今川義忠が姉上と一緒に駿河に帰っていったか
さて、応仁の乱は足利義視の西軍入りで完全な泥沼になったこともあり、今川義忠は細川勝元に斯波義廉の分国である尾張や遠江を撹乱すべしと要請されて、駿河へ帰国することになった。
当然、駿河へは正室となった姉上も一緒に下ることになる。
「治部様、お姉上どうかお元気で」
「うむ、もう少し都にいるつもりではあったが、そうもいかなくなった。
そちらも体には気をつけよ」
「はい有難うございます」
「わたしがいなくなって寂しいからって泣かないでね」
「だ、大丈夫です。
もう元服したのですから」
もともと今川氏は1336年の今川範国より駿河守護を努めていたが、今川貞世が足利義満に疎んじられたため、1405年~1407年の間は遠江守護職は斯波義重が代わりについており、1407年~1413年には今川泰範が返り咲いたものの1419年以降の遠江守護職は斯波氏が独占していて遠江今川氏の今川貞延(了俊の曾孫)は、長禄3年(1459年)今川範将が自ら中核となって引き起こした「中遠一揆」を守護方に鎮圧されたことなどもあり、今川氏と斯波氏との対立は深まっていた。
今川氏も斯波氏もどちらも足利氏の有力一門であったがその仲は良くなかったのである。
翌年の文明元年(1469年)4月22日に京都府乙訓郡西岡で東軍と西軍が衝突した。
山城西部の乙訓郡は丹波や摂津に近い地域であり、国人は細川氏と深い繋がりを持っていた。
そのため応仁の乱では細川勝元が率いる東軍に味方して、野田泰忠ら国人衆は西岡を始めとする乙訓郡で上洛する西軍の軍勢と戦っていたが、戦闘が京都市街から周辺地域に移ると西岡は主戦場となっていた。
そして文明元年4月19日、西岡の国人衆は鶏冠井城に籠城する西軍を襲撃したが、3日後の22日に畠山義就が出撃、谷の堂は落とされ西岡国人衆は丹波へ逃亡したため、西岡を含む乙訓郡は西軍が制圧し、畠山義就は山城西部の支配に取り掛かった。
大内政弘も摂津へ向かい東軍の拠点を殆ど奪い取り、山城西部は西軍に押さえられた。
東軍は主に四国から淡路を通じ大阪湾を経由して淀川を上って、京の軍勢の補給を維持していたため、摂津を抑えられたのは痛手に思えたが、補給経路自体は細川と赤松が確保していて東軍の補給線を断ち切ることは出来なかった。
そしてこの頃の西軍は日本海から越前を通じて琵琶湖経由で山城への補給を行っていた。
細川勝元は西軍主力武将の一人でもある朝倉孝景を魚住景貞経由で東軍に寝返らせる工作をしていた。
魚住氏は播磨国赤松氏の庶流で赤松氏の被官であったが、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で主家が没落すると、朝倉孝景に仕官していたのだ。
朝倉孝景は魚住景貞を通じて東軍の浦上則宗と密かに接触し、文明3年(1471年)5月21日に将軍足利義政及び細川勝元から越前守護権限行使の密約をもらって東軍に寝返ることになる。