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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
婚約破棄会見、炎上します

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10/15

王宮声明、出します

 宰相府補佐室は、王宮の奥にあった。


 王族の私室ほど華やかではない。

 騎士団の詰所ほど荒々しくもない。

 けれど、磨き上げられた床と、左右対称に並んだ燭台と、一分の歪みもない扉の前に立った時、リディア・ノートンは思った。


 ここは、燃えない場所だ。


 少なくとも、表向きは。


 火消し部屋とは違う。

 あちらは書類が積まれ、胃薬が並び、水晶掲示板の速報が常に誰かの悲鳴を誘っている。


 ここには、悲鳴がない。

 焦げた匂いもない。

 胃薬の匂いすらしない。


 だからこそ、怖かった。


「リディア・ノートン様」


 扉の前に控えていた文官が、静かに礼をした。


「ベルク宰相補佐がお待ちです」


「……はい」


 リディアは返事をした。


 背後には、少し離れてカイル・ヴァレンシュタインが立っている。

 王宮の廊下にいるだけで、なぜか廊下のほうが北方の要塞に見えてくる男だった。


 さらにその向こう、偶然を装うにはあまりにも堂々とした足取りで、エレオノーラ・グランフェルトが廊下の絵画を眺めている。


「まあ、こちらの絵画、筆致が少し硬いですわね」


 彼女は優雅に言った。


 ただし、視線は絵画ではなく、扉の取っ手を見ていた。


 リディアは小声で言う。


「エレオノーラ様、偶然にしては圧が強いです」


「偶然とは、強い意志で作るものですわ」


「それはもう作戦です」


「ええ。偶然という名の作戦です」


 カイルが短く言った。


「危険なら呼べ」


「宰相府で大声を出すのは、かなり危険な気がします」


「なら扉を壊す」


「呼びません」


「なぜ」


「危険の種類が増えるからです」


 カイルは不服そうに黙った。


 リディアは少しだけ息を吐いた。


 怖い。

 でも、ひとりではない。


 それだけで、足が前へ出た。


 扉が開く。


 中は、驚くほど整っていた。


 机の上の書類は高さまで揃えられている。

 インク壺は光を受けて静かに黒く輝き、羽根ペンは使われた形跡があるのに汚れていない。

 窓辺の花瓶には白い花が一輪だけ挿されている。


 無駄がない。

 過不足がない。

 人間味も、ない。


 その部屋の中央で、ひとりの男が立ち上がった。


「リディア・ノートン嬢」


 柔らかな声だった。


 薄い金髪。

 淡い灰色の目。

 整った顔立ち。

 年齢は三十前後に見える。


 礼儀正しく、穏やかで、誰にでも好感を持たれそうな微笑み。


 けれどリディアの胃は、まったく安心しなかった。


「お越しいただき、ありがとうございます。ベルク・アインハルトです」


「王宮広報局、危機声明管理室所属、リディア・ノートンです」


「存じております」


 ベルクは微笑んだ。


「昨夜のご対応、実に見事でした」


 褒め言葉だった。


 だがリディアの背中に、冷たいものが落ちる。


 見事。

 対応。


 その言い方には、誰かが傷ついたという温度がない。


「ありがとうございます」


 リディアは慎重に返した。


「ただし、まだ対応中です」


「ええ。ですから、お呼びしました」


 ベルクは机の上の書類を一枚取った。


「現在、王宮は複数の方面から圧力を受けています。グランフェルト公爵家、神殿、北方辺境伯家、新聞各社、そして水晶掲示板上の民衆感情。極めて複雑です」


「はい」


「複雑なものは、整理しなければなりません」


 ベルクはそう言って、紙をリディアへ差し出した。


 そこには、声明案が書かれていた。


 リディアは受け取る。


 美しい文章だった。


 語調は落ち着いている。

 責任の所在を曖昧にしながら、王宮の威厳は保っている。

 王太子の発言には触れすぎず、公爵家への配慮を示し、神殿にも角が立たない。


 燃えにくい。


 おそらく普通の広報官なら、そう評価する。


 けれど、リディアの視界に文字が浮かんだ。


【火種:被害者不在】

【火種:王太子発言の矮小化】

【火種:公爵家への実質謝罪なし】

【火種:神殿印章問題の先送り】

【火種:ミリアへの過度な同情誘導】

【火種:王宮責任回避】

【火種:再炎上】


 リディアはゆっくり息を吸った。


「この声明は出せません」


 ベルクの微笑みは崩れなかった。


「理由を伺っても?」


「燃えます」


「興味深い表現ですね」


「比喩ではありません」


 リディアは紙面を指で押さえた。


「この文面では、王宮は『関係者の間に誤解があった』という形にしています。でも、誤解ではありません。王太子殿下は公の場で、エレオノーラ様を侮辱し、婚約破棄を宣言しようとしました」


