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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
婚約破棄会見、炎上します

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11/25

悪女という見出しを訂正します

 王宮声明が出た翌朝、王都はよく晴れていた。


 青い空。

 白い雲。

 洗濯日和。

 市場には焼きたてのパンの匂いが漂い、噴水広場では子どもたちが鳩を追いかけている。


 そして王都瓦版の一面には、でかでかとこう踊っていた。


『悪役令嬢、聖女候補を威圧』

『涙のミリア様、王宮声明に傷つく』

『婚約破棄騒動、真の被害者は誰か』


 リディア・ノートンは、その見出しを見た瞬間、胃のあたりを押さえた。


「……朝から濃い油を飲まされた気分です」


 王宮広報局、危機声明管理室。

 通称、火消し部屋。


 机の上には、王都中から集められた瓦版が積まれている。

 右を見ても炎上。

 左を見ても炎上。

 中央には、広報局員たちの胃薬。


 もはや胃薬は備品ではなく、信仰対象に近かった。


 先輩職員のマルセルが、瓦版を一枚つまみ上げる。


「リディア、これはどう見る?」


「見出しだけで言えば、火薬庫に油を撒いてから花火を打ち上げています」


「本文は?」


「本文まで読むと、油の種類が高級です。悪質ですね」


「高級な油かあ」


「褒めてません」


 リディアは瓦版を広げ、問題の記事に目を走らせた。


 内容は、完全な嘘ではなかった。


 昨夜の舞踏会で、ミリア・セレスが涙を浮かべた。

 それは事実だ。


 エレオノーラ・グランフェルトがその場で泣かなかった。

 それも事実だ。


 王宮声明によって、聖女候補ミリアへの過度な取材自粛が求められた。

 これも事実。


 だが記事は、それらの事実をこう並べていた。


 ミリアは涙した。

 エレオノーラは冷然としていた。

 王宮はミリアへの取材を制限した。

 つまり、王宮と公爵家がミリアを黙らせようとしているのではないか。


 リディアの視界に、淡い赤い文字が浮かぶ。


【火種:印象操作】

【火種:被害者競争】

【火種:悪女ラベリング】

【火種:神殿対王宮】

【火種:公爵家再炎上】

【火種:聖女候補の商品化】


 リディアは無言でこめかみを押さえた。


「朝から豪華盛り合わせですね」


「何の?」


「燃料の」


 マルセルがそっと胃薬の瓶を差し出した。

 リディアは受け取ったが、飲む前にもう一度記事を読んだ。


 読むほどに、嫌な精度だった。


 あからさまな嘘なら訂正しやすい。

 だがこれは違う。


 嘘ではない。

 しかし、読者が自然に誤解するように組まれている。


 涙。

 沈黙。

 冷たい態度。

 守られる聖女。

 圧力をかける悪役令嬢。


 事実の小石を並べて、悪意ある道を作っている。


「この見出しは、事実より性格が悪いです」


 リディアがぼそりと言うと、近くにいた同僚が深く頷いた。


「わかる。文章に人格があったら距離を置きたい」


「距離を置くだけで済みますか?」


「できれば関税もかけたい」


「悪質見出し税ですね。導入しましょう」


「財務局に怒られる」


「財務局も燃えたらうちが処理します」


「最悪の循環だな」


 軽口を叩きながらも、部屋の空気は重い。


 王宮声明によって、ひとまず王太子ルーファスの婚約破棄手続きは停止された。

 エレオノーラへの公式謝罪も出された。

 証拠確認も始まった。


 それでも火は消えなかった。


 ただ、燃える場所が変わっただけだ。


 王太子の失言から、今度はエレオノーラの人格へ。

 そして、ミリアの涙へ。


 リディアは、机の上に紙を広げた。


「訂正依頼を出します」


 マルセルが眉を上げる。


「どこに?」


「王都瓦版社です。この記事を書いたところに」


「相手、素直に訂正すると思うか?」


「思いません」


「だよなあ」


