聖女候補の美談が整いすぎている
美談というものは、甘い菓子に似ている。
一口目はおいしい。
二口目も、まあおいしい。
三口目で、少し喉が渇く。
そして四口目あたりで気づく。
これ、砂糖の量がおかしい。
「ノートンさん、神殿配布紙の追加です」
「ありがとうございます。そこに積んでください」
「もう積む場所がありません」
「では胃薬棚の横に」
「胃薬棚は満員です」
「……この職場、救いがないですね」
王宮広報局、危機声明管理室。
通称、火消し部屋。
その朝、火消し部屋の机という机は、神殿系の配布紙で埋まっていた。
白い紙。
金の縁取り。
清らかな花模様。
そして、どの紙面にも柔らかく微笑む聖女候補ミリア・セレスの絵姿。
清楚な白衣。
祈る手。
伏せられた睫毛。
控えめな涙。
完璧だった。
完璧すぎて、私は胃が痛くなった。
「……美談の紙面で胃痛を起こす人、初めて見ました」
先輩職員が私を見て言った。
「先輩。甘すぎる菓子でも胃は荒れます」
「菓子なら食べなければいいのでは」
「美談は食べなくても流れてきます」
「名言っぽいけど嫌ですね」
私は一枚目の配布紙を机に広げた。
『聖女候補ミリア様、孤児を抱きしめる』
『聖女候補ミリア様、病床の老人に祈りを捧げる』
『聖女候補ミリア様、濁った井戸を清める』
三つ。
きっちり三つ。
私は二枚目を広げる。
『迷子の幼子を導く』
『怪我人に包帯を巻く』
『貧しき者へパンを分ける』
三つ。
三枚目。
『涙』
『祈り』
『奇跡』
三つ。
気味が悪いほど、三つ。
「……神殿の方々は、三という数字がお好きなのですか?」
私は呟いた。
先輩職員は隣で配布紙をめくりながら、顔をしかめる。
「信仰上、三聖句とか三祝福とか、たしかありますけど」
「それにしても整いすぎています」
「整っているならいいのでは? うちの王太子殿下の謝罪文なんて、主語と責任が迷子ですよ」
「殿下の謝罪文は、整っていない燃料です。こちらは、整った燃料です」
「どちらにしても燃料なんですね」
私は頷いた。
美談そのものが悪いわけではない。
誰かを助けた。
誰かに祈った。
誰かの苦しみに寄り添った。
それが事実なら、報じられてもいい。
人は悪い話ばかりでは疲弊する。
善い行いが伝わることで、救われる気持ちもある。
けれど。
これは、善行の記録ではない。
構図がある。
誰かが、民衆の感情の手を引いている。
「敵、被害者、救済者」
私は紙面の端に赤鉛筆で書き込んだ。
先輩職員が覗き込む。
「なんですか、それ」
「感情の導線です」
「導線」
「読者がどこで怒り、どこで泣き、どこで安心するか。その順路です」
私は一枚目の紙面に印をつけた。
「ここで孤児が泣いています。ここでミリア様が抱きしめます。ここで“高貴なる者の冷たさに傷ついた子どもたち”という文が入ります」
「高貴なる者って……」
「名指しはしていません」
「でも、読む人はエレオノーラ様を思い浮かべますね」
「はい。だから悪質です」
火種が見える。
【火種:エレオノーラ再悪女化】
【火種:聖女候補被害者固定】
【火種:神殿権威強化】
【火種:王宮声明への反発】
【火種:善意による反論封じ】
善意による反論封じ。
これが一番厄介だった。
ミリア様は善いことをしている。
孤児を助けている。
病人に祈っている。
井戸を清めている。
だから、彼女を疑う者は冷たい。
だから、彼女と対立した者は悪い。
だから、王宮声明で彼女への取材自粛を求めたリディア・ノートンは、聖女候補の声を封じようとしている。
そう読ませる紙面だった。
「この見出し、直接は誰も責めていませんね」
先輩が言った。
「直接責めないから広がります」
「責めていないのに?」
「人は、自分で気づいた気になった結論ほど手放しません」
前世でもあった。
記事本文には書いていない。
企業名は出していない。
個人名も伏せている。
ただ、読者が自然に連想するように、情報を並べる。
そして炎上したあと、発信者は言う。
そんなつもりではありませんでした。
読者が勝手に解釈しただけです。
それは謝罪ではありません。
燃料です。
「リディア」