「断定は危険です」


「記録があります」


「記録は解釈されます」


「だから全文公開が必要です」


 ベルクは、ほんの少しだけ目を細めた。


「全文公開は混乱を招きます」


「切り抜きは炎上を招きます」


「民衆は長い文章を読みません」


「では、要点整理版を併記します」


「王太子殿下の威信が損なわれます」


「すでに損なわれています」


 部屋の空気が、わずかに硬くなった。


 リディアの心臓が速く鳴る。


 言いすぎたか。

 いや、言わなければいけない。


 王太子の威信を守るために、エレオノーラの名誉をもう一度燃やすわけにはいかない。


 ベルクは静かに言った。


「あなたは、火を消したいのではないのですか」


「消したいです」


「ならば、燃料を減らすべきです」


「違います」


 リディアは声明案を机に置いた。


「燃料を隠すのではなく、火元を見ます」


 前世で、何度も教え込まれたこと。

 でも前世では、最後までできなかったこと。


 炎上したら、まず火元を見ろ。


 燃えている人ではなく。

 火をつけた場所を。


「火元は、王太子殿下の発言です。そこを曖昧にしたら、王宮が公爵家と民衆に嘘をついたように見えます」


 ベルクは穏やかに言った。


「嘘ではありません。秩序ある表現です」


 リディアの胃が、きゅっと縮んだ。


 嘘ではありません。


 この人は、今、そう言った。


 リディアはその言葉を覚えた。


「表現で責任を薄めることはできます。でも、薄めた責任は消えません。別の場所に流れます」


「別の場所?」


「公爵家です。エレオノーラ様です。ミリア様です。広報局です。民衆です」


 リディアは言葉を区切った。


「誰かが燃えます」


 ベルクは黙った。


 沈黙が落ちる。


 けれど、その沈黙はカイルのものとは違った。

 カイルの沈黙は、不器用で、重く、正直だ。

 ベルクの沈黙は、計算された余白だった。


「では」


 ベルクは言った。


「あなたなら、どう書きますか」


 リディアは手を握りしめた。


 ここで試されている。


 ただ否定するだけなら、誰でもできる。

 代案を出せなければ、現場の感情論で終わる。


 前世でもよく言われた。


『批判するなら代案を出せ』

『現実的な落としどころを考えろ』

『会社を守る文面にしろ』


 でも、今は違う。


 守るべきは会社ではない。

 王宮の面子だけでもない。


 燃やされた人と、これから燃やされる人だ。


「書きます」


 リディアは言った。


「正式な王宮声明を」


     ◇


 火消し部屋に戻った時、室内は戦場だった。


 ただし、武器は剣ではなく紙。

 血ではなくインク。

 悲鳴ではなく「その表現はまずい!」という叫びだった。


「リディアさん、神殿から追加抗議です!」


「水晶掲示板、王宮批判が増えています!」


「公爵家側から、謝罪文の宛名について確認が来ています!」


「王太子殿下が『私も声明に一筆書く』とおっしゃっています!」


 リディアは最後の報告に反応した。


「止めてください」


「即答ですね」


「今、殿下の自筆が入ると燃料になります」


「燃料扱い」


 マルクが胃薬の瓶を振りながら言った。


「王太子殿下の文章は、油分が多いですからね」


「油分で済めばいいんですけど」


 リディアは椅子に座り、紙を広げた。


 王宮声明。


 たった一枚の紙。

 けれど、それが出るか出ないかで、人の人生が変わる。


 リディアはペンを取った。


「構成を分けます」


 周囲の職員たちが一斉にこちらを見る。


「第一に、王太子殿下の発言が不適切だったことを認めます。第二に、婚約破棄手続きは停止。第三に、証拠書類の確認開始。第四に、エレオノーラ様への正式謝罪。第五に、ミリア様への過度な取材自粛。第六に、全文記録の保全と要点公開」