「でも、訂正依頼を出した記録は残ります。拒否された記録も残ります」


 リディアはペンを取った。


「炎上したら、まず火元を見ろ」


 前世で、何度も自分に言い聞かせてきた言葉だ。


 燃えている人を殴るな。

 煙に惑わされるな。

 どこで火がついたのかを見る。


 今回の火元は、見出しだ。


 いや。


 見出しを書いた手だ。


 リディアは訂正依頼の文面を書き始めた。


『貴紙本日発行号一面記事「悪役令嬢、聖女候補を威圧」につきまして、以下の点について事実確認および訂正を求めます』


 そこまで書いたところで、隣からマルセルがのぞき込んだ。


「堅い」


「訂正依頼ですから」


「読んでるだけで眠くなる」


「相手を寝かせるための文書ではありません」


「でもこれ、新聞社の社長は三行で投げるぞ」


 リディアは少し考え、見出し用の別紙を作った。


『その見出し、事実ですか?』


 マルセルが親指を立てた。


「急に強い」


「新聞社には新聞社の言葉で殴ります」


「物理じゃなければいいのか?」


「物理は禁止です。言葉の正当防衛です」


 リディアは訂正依頼を書き上げ、問題点を箇条書きにした。


 一、エレオノーラがミリアを威圧した事実は確認されていない。

 二、舞踏会でのミリアの涙は確認されているが、理由は本人確認中である。

 三、王宮声明の取材自粛要請は、ミリア本人への過剰接触を避けるためであり、発言封じではない。

 四、エレオノーラを「悪役令嬢」と呼称する根拠はない。

 五、当事者の名誉を害する見出しである。


 書きながら、リディアの胸の奥に怒りが積もっていく。


 悪役令嬢。


 便利な言葉だ。


 そう呼べば、相手の痛みを見なくて済む。

 そう呼べば、相手が泣かなかった理由を考えなくて済む。

 そう呼べば、どんな仕打ちも物語の展開に見える。


 けれど、エレオノーラは物語の記号ではない。


 婚約者として、王太子を支え続けた人だ。

 公の場で名誉を傷つけられた人だ。

 それでも泣かなかった人だ。


 泣かなかったから、傷ついていないわけではない。


 リディアはペンを握る手に力を込めた。


 前世でも、似たようなことがあった。


 事故の被害者が記者会見で泣かなかった。

 すると、匿名の声が言った。


『本当に悲しいなら泣くはずだ』

『態度が冷たい』

『金目当てでは?』


 泣いても責められる。

 泣かなくても責められる。


 人は、被害者にさえ演技を求める。


 その時、リディアは会社側の広報として、被害者の言葉を薄める文書を書かされた。

 角が立たないように。

 企業責任が重く見えないように。

 被害者の怒りが、ただの感情に見えるように。


 あの時の自分の手は、誰かの痛みを覆う布だった。


 もう、同じことはしたくない。


「リディア」


 マルセルの声で、リディアは我に返った。


「顔が怖いぞ」


「すみません」


「いや、謝る顔じゃない。今のは、王族の謝罪文を見た時と同じ顔だ」


「それは相当ですね」


「相当だ」


 その時、扉が軽く叩かれた。


 入ってきたのは、エレオノーラ・グランフェルトだった。


 淡い菫色のドレス。

 乱れのない髪。

 背筋はまっすぐで、足取りに迷いはない。


 昨日、公の場で婚約破棄を突きつけられ、断罪されかけた女性とは思えないほど、彼女は美しかった。


 ただ、その手だけが、扇の陰でわずかに震えていた。


「お邪魔しても?」


「エレオノーラ様」


 リディアは立ち上がった。


「こちらから伺うべきでした。記事はご覧に?」


「ええ。王都瓦版の朝刊なら、親切なことに三部届きましたわ。玄関に一部、応接室に一部、父の机に一部」


「嫌がらせの配達精度が高いですね」


「ええ。うちの執事が『新聞ではなく宣戦布告でございますね』と申しておりました」


 エレオノーラは微笑んだ。


 その笑みは優雅で、完璧だった。


 けれどリディアには、その笑顔の裏で、何かが必死に踏みとどまっているのが見えた。


「訂正依頼を出します」


 リディアが言うと、エレオノーラは瓦版に視線を落とした。