背後から涼やかな声がした。
振り返ると、エレオノーラ様が扉のところに立っていた。
今日の彼女は淡い灰紫のドレスをまとっている。
喪服ではない。
けれど、華やかさを抑えた色味が、今の彼女の立場を示していた。
「お越しいただきありがとうございます」
「構いませんわ。私について書かれていない記事で、私が燃やされていると聞きましたので」
「要約が的確すぎます」
エレオノーラ様は机に広がる配布紙を一瞥した。
その表情は静かだった。
怒りを見せない。
悲しみも見せない。
でも、指先が紙の端を押さえる時、ほんのわずかに力が入った。
「ずいぶん清らかな紙面ですこと」
「はい。清らかすぎて、漂白剤の匂いがします」
「漂白剤?」
「すみません。前世……いえ、古い地方の洗浄剤です」
「あなたの比喩、ときどき異国ですわね」
「胃痛の国から来ました」
「それは王宮広報局でしょう」
先輩職員が「否定できない」と小声で呟いた。
エレオノーラ様は椅子に腰を下ろし、紙面を一枚ずつ読んでいく。
速い。
けれど雑ではない。
視線が文章の骨をなぞる。
誰が誰を見ているか。
どの言葉がどの感情に触れているか。
彼女は、人間関係の火薬庫を見る人だ。
「……お上手ですわね」
エレオノーラ様が言った。
「神殿が、ですか」
「ええ。私を直接悪く言わず、私の反論を品位のないものに見せる」
彼女は紙面の一文を指で示した。
『真に清らかな者は、誰かを責める前に祈る』
私は眉間を押さえた。
【火種:反論=不浄】
【火種:被害者の沈黙要求】
【火種:怒りの否定】
「これは……」
「私が怒れば、清らかではないと言われますわ」
エレオノーラ様は微笑んだ。
「泣かなければ冷たい。怒れば醜い。黙れば認めた。話せば圧力。女の名誉回復とは、なかなか忙しい舞台ですわね」
笑っている。
でも、その言葉は軽くなかった。
私は配布紙を見下ろした。
悪女という見出し。
聖女という見出し。
どちらも、人を閉じ込める檻になる。
「エレオノーラ様」
「なにかしら」
「ミリア様について、どう思われますか」
その瞬間、部屋の空気が少し変わった。
先輩職員が、さりげなく一歩下がる。
胃薬の瓶を握る音がした。
エレオノーラ様はすぐには答えなかった。
紙面の中のミリア様を見つめる。
白い衣装。
祈る手。
優しい微笑み。
「嫌いですわ」
彼女は静かに言った。
私は息を止めた。
「彼女が意図していたかどうかは、今はわかりません。けれど、あの夜、殿下の隣に立ち、涙を浮かべ、私を見た。あの場の空気がどう動いたか、彼女がまったく知らなかったとは思えません」
「はい」
「私は、彼女に傷つけられました」
エレオノーラ様の声は揺れなかった。
そのことが、逆に痛かった。
「でも」
彼女は紙面を閉じる。
「この紙面の中にいるミリア様は、少し奇妙ですわ」
「奇妙?」
「人間の匂いがしません」
私は顔を上げた。
「綺麗すぎる。優しすぎる。何も迷わない。怒らない。嫌がらない。傷つかない。ただ、祈って、微笑んで、涙を流す」
エレオノーラ様は目を細める。
「まるで、誰かが作った人形です」
その言葉で、私の背筋が冷えた。
人形。
火種ではない。
悪意でもない。
もっと別のもの。
空白。
私は紙面のミリア様の絵姿を見た。
笑っている。
美しく。
清らかに。
民衆が信じたくなる形で。
でも、その笑顔に、何かがない。
火が見えない。
いつもなら、言葉には火種が浮かぶ。
危険な表現。
誤解を生む見出し。
怒りを煽る構文。
けれど、ミリア様本人の言葉として掲載されている一文だけが、妙だった。
『皆さまのために祈ります』
何度も出てくる。
何度も何度も。
孤児を前に。
病人を前に。
井戸を前に。
王太子殿下の隣でも。
記者の前でも。
『皆さまのために祈ります』
火種は見えない。
かわりに、白い空白がある。
言葉があるのに、誰もそこにいないような。
「……リディア?」
エレオノーラ様の声で、私は我に返った。
「すみません。少し、見えました」
「火種が?」
「いいえ」
私は紙面を指で押さえた。
「火種ではありません。空白です」
先輩職員が首をかしげる。
「空白?」
