古河公方と上杉の仲はもはやかなり冷え切ってるらしい
さて、古河公方が鎌倉に戻り、古河時代の足利家の家宰扱いの家臣簗田氏と野田氏は、それぞれ下河辺荘の水海・関宿と古河・栗橋を地盤とし、成氏の古河移座後も関宿城及び栗橋城に拠って古河公方を支えていたが、彼らや鎌倉五山の僧侶も鎌倉府の運営に携わることになったため俺の負担はめちゃくちゃ減った。
「書類の山から開放されるとこんなにスッキリするとはな」
それを聞いて、中央から派遣され俺につけられた政所代で蜷川新左衛門が不思議そうに言った。
「十分山になっているように見えますが」
「いやいや、ある程度は寄人や公人に投げられるからな。
今までは殆ど俺一人でやらなければいけなかったのを考えれば雲泥の差だよ」
「なるほどそうでございますか」
実際に訴訟沙汰を受け付ける面積が増えたので訴状自体は増えているが重要度に合わせて古文書などをちゃんと読め、訴訟の判断を下せる部下に放り投げられるのはでかい。
実際には政所執事である俺は今川家の軍事指揮官としての活動もしつつ、伊豆と甲斐に相模・武蔵・上野・下野・常陸・下総・上総・安房における関東公方の直轄している土地に財政と領地に関する訴訟を掌る役割も果たさなければならない。
なので関東の政府機関の運営に必要な金を集めたり、国人によって奪われた荘園や寺社領についての訴訟を預かったりはするんだが、それ自体は今までもやってきたし、問注所で記録文書の管理や簡易訴訟の取り扱いが行われ、その他犯罪などに関する訴訟一般は、評定衆の下に置かれた引付が担当し、侍所が治安維持を担当することになっているのだから、今よりも少ない人数でそれらもすべてやらなければならなかった頃に比べればだいぶ楽になったものだ。
無論その代わり今後は名目上なかなか自由には動けなくなるわけでもあるが、史実においても後北条氏の関東支配は扇ガ谷上杉や古河公方に接触し、一時はその臣下にはいって内部に入り込み、やがて支配体制を乗っ取り、自らが関東を支配していくというものであった。
これは細川政元や三好長慶、織田信長なども行ったことだが、室町幕府の耐性というのは脆弱なのか強靭なのかいまいちわからないが、それなりに支配体制に必要な組織自体は維持されていたとも言える。
古河公方を支持している武家・豪族は、下野の宇都宮氏・那須氏・小山氏、下総の結城氏・千葉氏、常陸の佐竹氏・小田氏、上野の岩松氏、上総の武田氏、安房の里見氏など多数に上り、正月に挨拶した後一部は鎌倉へ出仕して政務を行っている。
ある意味守護が自国へ戻って中央の政務に関わるのが細川・畠山の管領と伊勢などのような将軍直属の家ぐらいになっている中央よりよほどまともに運営されているとも言えるな。
でまあ、もともと上杉家は関東管領として派遣されてきた鎌倉殿足利家の執事であったわけだが、享徳の乱で手切れしてしまい、上杉家に変わって執事のような立ち場の家がでてきてしまったこともあって、鎌倉府の中ではその他大勢の中の1つに過ぎなくなってしまっている。
無論当の上杉家にとってはそんなことは認められないことではあるのだが、中央での斯波や山名の没落を鑑みた上で過去にも赤松が滅んだりしていることを考えれば、名家が急激に衰えることなど珍しくもないのだが。
そう言えば昨年長享2年(1488年)年の8月に将軍足利義尚が内大臣の位をもらった後、病に倒れた後、長期に亘る滞陣を憂慮した細川政元が昨年の11月に将軍は京に戻る事を勧め、足利義尚がこれを容れたこともあって、六角討伐はさらにグダグダになってるらしい。
さらに自領の加賀において蜂起した一向一揆を鎮定するため帰国した富樫政親は高尾城を攻められ、これを抑えられずに自害した。一向一揆は富樫泰高を守護に擁立し、加賀の実権は本願寺から派遣された蓮如の三人の子に握られ、事実上、一向一揆が支配する国となった。
美濃の斎藤や越前の朝倉のように守護の凌ぐ権力を持つ守護代はすでに存在していたが、そうではなく国人や宗教組織が実質上の権力を握ったケースははじめてだろう。
足利義尚は加賀一向一揆の討伐を検討したが、細川政元の反対により一向一揆討伐は見送られている。
その一方で足利義尚の側近衆である結城政胤・尚豊兄弟、大館尚氏、二階堂政行らが親中における権力壟断を咎めだてられて諸大名に糾弾され、自害に追い込まれた。
これは足利義政派による足利義尚派に対しての逆襲とも言えたようだ。
とは言え本来であれば無理に陣中にとどまったことで病死した足利義尚が、いまのところ死ぬ様子はないからここからまた変わってくるかもしれない。