「悪女と呼ばれ慣れておりますわ」


 さらりとした声だった。


 だが、その手はまだ震えていた。


 リディアは思わず言った。


「慣れていい言葉ではありません」


 エレオノーラが顔を上げる。


「……リディア?」


「何度呼ばれても、傷つかなくなるわけではありません。周りが勝手に『あの人は強いから平気』と決めていいものでもありません」


 部屋が静かになった。


 リディアは、言いすぎたかもしれないと思った。

 下級職員が公爵令嬢に向かって、踏み込みすぎだ。


 しかし、エレオノーラは怒らなかった。


 ただ、少しだけ目を伏せた。


「あなたは、本当に不思議な方ね」


「すみません」


「謝らないで。今のは、少し嬉しかったのです」


 エレオノーラはゆっくりと椅子に腰を下ろした。


「私は、泣かないように育てられました。怒らないように。取り乱さないように。王太子殿下の隣に立つ者として、常に美しく、常に正しく、常に揺らがないように」


 扇が閉じられる。


「けれど、揺らがない人間などおりませんわ」


 リディアは言葉を返せなかった。


 エレオノーラは瓦版を手に取る。


「この記事を書いた方は、私が泣かなかったことを冷淡と書きました。ならば、泣けばよかったのでしょうか。舞踏会の中央で崩れ落ち、皆さまの同情を買えば、私は被害者になれたのでしょうか」


「……そんなことはありません」


「ええ。泣けば泣いたで、きっとこう書かれますわ。公爵令嬢、涙で王太子を脅す、と」


 リディアの視界に、赤い文字が浮かぶ。


【火種:被害者像の強要】

【火種:女性感情の消費】

【火種:悪女ラベリング固定化】


 胃が痛い。


 だが、目を逸らすわけにはいかない。


「訂正だけでは足りませんね」


 リディアは言った。


「この記事は、事実の誤りだけではなく、見方そのものを誘導しています。訂正依頼と同時に、王宮側からも補足説明を出します」


 マルセルが呻いた。


「また声明?」


「短いものです」


「その言葉を信じて何度胃をやられたか」


「今回は本当に短くします」


「前回も言った」


「前回は王太子殿下が燃料を足したので」


「あれは薪だった。いや、丸太だった」


 エレオノーラが小さく笑った。


 ほんの少し、場の空気がやわらぐ。


 リディアは別紙に見出し案を書いた。


『未確認情報で当事者を断罪しないでください』


 マルセルがうなずく。


「リディア節だな」


「節とは」


「胃にくるが効く」


「薬みたいに言わないでください」


 エレオノーラが紙をのぞき込む。


「悪くありませんわ。ただ、王宮声明としては少々説教臭いかもしれません」


「説教臭い……」


「正しいのですけれど、正しさだけでは読まれません。特に、悪女という見出しを楽しみたい人々には」


 その言葉に、リディアははっとした。


 そうだ。

 正しければ届くわけではない。


 記事の見出しは、人の感情をつかみに来ている。

 こちらが法務文書のような言葉だけを出しても、読まれない。


「では、どうすれば?」


 エレオノーラは微笑む。


「相手が物語を作るなら、こちらは事実を読みたくなる形に整えましょう」


「物語……」


 リディアはその言葉に、昨夜のベルクを思い出した。


『実に有効な対応です』


 丁寧で、美しい声。

 だが、どこか冷たかった。


 彼は王宮声明を「有効」と言った。

 正しいとも、優しいとも言わなかった。


 リディアは小さく息を吸う。


「事実を、読みたくなる形に」


「ええ。ただし、嘘は混ぜない。誇張もしない。私を可哀想な被害者として飾り立てる必要もありません」


 エレオノーラは、まっすぐリディアを見た。


「私は泣かなかった。それは事実です。けれど、泣かなかった理由を、他人に勝手に決めさせたくありません」


 その言葉は静かだった。


 静かだからこそ、強かった。


 リディアはうなずく。


「では、こうしましょう。訂正依頼では記事の問題点を正式に指摘します。王宮補足では、当事者の感情を外部が断定しないこと、涙の有無で被害の有無を判断しないことを明記します」


