狩野川の治水の開始も早めに考えねばな
さて、地震や高潮による海岸線の村や湊の被害を抑えるため、「避難所」という名目で物資の集積所を作ろうとした。
ところが――。
いつの間にやら、そこに兵糧を蓄え、兵を置き、いざという時には周辺の住民も逃げ込める山城を築く話になっていた。
まあ、仕方がないと言えば仕方がない。
長期保存が可能な雑穀、特に稗を中心に備蓄するとはいえ、食料が大量に集まっている場所を無防備にしておけば、いざ災害が起きたときに盗賊や周辺の武士に狙われる可能性がある。
避難所として使う以上、守りも必要なのだ。
「まあ、赤米とはいえ米や、銭を出しての普請だから文句を言ってくる者はいないようだが……俺が考えていたものより、だいぶ大掛かりになってしまったな」
俺がそう言うと、大道寺重時が苦笑した。
「おいおい。雑穀だろうと何だろうと、飯になるものが大量にあれば、それを奪おうとする者が出てくると考えるのは当然だろう」
「まあ、そう言われればそうなんだがな」
確かにその通りだ。
災害が起きれば、普段なら問題にならない程度の食料ですら貴重品になる。
しかも、この時代は今のように街道を通じて大量の食料を短期間で運び込めるわけではない。
だからこそ、各地に食料を分散して備蓄しておく必要がある。
「しかし、避難所を作ったら山城になるとはなぁ……」
「それだけではないだろう?」
「ん?」
大道寺重時がニヤリと笑う。
「お前のことだ。どうせ次は水のことを考え始める」
「……まあな」
俺は苦笑した。
「ああ。これが終わったら、狩野川の治水にも手を付けんとな」
そう言うと、風魔小太郎が静かにうなずいた。
「それは、まことに大事でございましょうな」
狩野川は天城山を源流とし、北へ流れて田方平野を蛇行しながら三島方面へ向かう。
そして三島付近で来光川、大場川、柿田川、黄瀬川などの支流と合流し、さらに西へ流れて沼津で駿河湾へ注いでいる。
問題は、その流域だ。
源流となる天城山周辺は日本でも有数の多雨地帯で、年間降水量は三千ミリを超えることもある。
しかも山地から平野へ一気に流れ下るため、上流では流れが速い。
一方、下流では川が大きく蛇行している。
つまり――。
大雨が降れば、一気に大量の水が流れ込んできて、平野部で水があふれやすい。
昔からこの辺りで洪水が繰り返されてきた理由も、だいたい想像がつく。
とはいえ、コンクリートを使った護岸工事なんてできる時代じゃない。
そもそも、コンクリートで川を完全に固めれば解決するという話でもない。
堤防は一度作れば永遠に使えるわけではない。
時間が経てば劣化するし、洪水によって傷めば修繕も必要になる。
しかも、堤防を高くすればするほど、ひとたび決壊したときの被害は大きくなる。
「ならば、水を完全に押さえ込もうとするより、逃がす仕組みを作ったほうがいい」
「逃がす、と申しますと?」
小太郎が尋ねてくる。
「大雨が降ったとき、一時的に川の水を別の場所へ流すんだ」
俺は地図を広げた。
「川沿いに水防林を整備して、その内側を遊水地として使う。普段は田畑や林として利用し、大雨のときだけ水を受け止めるんだ」
「なるほど……」
「それなら堤防が水圧に耐えられなくなって決壊する前に、余分な水を逃がせる」
後世で言うところの信玄堤のような考え方だ。
水を真正面から押さえ込むのではない。
水があふれることを前提に、被害が出にくい場所へ逃がす。
自然そのものを敵にするのではなく、自然の力を受け流す。
この時代なら、そのほうが現実的だろう。
さらに石を積み、要所には柳などの木を植えて根を張らせれば、年月が経つほど地盤も安定する。
「木というのは便利なものだな」
俺は思わず感心する。
石だけで固めるよりも、木を植えて根を張らせたほうが土を押さえられる。
しかも木は成長する。
もちろん手入れは必要だが、きちんと管理すれば年月とともに強固な水防施設になっていく。
「まあ、そう考えると、川を完全に人間の都合で押さえ込む必要もないんだよな」
「水を敵にするのではなく、付き合うわけですな」
小太郎の言葉に、俺はうなずいた。
「ああ。そういうことだ」
そして、治水について考えていると、どうしても政治の話にも行き着く。
中国の歴史を見ても、治水に成功した人物が大きな権威を得た例は多い。
水を治めることは、人を治めることにもつながる。
当たり前の話だ。
洪水が起きれば、田畑が流される。
家も壊れる。
家畜も失われる。
そして何より、食料がなくなる。
生活の基盤そのものが、一度の洪水で消えてしまうのだ。
「この時代なら、なおさらだな」
俺は周囲を見回した。
二階建ての家など、ほとんど存在しない。
今の日本なら、洪水が起きても二階へ逃げれば助かる場合がある。
だが、この時代の農民の家には、その二階そのものがない。
床上まで水が来れば、家財も食料も衣服も、何もかも流される。
だからこそ、治水は単なる土木工事ではない。
領民の命と生活を守るための、政治そのものなのだ。
「そう考えると、沼津という地名もなかなか意味深だよな」
「沼津、でございますか?」
小太郎が首を傾げる。
「ああ。昔からこの辺りは水が集まりやすく、湿地や沼が多かったからこそ、そう呼ばれるようになったとも考えられる」
実際、狩野川流域では洪水によって水があふれれば、平地に水が溜まる。
川の流れだけを見ていては駄目なのだ。
周辺の土地全体を、水を受け止める場所として考えなければならない。
大道寺重時もうなずいた。
「ふむ。洪水が起きれば、食い物も家もすべて失うわけだからな。それを防げるなら、兵を出して戦うよりよほど領民にはありがたいだろう」
「ああ」
俺は地図を見ながら答える。
「大阪でも、大内に大和川の付け替えを行わせたからな。あれで周辺の水害もだいぶマシになったはずだ」
「ならば、こちらも早めに取り掛かるとするか」
「そうしよう」
こうして俺たちは、避難所という名の山城の普請を進める一方で、次なる仕事として狩野川の治水に取り掛かることになった。
まず手を付けるのは――三島周辺。
ここは狩野川が大きく蛇行し、さらに北側から流れ込む川々と合流する場所だ。
大雨が降れば、上流からの水と支流からの水が一気に集中する。
ならば、ここをどうにかすれば下流への洪水被害を大きく減らせる可能性がある。
「さて……」
俺は地図を広げ直した。
「川をまっすぐにするだけじゃ駄目だ。どこで水を逃がすか、どこに溜めるか、そしてどこを守るかを全部考えないとな」
戦なら敵の動きを読めばいい。
だが、水には意思がない。
だからこそ厄介だ。
高いところから低いところへ、ただひたすら流れていく。
ならば、その流れそのものを利用する。
「三島の土地を守るだけじゃない。狩野川の流域全体を守るための仕組みを作るぞ」
山城を築き、兵糧を備え、そして今度は川を治める。
気がつけば俺は、戦をする武士というより――。
この土地そのものを作り替える土木屋になりつつあった。
まあ、それも悪くはない。
戦をせずに領民を守れるのなら、そのほうがずっといいのだから。
――こうして、俺の伊豆経営はまた一つ、新しい段階へと進むことになった。