 マルクが目を丸くする。


「盛りだくさんですね」


「火種が盛りだくさんなので」


「火種定食」


「食べたくありません」


 リディアは紙に一行目を書いた。


『王宮は、昨夜の舞踏会における王太子ルーファス殿下の発言について、不適切な点があったことを認めます。』


 その文字を見た瞬間、火種が薄く浮かぶ。


【火種:王太子側近反発】

【火種:王家威信低下】


 想定内。


 火種がゼロの声明などない。

 大事なのは、どこを燃やさず、どこに責任を置くかだ。


「リディアさん」


 若い職員が不安そうに言った。


「王太子殿下の不適切性を認めると、王家批判が増えませんか」


「増えます」


「増えるんですか」


「はい」


 リディアは顔を上げた。


「でも、認めなければもっと増えます。しかもその場合、王宮は『悪いことをしても認めない場所』になります」


 職員は黙った。


 リディアは続ける。


「謝罪は、怒られたからするものではありません。傷つけた相手に、何をしたか認めるためにするものです」


 火消し部屋が静かになる。


 誰かが小さく「それ、謝罪文研修で言ってほしい」と呟いた。


「研修するなら王太子殿下からですね」


「一番難しい受講者です」


「補習も必要です」


「補習で済みますかね」


 少しだけ笑いが起きる。


 その笑いに救われながら、リディアは次の文を書く。


『グランフェルト公爵令嬢エレオノーラ様に対し、十分な事実確認および正式な手続きを経ることなく、公衆の面前で名誉を傷つける発言がなされたことを、王宮として重く受け止めます。』


【火種:公爵家対応不足なら再燃】

【火種:悪役令嬢呼称との衝突】


 まだ足りない。


 リディアはさらに書いた。


『婚約に関する今後の判断は、関係当事者双方の発言機会、契約記録、証拠書類の確認を経たうえで、正式な手続きにより行われます。昨夜の宣言をもって婚約破棄が成立したものとは扱いません。』


 マルクが唸った。


「踏み込みましたね」


「踏み込まないと、エレオノーラ様の人生が宙に浮きます」


「王太子殿下は怒ります」


「怒っても婚約手続きは燃やしていい薪ではありません」


「薪扱い」


 次に、ミリアの項目。


 ここが難しい。


 ミリアは、王太子の隣で涙を流した。

 結果としてエレオノーラを追い詰める構図に加担している。

 けれど、現時点で彼女の意思や神殿の関与は不明だ。


 ここでミリアを断罪すれば、神殿が燃える。

 ミリアを一方的な被害者にすれば、エレオノーラが燃える。

 どちらも違う。


 リディアはペン先を止めた。


「ミリア様については、取材自粛を入れます」


 マルクが首を傾げる。


「聖女候補を守る形ですか?」


「守ります。でも、神殿の主張を全面的に認めるわけではありません」


 リディアは書いた。


『聖女候補ミリア・セレス様に対する過度な取材、憶測に基づく中傷、または一方的な美談化は控えてください。現在、王宮は関係者全員の発言記録と証拠書類を確認しております。未確認情報に基づき、いずれか一方を加害者または被害者と断定することは避けてください。』


 若い職員が目を瞬かせた。


「美談化も控えてください、ですか」


「はい」


「珍しいですね。普通は中傷だけ止めませんか」


「美談も人を縛ります」


 リディアは小さく言った。


「泣いた人を聖女にして、泣かなかった人を悪女にするのは、どちらも危険です」


 火消し部屋の空気が、少しだけ変わった。


 誰も笑わなかった。

 笑うところではないと、皆がわかっていた。


 リディアは最後の項目を書く。


『王宮は昨夜の発言記録を保全し、確認作業を経たうえで、必要な範囲を公開します。また、報道各社に対し、切り抜きや未確認の見出しによって関係者の名誉を傷つけることのないよう要請します。』