「よろしいかと」


「ただ、エレオノーラ様ご本人の言葉を使うかどうかは、慎重に判断させてください。今出すと、再び切り抜かれる可能性があります」


「わかっています」


 エレオノーラは扇を開いた。


「言葉は刃物ですものね」


「はい」


「なら、持つ手を選ばなくては」


 リディアは、その言葉を胸に刻んだ。


 その時、広報局の若い職員が慌てて入ってきた。


「リディアさん! 王都瓦版社から返答が来ました!」


「早いですね」


「はい。内容は……その……」


 職員は紙を差し出した。


 リディアは受け取り、目を通す。


『貴局からの申し入れについて、当社は報道機関としての表現の自由を尊重し、記事見出しの変更には応じかねます。なお、当該記事は複数証言に基づくものであり、公益性があるものと判断しております』


 リディアの眉がぴくりと動いた。


 マルセルが横から読む。


「表現の自由、来たか」


「便利な盾ですね」


「王宮の盾より使いやすそうだ」


 リディアの視界に火種が浮かぶ。


【火種:表現の自由の濫用】

【火種:情報源秘匿を利用した印象操作】

【火種:訂正拒否】

【火種:報道対王宮】


「公益性、ですか」


 リディアは静かに言った。


「人の名誉を燃やしておいて、公益性」


 前世でも何度も聞いた言葉だった。


 知る権利。

 表現の自由。

 公益性。


 もちろん大切だ。

 権力が報道を黙らせることは危険だ。


 だが、それらの言葉が、弱い立場の人を殴るための盾になることもある。


 真実なら何を言ってもいいのか。

 完全な嘘でなければ、どんな見出しをつけても許されるのか。


 リディアは返答文を机に置いた。


「再依頼を出します」


 マルセルが目を丸くする。


「また?」


「はい。今度は、訂正ではなく根拠開示の要請です」


「攻めるなあ」


「攻めません。確認します」


「それ、リディアが言う時だいたい攻撃なんだよな」


「確認です」


 リディアは新しい紙を引き寄せた。


『貴社が称する複数証言について、証言内容、証言者の立場、確認手順の開示を求めます。個人名の秘匿は尊重しますが、未確認情報に基づき当事者の人格を断定する見出しを掲げた場合、名誉毀損および王宮公式記録との齟齬が生じます』


