まずは今の状況を思い返してみよう。
さて、このころの室町幕府がどういう状況だったのか、ここで一度整理しておこう。
まず、鎌倉時代後期。
北条家は九州から東北に至るまで、ほぼ日本全国に影響力を及ぼすまでになっていた。
だが、その支配体制には大きな問題があった。
元寇である。
武士たちは命を懸けて元の軍勢と戦った。
だが、勝ったところで新たに与えられる土地がない。
それどころか、戦で負った損害を十分に補填することさえできない。
これでは「御恩と奉公」の関係が崩れてしまう。
そして実際、それが鎌倉幕府の弱体化につながり、やがて倒幕運動へと発展していった。
さらに承久の乱以降、皇室や宮家、公家といった旧来の支配層も安泰ではなかった。
各地で戦乱が続くなか、地頭や国人、悪党などの武装勢力によって荘園が横領され、古くからの既得権益が少しずつ食い荒らされていったのである。
そんな状況の中で鎌倉幕府が滅び、その後に始まった建武の新政も、武士たちにとっては不満の多い政治となった。
それが、やがて室町幕府の成立へとつながっていく。
……だが。
新しくできた室町幕府も、最初から盤石だったわけではない。
むしろ、その土台はかなり危うかった。
足利尊氏が一時的に京を追われた際には、各地に武将を派遣して独自に兵を集めさせている。
関東には佐竹義敦。
阿波には細川顕氏、和氏、定禅。
石見には上野頼兼。
播磨には赤松円心。
備前には石橋和義。
備中には今川俊氏と政氏。
周防には新田義政と大内長弘。
長門には斯波高経。
こうして各地で独自に兵を集めることを認めた結果、彼らはそれぞれ自前の軍事力を持つようになった。
もちろん、これは尊氏にとって必要な措置だった。
だが同時に、後々まで禍根を残すことにもなった。
各地の武将が強くなりすぎたのだ。
しかも、南北朝の分裂まで起きる。
情勢が悪化すれば尊氏自身が南朝に逃げ込むようなことさえあった。
さらに幕府内部でも、尊氏の執事である高師直と、弟の足利直義が対立する。
やがて、その対立は尊氏と直義の争いにまで発展した。
つまり室町幕府というのは、成立したその瞬間から、
――将軍一人の力だけでは動かせない幕府だった。
将軍の権力基盤は弱い。
だからこそ、周囲の有力者の力が大きくなる。
将軍に次ぐ最高職である三管領の細川氏、斯波氏、畠山氏。
軍事指揮だけでなく京都の警察や徴税なども担った侍所の長官、四職の赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏。
そして幕府の財政や政務を担う政所の執事を務めた伊勢氏。
こうした有力者たちが、将軍の政治に大きな影響を与えていた。
しかも、守護大名ですら安泰ではない。
京で幕府の仕事をする一方で、領国では守護代や有力家臣が力を持っている。
上に行っても下に行っても、権力を分け合う構造になっている。
そして、もう一つ大きな問題があった。
家督相続である。
江戸時代のように「基本的には長子が継ぐ」というルールが明確に定まっていたわけではない。
鎌倉時代のような分割相続でもない。
では誰が継ぐのか。
そこが曖昧だからこそ、後継者争いやお家騒動が頻発する。
……まあ、揉めるべくして揉める仕組みだったわけだ。
そんな室町幕府が一時的に大きく力を持ったのが、三代将軍足利義満の時代だった。
南北朝が合一され、さらに明との貿易を幕府自身が行うことで財政も立て直される。
室町幕府の全盛期である。
もっとも、その後は再び揺らぎ始める。
4代将軍足利義持の弟で、くじ引きによって選ばれた6代将軍・足利義教。
「万人恐怖」とまで呼ばれた彼は、嘉吉元年(かきつがんねん・1441年)、赤松満祐によって暗殺された。
嘉吉の乱である。
この事件によって、幕府の威信は大きく低下した。
混乱を収めたのは管領の細川持之と畠山持国だった。
だが、その後には細川持之が死去。
さらに義教の嫡子で7代将軍となった9歳の足利義勝も急逝してしまう。
そこで義勝の同母弟である8歳の足利義政が、畠山持国邸での衆議によって次期将軍に選ばれた。
文安6年(ぶんあん6ねん・1449年)。
義政は正式に将軍職を継ぐ。
だが、8歳の少年に実権があるはずもない。
この時期の政治を実際に動かしていたのは周囲の有力者たちだった。
管領である畠山持国もその一人だ。
彼は足利義教によって隠居させられていたが、嘉吉の乱をきっかけに武力で家督を奪い返した。
さらに義教によって家督を追われた者たちを復権させ、自らの勢力を広げていく。
その後も幕府は斯波氏の争いや畠山家のお家騒動に介入する。
そして、その政治を実際に主導していった人物の一人が、義政の側近である伊勢貞親だった。
伊勢貞親は政所執事。
将軍の権力を高める。
同時に、自らの権力も高める。
そうして義政政権の中で存在感を増していった。
そして起こったのが、文正の政変である。
義政は伊勢貞親や季瓊真蘂らの進言を受け、突然、斯波氏宗家・武衛家の家督と越前・尾張・遠江の守護職を斯波義廉から取り上げ、斯波義敏へ与えた。