 書き終えた瞬間、リディアは息を吐いた。


 声明は完成していない。

 まだ推敲が必要だ。

 でも、骨はできた。


 その時、扉が乱暴に開いた。


「これは何だ!」


 王太子ルーファスだった。


 顔色は悪く、目には怒りがあった。

 だが、その怒りの奥には焦りも見えた。


 彼の後ろに、側近たちが青い顔で続いている。


 誰か、止めなかったのか。

 いや、止められなかったのだろう。


 王太子はリディアの机に近づき、声明案を指差した。


「私の発言が不適切だったと認めるだと? 王宮がそんな声明を出せば、私の立場はどうなる!」


 リディアの視界に文字が浮かぶ。


【火種:自己保身】

【火種:再失言】

【火種:謝罪拒否】

【火種:公爵家再激怒】

【火種:王家信用低下】


 今日もよく燃える。


 リディアは立ち上がった。


「殿下」


「何だ!」


「その発言は燃えます」


 火消し部屋の職員たちが、同時に目を伏せた。

 聞き覚えのある台詞だ。

 しかも本人に二回目である。


 ルーファスは顔を赤くした。


「またそれか!」


「はい。今回は王都全域に延焼します」


「私は王太子だぞ!」


「ですから燃えるのです」


 ルーファスが言葉に詰まる。


 リディアは声を落とした。


「殿下の立場を完全に守る声明は作れます」


 周囲がざわつく。


 ルーファスの表情が少し変わった。


「なら、それを」


「ただし、その場合はエレオノーラ様が燃えます。公爵家が燃えます。神殿が燃えます。広報局が燃えます。王宮全体が『責任を下に押しつける場所』として燃えます」


 リディアは一歩も引かずに続けた。


「殿下おひとりを煙から遠ざけるために、王国中に火を回すことになります」


 ルーファスは黙った。


 怒鳴り返さない。

 少しだけ、理解したのか。

 それとも、言い返す言葉を探しているだけか。


 今のリディアには、まだわからない。


 能力は真実を見抜けない。

 心も読めない。

 ただ、言葉の火種が見えるだけだ。


「では、私はどうすればいい」


 ルーファスが低く言った。


 火消し部屋が静まり返った。


 それは、珍しくまともな問いだった。


 リディアは答えた。


「まず、黙ってください」


「なっ」


「失礼しました。正確には、公式声明が出るまで、追加発言を控えてください」


 マルクが小声で言う。


「同じ意味では」


「丁寧にしました」


「広報の力ですね」


 リディアは続ける。


「殿下ご自身の謝罪文は、今すぐ出すべきではありません。現時点では、何に謝るべきか整理できていないからです」


「私が謝るべきことくらい、私にわかる」


「では、何に謝りますか」


 ルーファスは口を開いた。


 そして、止まった。


 不快にさせたこと。

 誤解を招いたこと。

 真意が伝わらなかったこと。


 おそらく、そのあたりの言葉が喉まで来ていたのだろう。


 リディアは静かに言った。


「その三つは燃料です」


 マルクが書類の陰で肩を震わせた。

 笑っている場合ではないが、耐えているのがわかる。


 ルーファスは唇を噛んだ。


「……では、何と」


「今は、王宮声明として手続きの停止と記録保全を出します。殿下個人の謝罪は、事実確認後に、エレオノーラ様本人へ向けて行うべきです」


「民衆へではなく?」


「まず、傷つけた相手へです」


 ルーファスは返事をしなかった。


 その沈黙は、不満そうだった。

 けれど、さっきよりは少しだけ、燃えにくい沈黙だった。


 リディアは声明案を清書に回した。


     ◇


 王宮上層部との調整は、地獄だった。


「王太子殿下の不適切性を認めるなど、前例がない」


「前例がない炎上です」


「婚約破棄手続きの停止など、王太子殿下の判断を否定することになる」


「手続きなしの宣言を有効にするほうが危険です」


「神殿への配慮が足りない」


「公爵家への配慮も足りていません」


「新聞社に要請など、言論統制と取られる」


「切り抜きを放置すれば王宮不信になります」


「では、どうしろと言うのだ」


「この声明を出します」


 何度も同じやり取りを繰り返した。


 途中でマルクが「会議室の空気が焦げてきました」と呟き、リディアが「換気してください」と返した。


 カイルは会議室の後方に立っていた。

 発言は少ない。

 というより、ほぼない。


 だが、王宮上層部の誰かが「辺境伯家の抗議は後回しでよいのでは」と言った瞬間だけ、彼は短く言った。


「記録する」


 それだけで、発言者は黙った。


 短い言葉は信用できない、と彼は言った。

 だが、彼自身の短い言葉は、逃げない。

 そこには責任がある。


 エレオノーラも同席していた。


 彼女は一度だけ口を開いた。


「私への謝罪文を削るのであれば、どうぞ。その代わり、グランフェルト公爵家は王宮が被害者本人への謝罪を拒否したものと受け取ります」


 優雅だった。

 優雅すぎて、会議室の温度が三度下がった。


 王宮上層部は、最終的に折れた。


 声明は出ることになった。


     ◇


 夕刻。