 ペン先が走る。


『表現の自由は、事実確認を省略する自由ではありません』


 マルセルが小さく口笛を吹いた。


「今日のリディア、切れ味がいいな」


「見出しに怒っています」


「人じゃなくて?」


「人もですが、まず見出しです」


 エレオノーラが柔らかく笑った。


「火元を見る、でしたわね」


「はい。燃えている人ではなく、火をつけた場所を」


 その言葉を口にした時、リディアは少しだけ自分の中の震えが収まるのを感じた。


 火を見るのは怖い。

 けれど、火元がわかれば、動ける。


 リディアは訂正依頼と根拠開示要請を封筒に入れ、王宮印を押した。


 その瞬間、扉の外が少し騒がしくなった。


 次に入ってきたのは、カイル・ヴァレンシュタインだった。


 北方辺境伯。

 黒い外套。

 無表情。

 王宮の廊下が似合わない男、第一位。


 彼は部屋に入るなり、机の上の瓦版を見た。


「読んだ」


 リディアは一瞬驚いた。


「辺境伯様が、王都瓦版を?」


「読めと言われた」


「どなたに?」


「お前に」


「私、言いましたか?」


「取材対応の前に、何が書かれているか読めと」


「ああ……言いました」


 言った。

 確かに言った。


 まさか本当に読んでくれるとは思っていなかった。


 カイルは問題の見出しを指で押さえた。


「不快だ」


「でしょうね」


「撤回させろ」


「その方向で動いています」


「俺が行く」


「駄目です」


 即答した。


 カイルの眉がわずかに動く。


「なぜ」


「辺境伯様が新聞社に直接行くと、『辺境伯、報道機関を威圧』という見出しになります」


「事実ではない」


「相手はそう書きます」


「では短く言う」


「短くても威圧になります」


「撤回しろ、と」


「それが駄目です」


 カイルは黙った。


 沈黙が重い。

 部屋の空気が三度ほど下がった気がした。


 マルセルが小声で言う。


「暖炉いらずならぬ、冷房いらずだな」


「聞こえている」


「すみません」


 リディアは小さく咳払いした。


「辺境伯様の怒りは理解します。ですが、今ここで必要なのは相手に次の燃料を渡さないことです」


「燃料」


「はい。新聞社は、おそらくこちらが強く出るのを待っています。公爵家や辺境伯が圧力をかけた、と書けば、自分たちの記事を正当化できます」


 カイルはしばらく黙ったあと、低く言った。


「厄介だな」


「はい。言葉の火事は、消そうとした水まで燃料扱いされることがあります」


「水が燃えるのか」


「比喩です」


「王都の比喩は面倒だ」


「私もそう思います」


 エレオノーラが扇で口元を隠した。


「ですが、リディアの言う通りですわ。今は力で黙らせる局面ではありません」


 カイルはエレオノーラを見た。


「お前は平気なのか」


「平気に見えます?」


「見える」


「では、まだ私の演技も捨てたものではありませんわね」


 その言葉に、カイルは沈黙した。


 彼は無口だが、鈍くはない。

 エレオノーラの手が震えていることに気づいたのだろう。


 カイルは瓦版を握りしめた。


「……悪い」


 短い謝罪だった。


 だが、嘘はなかった。


 エレオノーラは少し目を見開き、それから静かに微笑んだ。


「謝罪文としては短すぎますけれど、今は受け取っておきます」


 リディアは思わず心の中で採点した。


 謝罪対象、明確。

 言い訳、なし。

 責任転嫁、なし。

 感情の押しつけ、なし。


 短い。

 だが、燃えない。


 王太子殿下に教材として提出したい。


「どうした」


 カイルがリディアを見る。


「いえ。今の謝罪文、殿下より優秀だなと」


「謝罪文ではない」


「謝罪でした」


「……そうか」


 カイルは少しだけ気まずそうに目を逸らした。


 そのわずかな変化に、リディアは妙に胸が温かくなるのを感じた。


 だが、すぐに仕事へ意識を戻す。


「この記事の証言元を確認する必要があります」


 リディアは瓦版を指で叩いた。


「『複数証言』とありますが、誰が、何を、どの場面で見たのかが曖昧です。舞踏会の記録水晶と照合すれば、少なくとも会場での直接的な威圧行為は否定できます」


「記録は残っているのか」


「はい。第4話……ではなく、昨夜、正式記録として保存を指示しました」


 危ない。

 自分の人生を話数で数えるところだった。


 疲れている。


 カイルがじっと見てくる。


「休め」


「今ですか?」


「顔色が悪い」


「通常運転です」


「それが悪い」


 リディアは言葉に詰まった。


 エレオノーラがにっこり笑う。


「辺境伯様、今のは少し良い台詞でしたわ」


「そうか」


「ただし、命令口調です」


「……休め。頼む」


 部屋の職員たちが一斉にこちらを見た。


 リディアは反射的に書類で顔を隠したくなった。


「な、なぜ言い直すんですか」


「命令口調だと言われた」


「素直ですね」


「悪いか」


「いえ……悪くは、ありません」


