どこから水をかけるかくらいは決めておかないと」


 私は一行目の横に赤字を入れた。


『お前のような女』


 駄目。


 全面的に駄目。


 人を公衆の面前でこのように呼ぶ時点で、王太子以前に大人として駄目。


 私は赤字で書いた。


『使用不可。人格攻撃。王家声明で擁護不能。』


 次の一文。


『未来の王妃にするわけにはいかない』


 これも駄目。


『王妃教育の否定に繋がる。公爵家投資の無価値化。政治問題化。』


 さらに次。


『真実の愛を見つけた』


 私は一瞬だけ目を閉じた。


 真実の愛。


 便利な言葉だ。


 便利すぎて、責任が全部その中に沈む。


 前世でもあった。


『お客様のため』


『社会のため』


『誠意をもって』


『再発防止に努める』


 大きな言葉ほど、中身が空っぽのことがある。


 私は赤字を入れた。


『真実性の証明不可。婚約契約違反の免責理由にならない。』


 マルクさんが横から覗き込み、引きつった笑みを浮かべた。


「赤いな」


「燃えていますから」


「この発表文、殿下が読み上げたら?」


「最低でも三派閥が敵に回ります」


「最高では?」


「王都瓦版が号外を出し、水晶掲示板が落ち、神殿が声明を出し、公爵家が正式抗議し、隣国使節が本国に報告し、我々が帰れなくなります」


「最後が一番現実味あるな」


「全部現実になります」


 私は赤を入れ続けた。


 書けば書くほど、胃が痛くなる。


 それでも手は止めなかった。


 火元を見ろ。


 燃えている場所ではなく、最初に火をつけた場所を。


 今夜の火元は、王太子殿下だ。


 ……と、この時の私は思っていた。


 まさか本当の火元が、王宮の地下で百年以上も燃え続けていたものだなんて。


 この時の私は、まだ知らなかった。


 私は最後の赤字を書き終え、羽ペンを置いた。


 王太子殿下の発表文は、ほとんど真っ赤になっていた。


 セラがそれを見て呟く。


「これ、謝罪文?」


「いいえ」


 私は書類をまとめ、立ち上がった。


「出火予告です」


 その日の夕刻。


 王宮大広間には、王都中の貴族が集まっていた。


 煌びやかなシャンデリア。


 磨き上げられた大理石の床。


 音楽隊の優雅な旋律。


 香水と花の香り。


 色とりどりのドレス。


 勲章をつけた紳士たち。


 世界は、まるで美しい絵画のようだった。


 ただし、私の目には違うものも見えている。


 記者席に潜む火種。


 貴族令嬢たちの囁きに混じる火花。


 神殿関係者の白い衣に隠れた油。


 隣国使節の静かな観察眼。


 そして、広間の中央に立つ王太子殿下。


 金髪碧眼。


 完璧な笑み。


 自分が今から何を燃やすのか、まるでわかっていない顔。


 その隣には、可憐な少女がいた。


 淡い桃色の髪。


 白いドレス。


 潤んだ瞳。


 聖女候補、ミリア・セレス。


 彼女は小さく俯きながら、両手を胸の前で組んでいる。


 その姿だけ見れば、誰もが彼女を守るべき存在だと思うだろう。


 けれど、私の胸に小さな違和感が刺さった。


 彼女の周囲には火種が見える。


 だが、それだけではない。


 空白がある。


 言葉のない、妙な空白。


 それを考える間もなく、広間の扉が開いた。


 エレオノーラ・グランフェルト公爵令嬢が入ってきた。


 銀の髪。


 深い青のドレス。


 背筋はまっすぐで、表情は静か。


 美しい人だった。


 冷たいのではない。


 崩れないように、必死で立っている人の美しさだ。


 いや、そう決めつけるのも違う。


 あの方はまだ、崩れていない。


 王太子殿下が彼女を見た。


 音楽が止まる。


 貴族たちの囁きが広がる。


 私は記録水晶を起動した。


 胸の徽章が冷たい。


 胃が痛い。


 でも、目は逸らさない。


 王太子殿下が一歩前に出た。


「エレオノーラ・グランフェルト」


 広間が静まり返る。


 殿下は、よく通る声で言った。


「今宵、この場で宣言する。私はお前との婚約を破棄する」


 その瞬間、赤い文字が視界の端で弾けた。


【火種:公爵家侮辱】


【火種:王家信用失墜】


 貴族たちが息を呑む。


 記者たちの羽ペンが走る。


 エレオノーラ様は、わずかに目を見開いただけだった。


