この時代の争いは天候不順により飢饉の影響もでかい、まずは自分たちの荘園(惣村)を守れるようにせねば
現状で日本がこのような状態に陥った理由はなにも室町幕府内部の権力闘争だけが原因ではない。
宝徳4年、享徳元年(1452年)には南太平洋のシェパード諸島近海の海底火山であるクワエの大噴火が複数回起こり、その噴煙の影響で日光が遮られたことにより、享徳4年、康正元年頃(1455年ごろ)まで北半球では世界的に平均気温が下がって旱魃や冷夏が続き、さらにその後も気候変動は続いて、世界的に旱魃が頻発したが、当然日本もこの影響を受けていた。
気候の寒冷化は水の蒸発を偏らせて旱魃や冷夏、一部地域での大雨を引き起こし、それに伴い食糧難も付随して起きる。
中国の諸王朝の崩壊は内部の腐敗もあったが、急激な気温低下も密接に関係がある。
気温が下がると遊牧民族が住む草原地帯が砂漠化して、遊牧民たちの食料である家畜の飼育に大きな打撃を与えるため、北方の遊牧民族が飢えて南下して略奪が繰り返されるのだ。
これは古代ローマ帝国の滅亡にも関係し、遊牧騎馬民族フン族がヨーロッパに流入して西ローマを滅ぼしたのも寒冷化による草原の砂漠化が原因だ。
とくに日本では長禄3年(1459年)から寛正2年(1461年)にかけて起きた、長禄・寛正の飢饉と呼ばれた飢饉の被害は長期間かつ日本全国に及んだ。
まず長禄3年(1459年)年は西日本を中心とした旱魃で飢饉が発生、京都では台風が直撃し、賀茂川が氾濫して多数の家屋が流出し、これにより数え切れないほどの死者が出た。
さらにその二年後の寛正2年(1461年)には、前年の冷夏による不作や蝗害によって耕作放棄した農民などが大量の流民となって京都の市中に流れ込んだことで事態はより悪化し、同年正月の京都にはすでに乞食が数万人いたとされ、この年の最初の2か月で8万2千もの餓死者が出ている。
だがこれだけの惨事にもかかわらず、室町幕府の将軍足利義政は長禄3年(1459年)に長年住み慣れた烏丸殿から父である義教が住んでいた花の御所へと移り住み、親政の拠点として位置づけようとしていてその改築に夢中であったし、正室の日野富子との間の男子が長禄3年(1459年)に早世し、富子が実子の早世は今参局が呪詛したものであるとして、彼女を琵琶湖の沖ノ島に流罪に処したことなどから伊勢貞親の権勢が強まった。
将軍足利義政がなにもしなかったのは日野富子や伊勢貞親のせいである可能性もあるが、祖父義満が鹿苑寺(金閣寺)や花の御所を造成させて有力守護に権威を示したように、自分も花の御所の改築などを行なうことで有力守護に権威を示そうとしたのかもしれないがこれは明らかな誤りだったろう。
そして管領達も家督争いなどの権力闘争に終始し、年号の改元と京都五山の禅僧たちに、わずかな資金で施餓鬼を任せただけだった。
もともと河原での鳥葬が基本の京都では死体を埋葬する者も殆どおらず、京都の市中には餓死した死体が斃れ重なり合い、鴨川の河原なども死体で埋まってしまい、それにより京の都ではハエの発生とそれによる疫病がさらにまん延した。
京の都のあまりの惨状を見かねた後花園天皇は諫言のための詩を足利義政に送りその無策をしかったが、それでも幕府に変化は見られなかった。
朝廷は応仁の乱以降は即位や譲位、葬儀すらろくにできない状態になってしまう。
そして文正元年(1466年)には飢饉は峠を過ぎてそれなりに落ち着いて来ていたが、この時代においてはほんの些細ないざこざ、例えば頭を下げないや笑ったと思った等で人が斬り殺されてその報復で大人数での切り合いなどの大騒動に発展することが日常茶飯事だった。
もともと平安時代から鎌倉時代にかけての荘園や公領では、耕地の間に屋敷がまばらに点在する散居形態が一般的であり、屋敷が密集して存在する集落は形成されていなかった。
しかしそんな戦乱などに対する自衛の必要が出てきたことによって耕地から住居が分離して住宅同士が集合する村落が形成され、その周りは環濠で囲まれ自衛しやすくなっていった。
このような村落は、その範囲内に住む惣の構成員により形成されていたことから、惣村または惣と呼ばれるようになっていき、荘園や公領では、複数の惣村をまとめた惣荘・惣郷が形成される。
そして惣村の有力者の中に守護や国人と直接的な主従関係を結んで、加地子により軍役を担い、武士となる者も現れ、これを地侍という。
例えば、後北条の御由緒六家となる者たちのうち大道寺氏の大道寺重時は従兄弟だが、多目権兵衛、荒木兵庫頭、山中才四郎、荒川又次郎、在竹兵衛尉といった者は地侍出身であった。
「今年もまた旱魃があれば近隣との水争いが深刻になるだろうな。
しかし幕府に裁定を求めたところでまともな裁定が下るとは思えないのが困ったものだ」
九州や中国・四国地方は旱魃で飢饉に陥ることが多く、畿内より東では冷夏や長雨などで飢饉に陥ることが多いが、これは畿内より東は琵琶湖などの大きな湖や沼などの水瓶があったり、冬の間に降り積もった雪が溶け、雨が降らない夏でも一定量の水が確保できるが、九州・中国・四国は大きな湖がなく、夏まで十分な量の雪解け水を期待できる山もないからだ。
「ああ、多分そうだな」
「水が得られるか得られないかは、どこでも死活問題だからな」
彼らが賛同すると俺はうなずいて言う。
「武力紛争で勝つには数で優るに越したことはない。
だが、日頃から仲のいい村に恩を売っておいていざという時に助力を求めたり、敵対するものの内部を切り崩したり、中立的な領主にも賄賂を渡して自分たちの村にとって有利な条件で仲裁してもらい、実際の闘いでは相手より離れた場所から攻撃をしかけられるなら、村の人数で劣っていてもなんとかなるだろう。
そのためにも今後は皆が連携して事に当たるようにしていこう」
「ああ、わかった」
「そうしていこう」
まあ俺の話を聞いてくれるのは俺がここの荘官であるからだが、何れにせよ自分たちの食料や水は勝ち取らなければならないのだ。
何れにせよ暫くは荘園の地侍などをまとめ上げて運営を滞り無く行い食えるようにしなければならないだろう。
自分たちの農地や身を守り、十分な水などを得るために武装しなければならないというのはあまり良いことではないとも思うが、そういう時代であれば仕方がないとも言える。