 妙な沈黙が落ちた。


 マルセルがそっと胃薬瓶を持ち上げる。


「恋愛方面の火種は、うちの管轄外でいいか?」


「先輩」


「すまん」


 エレオノーラは楽しそうだったが、すぐに表情を引き締めた。


「リディア。記事の件ですが、一つ気になることがあります」


「何でしょう」


「この文章、記者が書いたものではないかもしれません」


 リディアの手が止まった。


「どういう意味ですか?」


 エレオノーラは瓦版を広げ、本文の一部を指で示した。


「ここです。『かかる状況において、聖女候補の尊厳が損なわれたとの見方も否定し得ない』」


「……妙に硬いですね」


「硬いだけではありません。この句読点の打ち方、貴族院の報告書に似ています」


 リディアは記事をのぞき込んだ。


 確かに、違和感がある。


 王都瓦版の記事は、本来もっと勢いがある。

 良くも悪くも、読者の感情を引っ張る文体だ。


 だが、この部分だけが妙に整っていた。


 整いすぎている。


 主語をぼかし、断定を避け、けれど読者の印象だけを一定方向へ誘導する。


 リディアの背筋に、冷たいものが走った。


 視界に、赤い文字が浮かぶ。


【火種:官僚文体】

【火種:責任主体の曖昧化】

【火種:外部原稿混入】

【火種:情報操作の初期兆候】


 リディアは、ゆっくりと息を吐いた。


「この記事、新聞社だけで作ったものではない可能性がありますね」


「ええ」


 エレオノーラの目が鋭くなる。


「誰かが、新聞社に文章を渡した」


 カイルが低く言う。


「王宮内か」


「まだ断定はできません」


 リディアは即座に答えた。


「ですが、可能性はあります」


 その時、廊下から足音が近づいた。


 今度は慌ただしいものではない。


 一定の速度。

 迷いのない歩幅。

 近づいてくるだけで、周囲の空気が整えられていくような足音。


 扉が叩かれた。


「失礼いたします」


 入ってきたのは、宰相府の使者だった。

 深く礼をし、封書を差し出す。


「リディア・ノートン殿。ベルク・アインハルト宰相補佐より、面会のご依頼です」


 部屋の空気がわずかに変わった。


 マルセルが小声で呟く。


「王宮の揉め事を静かに片づける男、か」


 リディアは封書を受け取った。


 封蝋は美しい。

 文面も、おそらく美しいだろう。


 だが、指先に触れた紙が、妙に冷たかった。


 封を開ける。


『先般の王宮声明ならびに本日の報道対応につき、貴殿の見解を伺いたく存じます。混乱を避け、より有効な対応を検討するため、短時間の面談を願えれば幸甚です』


 丁寧。

 非の打ち所がない。

 責めていない。

 命じてもいない。

 ただ、こちらが断りにくい形で差し出されている。


 リディアは、最後の一文に目を止めた。


『より有効な対応』


 有効。


 昨夜、ベルクが使った言葉だ。


 人を救う。

 名誉を守る。

 傷ついた相手に向き合う。


 そういう言葉ではなく。


 有効。


 リディアの胃が、静かに痛んだ。


「どうする」


 カイルが問う。


 リディアは封書を閉じた。


「会います」


「一人でか」


「王宮内です。危険はないかと」


「言葉の危険はある」


 その一言に、リディアは少し驚いた。


 言葉を信用しないはずのカイルが、言葉の危険を見ている。


 リディアは小さくうなずいた。


「では、記録係をつけます。面会内容は必ず文書化します」


 エレオノーラが立ち上がった。


「私も同席しましょうか?」


「いえ。今エレオノーラ様が動くと、また『公爵家の圧力』と書かれます」


「便利ですわね、その言葉」


「便利すぎて燃えます」


 リディアは封書を胸元に抱えた。


 新聞記事。

 悪女という見出し。

 泣かない被害者。

 表現の自由。

 そして、妙に整った文章。


 火元は、少しずつ奥へ伸びている。


 王太子の失言だけではない。

 神殿の抗議だけでもない。

 新聞社の悪意だけでもない。


 誰かが、火の通り道を作っている。


 リディアは顔を上げた。


「火元を見ます」


 自分に言い聞かせるように言う。


「燃えている人ではなく、火をつけた場所を」


 エレオノーラが静かに頷いた。


「火消しはあなたに任せます」


 カイルは短く言った。


「気をつけろ」


「はい」


 リディアは封書を持ち、危機声明管理室を出た。


 廊下の壁には、相変わらずあの標語が掲げられている。


『王宮は、常に民の声を聞いております』


 リディアはその前を通り過ぎながら、心の中で呟いた。


 聞いているなら。

 誰の声を、誰のために使っているのですか。


 そして彼女は、ベルク・アインハルトの待つ部屋へ向かった。


 王都瓦版の見出しは、まだ街角で売られている。


『悪役令嬢、聖女候補を威圧』


 その文字は、朝日に照らされて黒々と光っていた。


 まるで、誰かが丁寧に磨いた刃物のように。

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