 泣かない。


 叫ばない。


 崩れない。


 ただ、扇を持つ指だけが白い。


 王太子殿下は続ける。


「お前のような女を、未来の王妃にするわけにはいかない」


 視界の奥で、さらに火が重なる。


 全部は読まない。


 読んだところで、状況は変わらない。


 燃えている。


 それだけで十分だった。


 私は、息を吸った。


 まだだ。


 まだ、下級職員が口を挟む段階ではない。


 記録しろ。


 見ろ。


 判断しろ。


 室長の言葉を思い出す。


 王太子殿下は、さらに声を張った。


「お前は、聖女候補であるミリアを妬み、数々の嫌がらせを行った。証拠もある。もはや誰も、お前の言葉など聞かない」


 その言葉が落ちた瞬間。


 エレオノーラ様の指先が、ほんの少しだけ震えた。


 誰も気づかなかったかもしれない。


 でも、私は見た。


 赤い文字が、また弾ける。


【火種:発言権の剥奪】


【火種:一方的断罪】


【火種:公式記録不備】


 三つ見えた時点で、もう十分だった。


 その奥に、まだいくつもの火が重なっている。


 数えたら、たぶん私は止まれなくなる。


 エレオノーラ様は泣かなかった。


 怒りもしなかった。


 ただ、扇の骨がきしむほど強く握られている。


 あの沈黙が、選ばれたものなのか、奪われたものなのか。


 私にはまだ、判断できなかった。


 でも。


 王太子殿下が、さらに言葉を重ねようとした。


 私は一歩前に出た。


 たぶん、実際にはほんの一歩だった。


 けれど私には、崖から足を踏み出すくらい遠く感じた。


 王太子殿下の右後ろに控えていた近衛騎士が、反射的に動く。


 当然だ。


 王太子殿下の婚約破棄宣言を、下級職員が遮ろうとしている。


 普通なら、その場で腕を取られて会場の外へ引きずり出されても文句は言えない。


 私の膝は、正直に言えば震えていた。


 今すぐ胃薬を噛み砕きたい。


 でも、近衛騎士の手は途中で止まった。


 彼の視線が、私の胸元に落ちたからだ。


 王宮広報局危機声明管理室の徽章。


 そして、私の手にある記録水晶。


 今ここで私を力ずくで排除すれば、その行為も公式記録に残る。


 騎士はそれを理解したのだろう。


 剣ではなく、視線で王太子殿下の指示を待った。


 そう。


 今この場で一番強い武器は、剣ではない。


 記録だ。


 ……などと冷静に考えているふりをしながら、私は内心で叫んでいた。


 怖い。


 ものすごく怖い。


 でも、黙っている方がもっと痛かった。


 王太子殿下が、ゆっくりと私を見た。


 その顔に浮かんでいたのは、怒りというより困惑だった。


 叱られるとは、思っていなかった顔だ。


 ああ。


 この方は、自分が火を持っていることにも気づいていない。


 私は視線の端で、エレオノーラ様を見る。


 彼女は泣いていなかった。


 驚きに崩れてもいなかった。


 ただ、私を見ていた。


 救い主を見る目ではない。


 味方を見つけた目でもない。


 想定外の駒が盤上に飛び込んできた時、まずその駒の働きを見極めようとする、冷静な目だった。


 さすがだと思った。


 この方は、まだ戦場を降りていない。


 王太子殿下が、エレオノーラ様にさらに言葉を重ねようとした。


 その前に。


 私は、声を出した。


「殿下」


 広間中の視線が、私に集まる。


 王太子殿下が眉をひそめた。


「何者だ」


 私は胸の徽章に手を添えた。


 膝が震えている。


 喉が乾く。


 でも、言う。


「王宮広報局危機声明管理室所属、リディア・ノートンです」


「広報局?」


「はい」


「下がれ。今は王家の重大な場だ」


 私は、王太子殿下を見た。


 そして、できるだけ落ち着いた声で言った。


「だからこそ、申し上げます」


 広間の空気が張り詰める。


 記者の羽ペンが止まった。


 エレオノーラ様の視線が、さらに鋭くなる。


 私は息を吸う。


 火元を見ろ。


 最初に火をつけた場所を。


「殿下」


 私の声は、思ったよりもよく響いた。


「その発言は、国が燃えます」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