「はい。ミリア様の言葉として載っているのに、本人の輪郭がない」
「それは、どういう意味ですか?」
「まだわかりません」
私は正直に答えた。
火種感知は真実を見抜く能力ではない。
相手の心も読めない。
悪意の有無もわからない。
だから、ここで決めつけてはいけない。
ミリア様は加害者かもしれない。
利用された被害者かもしれない。
その両方かもしれない。
人間は、新聞の見出しほど単純ではない。
「調べる必要があります」
「何を?」
エレオノーラ様が問う。
「三つの奇跡です」
私は配布紙を並べた。
「孤児を助けた。病人を癒した。井戸を清めた。この三つが本当に起きたのか。起きたなら、誰が、いつ、どこで、何をしたのか。神殿がどのように関わったのか」
「つまり、美談の火元を見るのね」
「はい」
私は頷いた。
「美談も火元を見ます」
「素敵ですわね。清らかな言葉を薪割り台に乗せるようで」
「言い方が物騒です」
「あなたも先ほど漂白剤とおっしゃいましたわ」
「反省しています」
「私も反省しています。少しだけ」
先輩職員が、紙面の山を見ながらぼやいた。
「調査となると、孤児院、施療院、井戸の管理組合、神殿布告記録……ああ、書類が増えますね」
「はい」
「胃薬も増えますか」
「予算が通れば」
「通しましょう。これは福祉です」
その時、火消し部屋の水晶板が淡く光った。
水晶掲示板の監視担当が、慌てて声を上げる。
「ノートンさん! 掲示板で神殿配布紙が話題になっています!」
「内容は?」
「読み上げます」
担当職員は水晶板を見ながら、次々と投稿を読み上げた。
『ミリア様、やっぱり本物の聖女では?』
『泣いてる孤児抱きしめるとか、これは支持する』
『公爵令嬢は何してたんだ?』
『王宮はこんな子まで巻き込んだのか』
『聖女候補を叩くやつ、心が濁ってる』
『井戸も清めたなら、王宮広報局の空気も清めてほしい』
「最後の人、広報局に何か恨みでも?」
先輩が真顔で言った。
「だいたい事実なので反論しづらいです」
「うちの空気、そんなに濁ってます?」
「胃薬と徹夜の匂いがします」
「濁ってますね」
私は水晶板を見つめる。
投稿の流れが速い。
王都内なら数時間で噂が広がる。
神殿系配布紙は、新聞よりも信仰の網に乗る。
施療院、孤児院、市場、井戸端。
人が集まる場所に置かれる。
そして美談は、怒りよりも柔らかく広がる。
柔らかい火。
炎に見えない炎。
「厄介ですね」
私は呟いた。
「炎上している感じがしませんのに?」
エレオノーラ様が問う。
「はい。誰も怒鳴っていない。誰も直接攻撃していない。でも、“誰を信じるべきか”の空気が作られている」
「ミリア様を疑う者は冷たい、と」
「エレオノーラ様が反論すれば、清らかな少女を責める悪女に戻されます」
「便利な構図ですわね」
「はい。便利すぎます」
私は配布紙をめくった。
また同じ一文。
『皆さまのために祈ります』
皆さま。
誰だろう。
孤児。
病人。
井戸を使う民。
王太子殿下。
神殿。
新聞。
王宮。
それとも、紙面を読む全員。
抽象的で、綺麗で、逃げ場の多い言葉。
前世の謝罪文にも似ていた。
関係者の皆さま。
お客様各位。
社会の皆さま。
多大なるご迷惑。
具体的な相手の顔が消えるほど、謝罪も祈りも薄くなる。
「皆さまのために、ですか」
私は呟いた。
その時だった。
扉が叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、王宮記録局の若い書記官だった。
両手に封筒を持っている。
息が少し上がっていた。
「ノートン様宛に、神殿経由で非公式の文書が届いております」
「神殿経由?」
「はい。ただ、正式な布告印ではありません。個人の封蝋です」
書記官が封筒を差し出す。
白い封筒。
薄い青の封蝋。
そこには、小さな百合の印が押されていた。
エレオノーラ様の目が細くなる。
「百合……ミリア様の私印ですわ」
私は封筒を受け取った。
軽い。
けれど、指先に妙な冷たさが伝わる。
封を切る。
中には、短い文が一枚だけ入っていた。
『リディア・ノートン様
突然のお手紙をお許しください。
