近江の権利関係は複雑怪奇で頭が痛い
さて、甲賀や伊賀の国人衆や地侍の調略を風魔に任せて、尾張から近江の観音寺城へ移動した俺達。
正式に近江守護に任命されたとは言え近江の権利関係は複雑怪奇で頭が痛い。
その大きな理由の1つがまず天台宗総本山である比叡山延暦寺の存在だ。
もともと京の都鬼門を封ずるために平安時代初期の僧である最澄により開かれた延暦寺だが、慈覚大師円仁と智証大師円珍の派閥に別れて、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもったことから、「山門」の円仁派、延暦寺と「寺門」の円珍派、園城寺が対立・抗争を繰り返した結果、武装化した法師の中から自然と僧兵が現われた。
もっとも鞍馬寺の話にもあるように修行とともに剣術などの武術を修めるのは江戸時代以前の寺では普通ではあったが。
そして強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言っているが、白河法皇の強大な権力を持ってしても、延暦寺は御することができないものとされ自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿を奉じて強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの主張を押し通してきた。
さらに琵琶湖の水運を握ることによる財力も持っており、室町幕府にとっても無視できない存在だった。
そして史実においてそれを徹底的に焼き払ったのが細川政元だ。
それ以前にも永享7年(1435年)に足利義教が延暦寺の有力僧を誘い出し斬首し、それに対して延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり足利義教を激しく非難したが、足利義教の姿勢はかわらず、根本中堂に火を放って焼身自殺した事はある。
しかし足利義教が殺されると延暦寺は再び武装し僧を軍兵にしたて数千人の僧兵軍に強大化させ独立国に戻った。
しかし、明応8年(1499年)に管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻め、根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍を焼いたことで延暦寺の武力はかなり削がれ、再建はほぼされなかった。
延暦寺の焼き討ちと言えば織田信長が有名だが、実際にはその時には主な建物はすでに焼失したあとだった。
のだが現状では細川政元による徹底的な焼き討ちは行われておらず延暦寺に対して武力行使をする理由もない。
そして寺は寺領からとれる米や、寄進される米を高利息で貸した。
これを出拳と言い、利息が払えなくなるとその土地を取り上げることで、更に寺領を増やしていった。
そして寄進されるものが銭になるとその銭を貸して高金利で暴利を貪っていたりする。
そしてもう一つの大きな理由の1つが京極氏の存在だ。
佐々木道誉ら京極氏は六角の庶流でしかないのだが、室町幕府の立役者でもあり、守護国である飛騨に接する近江北部に多くの所領を持っている上に、六角が鎌倉幕府の滅亡とともに一時没落したこともあり、基本的な近江守護は六角だが、応仁の乱で六角が西軍に属したこともあり京極が近江守護に任命された事もあって更にややこしいことになっている。
また西近江は六角や京極と祖先を同じとする高島氏の高島七頭もいてこれまた六角や京極とは別に独自勢力を持っている。
朽木谷の朽木氏は追放された将軍をかくまったまったりしたことで有名だが、高島・朽木・永田・平井・横山・田中・山崎の高島七頭もまた侮れないし、佐々木氏系の大原氏も独立勢力だ。
要するに近江は佐々木氏の同族で激しく争っている上に延暦寺が我が物顔で居座ってるという意味でめちゃくちゃ厄介な場所なのである。
そして越前の朝倉、美濃の土岐・斎藤、大和の越智、伊勢の長野など南側の近辺諸国では西軍優勢だったというのがさらに状況をややこしくしている。
そして応仁の乱がどうやって決着したかというと武力では優勢でどんどん領地を奪った西軍側に対して政治的な力で東軍が事実上勝利したわけだが、先代将軍足利義政は「諸国の御沙汰は毎事力法量」つまり力で攻め取ったことに関して幕府は仲裁しないと言ってしまったのだから話しはややこしくなって当然なのだが。
それもあって権力強化を目指す六角高頼が、公家領・寺社領や奉公衆の領地を押領して配下の国人衆に分け与えたため、足利義尚に討伐されるようになり、六角高頼本人は土地を返上しての赦免の道を探っていたが、奪った土地を手放すつもりのない家臣団が交戦の構えを崩さなかったことから現状に至るわけだ。
そして近江守護になった俺がやることと言えば土地争いの訴訟沙汰の判決を吟味して判決を下すことになるわけだが、奪った方も奪われた方もどっちも自分の正当性を訴えてくる。
前将軍が攻め取ったことに関して幕府は仲裁しないと言ったことに対して、現将軍がそれを取り帰そうとしているわけだからそりゃどっちも前将軍の言ったことや将軍の行動から正当性を訴えてくるよな。
結局は現将軍の命が優先なので、国人で室町幕府の近習・奉公衆や公家・寺社の荘園を押領している者には土地を返還する代わりに扶持米と銭で家臣仕えるように勧めているのだが、それで納得するものばかりではない。
結局は三河同様に訴訟の沙汰に対しての判決に力ずくでそれをひっくり返そうというやつは討伐して他のものに与えるなり直轄地にするなりしていくことになる。