 王宮広報局の中央通信室に、職員たちが集まった。


 王宮声明は、水晶通信で各新聞社、貴族家、神殿、主要広場の掲示水晶へ送られる。


 リディアは最終稿を手にしていた。


 指先が少し震えている。


 これは、完璧な声明ではない。

 火種は残っている。

 王太子派は反発する。

 神殿も黙らない。

 新聞社は切り抜こうとするだろう。


 それでも、出す。


 誰かを燃やして王宮だけが助かる声明ではなく。

 傷つけた事実に、まず向き合う声明を。


 リディアは読み上げた。


「王宮声明、送信します」


 通信士が水晶に魔力を流す。


 淡い光が走った。


 王宮声明が、王都へ放たれる。


 火消し部屋の職員たちは、拍手しようとした。


 しかし、誰かが胸を押さえた。


「胃が……」


「私も……」


「達成感と胃痛が同時に……」


 結局、全員が静かに椅子へ座り込んだ。


 マルクが小さく手を上げる。


「拍手の代わりに、胃薬で乾杯しませんか」


「しません」


 リディアは即答した。


「水で飲みます」


「実質乾杯では?」


「違います」


 小さな笑いが起きた。


 その笑いの中で、リディアは水晶掲示板を見た。


 反応は、すでに出始めていた。


『王宮、王太子発言を不適切と認める』

『婚約破棄、まだ成立してないってこと?』

『公爵令嬢への謝罪入ったのは大きい』

『ミリア様への取材自粛も入ってる』

『全文公開するなら見る』

『王太子、謝罪文より先に黙るの偉い』

『いや黙るだけで褒められる王太子って何』

『広報局、胃薬足りてる?』


 リディアは最後の投稿で少しだけ笑った。


「足りていません」


 すると、背後から声がした。


「実に有効な対応です」


 リディアは振り返った。


 ベルク・アインハルトが、通信室の入口に立っていた。


 いつの間に。


 誰も大声を上げなかった。

 それほど自然に、彼はそこにいた。


 ベルクは穏やかに微笑んでいる。


「王太子殿下の責任を限定しつつ、公爵家の面子を保ち、神殿にも配慮した。新聞社への牽制もある。見事な均衡です」


 褒めている。


 だが、リディアの胃はまた冷えた。


「均衡のために書いたのではありません」


「では?」


「傷つけた相手と、これから傷つけられるかもしれない人を守るために書きました」


 ベルクは楽しげに目を細めた。


「同じことです」


「違います」


 リディアはすぐに言った。


 自分でも驚くほど、はっきりと。


「結果が似ていても、見ている場所が違います」


「見ている場所」


「私は、火元を見ます」


 ベルクの微笑みは崩れなかった。


 けれど、その目の奥に、ほんのわずかな興味が灯った。


「あなたは面白い方ですね、リディア・ノートン嬢」


「私は面白さで広報をしているわけではありません」


「ええ。だからこそ、興味深い」


 ベルクは視線を壁へ向けた。


 通信室にも、あの標語が掲げられていた。


 王宮は、常に民の声を聞いております。


 ベルクはそれを見て、一瞬だけ笑った。


 本当に一瞬。

 見間違いかと思うほど短い。


 けれどリディアは見た。


 その笑みは、標語を信じる者の笑みではなかった。

 標語の裏側を知っている者の笑みだった。


「民の声は、厄介です」


 ベルクは静かに言った。


「時に、真実よりも速く燃え広がる」


「だからこそ、返事が必要です」


 リディアが言うと、ベルクは彼女を見た。


「返事、ですか」


「はい」


「なるほど」


 彼はそれ以上、何も言わなかった。


 ただ丁寧に礼をして、去っていく。


 リディアはその背中を見送った。


 火は消えたのではない。

 ただ、一度だけ大きな炎になるのを防いだだけだ。


 煙はまだある。

 火種もまだある。

 そして、ベルクという男は、その煙の流れを楽しそうに見ていた。


 通信室の水晶が、新たな反応を映し出す。


 リディアは何気なく目を向けた。


 そこに、新しい見出しが流れてきた。


『聖女候補ミリア様、王宮に傷つけられる』

『王宮声明、清らかな祈りを政治利用か』

『神殿関係者、強く反発』


 リディアの視界に、火種が一気に浮かぶ。


【火種:神殿反発】

【火種:聖女候補被害者化】

【火種:エレオノーラ再悪役化】

【火種:王宮対神殿】

【火種:美談拡散】

【火種:次章炎上】


 胃が痛い。


 とても痛い。


 リディアは机に置かれた胃薬を見た。


 それから、深く息を吸った。


「……火元を見ます」


 マルクが青い顔で聞いた。


「次はどこですか」


 リディアは水晶掲示板を見つめた。


 清らかな聖女候補。

 涙。

 祈り。

 皆さまのために。


 それは優しい言葉の形をしていた。


 けれど、その奥で誰かの声が消えている。


「神殿です」


 リディアは言った。


「次の火元は、神殿にあります」


 王宮声明は出た。


 けれど物語は、まだ終わらない。


 今度は、聖女候補ミリアをめぐる炎が、王都に広がり始めていた。

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