龍王丸が安心して成長できる場所を作ること
日野富子からの書状。
内容は、予想どおりだった。
――京へ戻ってこい。
しかも、かなり強い調子である。
「……義政様は関東へ行けと言い、富子様は京へ戻れと言う」
「まことに正反対ですな」
「どうしろっていうんだよ」
俺は書状を机の上に置き、深々とため息をついた。
どちらも無視できない。
足利義政は前将軍とはいえ、今なお幕府内で強い影響力を持っている。
一方の日野富子は、現将軍・足利義尚の母であり、その後見役でもある。
どちらか一方に露骨に逆らえば、それだけで余計な火種になる。
ならば――。
「……両方に、それぞれ正しいことを言うしかないな」
「正しいことを?」
「ああ」
俺は筆を取りながら答えた。
「義政様には、関東の情勢について調査し、駿河からできる範囲で安定化に努めると返す」
「なるほど」
「富子様には、京へ戻ること自体を拒否するのではなく、『今は駿河を離れられない』と説明する」
「それならば、どちらにも逆らってはいないことになりますな」
「そういうこと」
俺は苦笑した。
政治というのは、正面から答えを出すよりも、答えを出さずに済ませるほうが難しい。
義政には「関東へ行く」。
富子には「京へ戻れない」。
そして俺自身は――駿河にいる。
我ながら、なかなか器用な逃げ方だと思う。
だが、書状を書きながら、ふと疑問が湧いた。
そもそも。
なぜ富子は、これほどまでに俺を京へ戻したがっている?
以前なら、単純に俺の政治能力を利用したいだけだと思っていた。
だが、今は状況が違う。
義政と富子の関係は悪化している。
そして、将軍となった義尚はまだ幼い。
ならば――。
「……俺を自分の側に置いておきたい、ということか」
「可能性は高いでしょうな」
「つまり」
俺は筆を止めた。
「政治の駒にされてるな、俺」
「それだけ殿の価値が高いということでもあります」
「嬉しくない評価だな」
思わず苦笑が漏れる。
駿河にいるだけなら、俺は駿河守護代として今川家の内政を支えていればいい。
だが、京に戻れば幕府の政治に巻き込まれる。
さらに関東へ行けば、古河公方と上杉氏の争いに巻き込まれる。
「どこへ行っても戦争が付いてくるな」
「この時代ですからな」
「身も蓋もないことを言うなよ」
重時が平然と答えるので、俺は肩をすくめた。
ともあれ、返事を書くしかない。
まずは義政へ。
次に富子へ。
どちらにも礼を尽くしつつ、今すぐ動くことはできないと説明する。
そして最後に――。
「……龍王丸のことも書いておこう」
「それがよろしいでしょう」
重時が頷いた。
龍王丸。
今川家の次代を担う、まだ幼い少年。
その身を守ることも、俺の重要な役目である。
何より、駿河が安定していなければ龍王丸を守ることもできない。
「よし」
俺は書状を書き終え、筆を置いた。
「これでいいだろう」
「では、使者を」
「ああ。頼む」
書状を託す。
使者が部屋を出ていく。
俺はしばらく、その背中を見送った。
――これで一段落。
そう思った。
だが。
人生というものは、そう簡単には休ませてくれない。
「殿」
「今度は何だ?」
振り返ると、重時が少し困った顔をして立っていた。
「先ほどの伊豆からの報告ですが」
「ああ」
「もう一つ、気になる情報がございます」
「何?」
「伊豆へ入った者たちの中に、上杉方とも古河公方方とも、明確に区別できない者たちがいるようです」
「……どっちにも属していない?」
「はい」
「それは商人とか、旅人とかじゃないのか?」
「一部はそうでしょう。しかし――」
重時は一拍置いた。
「どうも、武装した者も混じっているようです」
俺は黙って地図へ目を落とした。
伊豆。
そこから駿河へ抜ける道。
そして、海。
「……盗賊?」
「その可能性もございます」
「それならまだいい」
「よくはありませんが」
「いや、大名同士の戦争よりは、ずっといい」
俺はため息をついた。
もちろん、武装した盗賊だって十分に厄介だ。
だが問題は、彼らが本当にただの盗賊なのかということだった。
戦乱を利用して勢力を広げようとする土豪かもしれない。
どこかの勢力に雇われた兵かもしれない。
あるいは――。
伊豆で何かを探している別の勢力かもしれない。
今の段階では、何も分からない。
「伊豆の港を中心に、もう少し詳しく調べよう」
「承知しました」
「ただし、こちらから軍勢は動かさない」
「はい」
「駿河国内の警備だけ強化する」
戦乱が近づいている。
だからといって、こちらから戦争を始める必要はない。
むしろ。
今こそ慎重に動くべきだ。
「それと、小川湊の整備を急ぐ」
「港ですか?」
「ああ」
俺は地図の上に指を置いた。
「伊豆の情勢が悪化すれば、海上交通の重要性が増す」
伊豆から駿河へ。
駿河から遠江へ。
さらに東海道を通じて各地へ。
陸路だけに頼らず、海路も使えるようにしておけば、いざという時の逃げ道にもなる。
それだけじゃない。
物資の輸送にも使える。
「船の出入りを管理できるようにする。倉庫も増やす。食料も備蓄する」
「兵糧ですな」
「それだけじゃない」
俺は少し考えてから続けた。
「普通の米や麦だけじゃなく、蕎麦も使える」
「先ほど収穫したものですな」
「ああ」
蕎麦は米ほど収量が多いわけではない。
だが、痩せた土地でも育つ。
しかも短期間で収穫できる。
保存もできる。
食べ方さえ工夫すれば、戦時の食料としても十分に使える。
「今年は蕎麦をもう少し増やしてみるか」
「食料事情の改善は、戦を避けるためにも重要ですからな」
「そういうこと」
農業。
漁業。
港。
市場。
街道。
そして備蓄。
一つ一つは地味だ。
派手な合戦のように、歴史に大きく刻まれるものでもない。
だが――。
こういう地味な積み重ねこそが、国を強くする。
戦争に勝つためだけではない。
戦争をしなくても済む国を作るために必要なのだ。
俺がそんなことを考えていると。
遠くから、子供の声が聞こえてきた。
「……龍王丸かな?」
顔を上げる。
しばらくすると、小さな足音がこちらへ近づいてきた。
「叔父上!」
「おお」
侍女に連れられ、龍王丸がやってきた。
まだ二歳。
言葉も、歩き方も、まだまだ幼い。
それでも。
俺の姿を見つけると、嬉しそうに笑う。
「……元気そうだな」
「はい!」
小さな手が伸びてくる。
俺はその手を取った。
――小さい。
本当に、まだ何も知らない子供の手だ。
その瞬間。
ふと思った。
こいつが大きくなる頃。
この国はどうなっているのだろう。
関東は。
京は。
今川家は。
そして――俺は。
「叔父上?」
「ん?」
「どうしました?」
俺は龍王丸の頭を撫でた。
「いや」
そして笑う。
「今年も頑張らないとな、と思っただけだ」
京がどうなろうと。
関東がどうなろうと。
まずは、ここを守る。
駿河を豊かにする。
龍王丸が安心して成長できる場所を作る。
それが、今の俺にできることだ。