さらに義政側近たちは、謀反の噂を流し、足利義視の追放、さらには誅殺まで狙った。
当然、反発が起きる。
斯波義廉と縁戚関係にあった山名宗全は、一色義直や土岐成頼らとともに義視と義廉を支持。
義視は後見人である細川勝元を頼った。
勝元は宗全と協力し、義視の無実を訴える。
結果、足利義政は伊勢貞親を近江国へ追放。
季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則も失脚し、都を追われた。
そして斯波家の家督は再び斯波義廉へ戻された。
――だが。
この政変によって、義政は自ら政治の手足を失ってしまった。
伊勢貞親を失ったことで、足利義政の政治力は大きく低下したのである。
「要するに……」
俺は頭の中で整理する。
「どいつもこいつも権力目当てに好き勝手してるってことと……伊勢氏が、武力的に弱まったってことだよな」
そして。
その先に待っているのが、応仁の乱だ。
来年。
応仁元年(おうにんがんねん・1467年)から始まる戦乱は、文明9年(ぶんめい9ねん・1478年)まで続く。
約11年。
しかも戦火は京都だけでは収まらない。
ほぼ全国へ広がっていく。
最初は、それぞれに目的があったはずだ。
誰を将軍にするのか。
誰が家督を継ぐのか。
どの家を支持するのか。
だが、戦いが長引けば長引くほど、その目的はぼやけていく。
引けば負け。
引けば家が滅びる。
だから退けない。
気がつけば、
「俺たちは、いったい誰のために戦っているんだ?」
そんな状態にまで陥っていく。
そして。
そこまで戦乱が長引けば、当然ながら別の連中も動き出す。
「問題は……」
俺は考える。
この隙に荘園を武力で横領しようとする奴が、必ず出てくるということだ。
これまでも荘園の押領なんて珍しくなかった。
だが、応仁の乱が始まれば、その規模はさらに大きくなる。
では、武力で土地を奪われたとき、幕府へ訴えればいいのか?
――無理だろう。
応仁の乱によって、幕府そのものの権威が地に落ちる。
そんな状況で、幕府に調停してもらえるとはとても思えない。
「やはり……」
結局、自分たちの力で守るしかない。
そこで考えたのが――投石だった。
河原へ行けば、武器の材料になる石なんていくらでも転がっている。
金もいらない。
鍛冶屋もいらない。
ただ拾って投げればいい。
もちろん、名誉ある武器とは言えない。
だが、実用性なら十分だ。
手頃な大きさの石でも、人間に当たれば普通に大怪我をする。
頭に当たれば、それこそ命に関わる。
実際、この時代には石合戦も行われている。
正月や端午の節句などに石を投げ合う風習があったらしい。
だが、当然ながら危険だ。
怪我人や死者まで出る。
後世になっても禁止令がたびたび出されたほどだ。
それでもなくならなかった。
考えてみれば当然だ。
石はどこにでもある。
しかも、投げ方次第では相当に遠くまで飛ばせる。
手で投げるだけではない。
手ぬぐいを使って投石紐のようにする。
大きな石に縄を巻き付け、振り回して遠心力で飛ばす。
そんなことまでやれば――そりゃ死人も出る。
「……いざというときのために」
俺は思う。
「もう一度、投石の練習を村の住民にやらせておくか」
農法の改良。
治水。
農具や工具の改良。
本当なら、そちらを優先したい。
けれど。
これから起こることを考えれば、まず生き残ることのほうが先だ。
そもそも室町時代というのは、反乱だの討伐だのがやたらと多い。
三代将軍の義満の時代だって、別に内乱がなかったわけではない。
幕府が安定していたように見える時期ですら、各地では争いが起きている。
もっとも、義満には義満で問題もあった。
明との貿易だ。
義満は中国に朝貢することで、莫大な利益を得ようとした。
朝貢貿易では、朝貢した側が差し出したもの以上の価値を持つ品を皇帝が下賜する。
つまり義満は、
――「名を捨てて実を取った」
というわけだ。
幕府にとっては、それで財源を確保できる。
だが、朝廷からすれば面白くない。
貿易によって得られる利益を幕府に持っていかれるからだ。
結局、義満が死ぬと一度、明との貿易は途絶えることになる。
そう考えると、室町時代は決して平和な時代ではない。
それでも、鎌倉幕府の時代に比べれば、まだましだったとも言える。
あの時代は族滅、族滅、また族滅。
身内同士で殺し合うような事件が珍しくなかった。
室町時代も大概ではあるが、それでもまだ形だけは政治の体裁を保っている。
……まあ、それも応仁の乱が始まるまでの話だ。
江戸幕府だって、大坂の陣や島原の乱以後、幕末まで全国規模の大反乱が頻発したわけではない。
だからといって、江戸時代が完全に安定していたわけでもない。
改易や減封になった大名はかなりいる。
政治的に見れば、江戸幕府だって決して穏やかな時代ではなかった。
結局のところ――。
どの時代にも、争いはある。
違うのは、その争いが自分たちのところまでやって来るかどうかだ。
そして、来年。
この村にも、その「争い」が押し寄せてくる可能性がある。
だったら。
俺たちも、今のうちに備えておくしかない。