私は、皆さまのために祈ります。
ですが、もし可能であれば、
一度だけ、お話をさせていただけないでしょうか。
ミリア・セレス』
私は文面を見つめた。
『皆さまのために祈ります』
いつもの定型句。
けれど、その下の一文だけ、少し震えていた。
『一度だけ、お話をさせていただけないでしょうか』
火種は見えない。
空白の中に、細い線が一本だけ引かれたようだった。
「……ミリア様から、面会希望です」
部屋が静まり返る。
先輩職員が、そっと胃薬を握り直した。
エレオノーラ様は、しばらく黙っていた。
やがて、彼女は小さく息を吐く。
「会うのですか」
「会います」
私は即答した。
「危険かもしれませんわよ」
「はい」
「神殿の罠かもしれません」
「はい」
「ミリア様ご本人が、あなたを利用しようとしている可能性もありますわ」
「あります」
「それでも?」
エレオノーラ様の声には、責める響きはなかった。
ただ、確かめていた。
私が何を見て、何を選ぶのか。
私は手紙を見下ろした。
綺麗な定型句。
震えた一文。
美談の中の空白。
「火元を見ます」
私は言った。
「燃えている人ではなく、火をつけた場所を」
エレオノーラ様は、少しだけ目を伏せた。
「……私は、まだ彼女を許せませんわ」
「許さなくていいと思います」
私は答えた。
「許すことと、話を聞くことは別です」
エレオノーラ様の指先が、配布紙の上で止まった。
紙面の中のミリア様は、微笑んでいる。
完璧に。
清らかに。
けれど、手紙の文字は少し震えていた。
「そう」
エレオノーラ様は静かに言った。
「なら、私も同席します」
「よろしいのですか」
「ええ。逃げませんわ」
その横顔は硬かった。
傷つけられた人が、傷つけたかもしれない人に会う。
簡単なことではない。
美談になどできない。
だからこそ、慎重に扱わなければならない。
私は手紙を封筒に戻した。
その瞬間、扉の外に人影が見えた。
誰かが通り過ぎただけ。
足音は静か。
衣擦れもほとんどしない。
けれど、廊下の先で一瞬だけ、黒に近い灰色の外套が揺れた。
私は顔を上げた。
もう誰もいない。
「どうしましたの?」
「……いえ」
気のせいかもしれない。
けれど、空気の温度が少し下がった気がした。
ベルク・アインハルトの笑顔を思い出す。
実に有効な対応です。
あの人は、火元に近いところへ必ず現れる。
褒めるためではない。
驚くためでもない。
整った盤面を、確かめるために。
「リディア?」
「すみません。何でもありません」
私は手紙を握り直した。
美談は整いすぎている。
聖女候補の笑顔には空白がある。
三つの奇跡は、感情の導線になっている。
そして、ミリア様本人から面会希望が届いた。
火はまだ、小さく見える。
でも、火元はきっと近い。
「面会の場所を調整します」
私は言った。
「神殿ではなく、王宮記録局の小応接室を使いましょう。録音水晶は置きます。ただし、公開はしない。ミリア様が話せない可能性もありますから」
「あなた、もう守る準備をしていますのね」
エレオノーラ様が言った。
「誰を?」
私は少し迷ってから答えた。
「まだ、わかりません」
エレオノーラ様は私を見つめたあと、小さく笑った。
「正直でよろしい」
先輩職員が水晶板を見て、弱々しく手を挙げた。
「あの、掲示板で新しい話題が」
「今度は何ですか」
「“ミリア様の祈りの布、完売”だそうです」
「商品化が早い」
「“清らか香油”も予約開始です」
私は額を押さえた。
「効能表記は?」
「“一滴で心清らかに”」
「法的に危ないです」
エレオノーラ様が配布紙を閉じる。
「奇跡の詰め合わせ販売ですわね」
「包装紙は上等です」
私は深く息を吐いた。
笑いながらも、胸の奥は重い。
人の涙。
人の善意。
人の祈り。
それらが商品になり、見出しになり、誰かを黙らせる道具になる。
それを、清らかと呼んでいいのだろうか。
私はミリア様の手紙を、もう一度見た。
『一度だけ、お話をさせていただけないでしょうか』
その一文だけが、紙面のどんな美談よりも人間らしく見えた。
次に見るべき火元は、神殿だ。
そして、ミリア・セレス本人の言葉だった。




