織田伊勢守家の調略に成功したので尾張を制圧できたよ
さて、織田伊勢守家の調略だが結果としては彼らに尾張守護代として尾張全部の土地を統治する権限を認める代わりに津島や熱田などの門前の湊の管理は俺がすることでまとまった。
「うむ、うまくやってくれたな。
これで尾張にも進出できるだろう」
俺がそう言うと大道寺重時は苦笑していった。
「もともと先代織田伊勢守(敏広)の娘が山名に嫁いでいたらしいし、今の自分の立場に納得はいかんのだろうな」
風魔小太郎はうなずいていった。
「ええ、本来であれば尾張守護代は自分で、大和守家は又守護代であったものをどさくさ紛れに奪われたと言うのがかの御仁の認識でありましょう」
実際に織田敏定が現状では尾張国の守護所である清州城に入っているのだから、斯波義寛の直属の被官と見られているわけで、主家筋である自分たちが下に見られているのは納得がいかんだろう。
斯波義寛へ父の織田広近と共に帰順して、貢ぎ物を送った過去があるとは言え早々に納得できるものでもない。
「まあ、応仁の乱の結果とは言え簡単には納得行くものではないんだろうな。
軍事的にはむしろ西軍が勝っていたわけだし」
まあ細川と大内なんかを講和させたのは他でもない俺だが。
俺がそう言うと大道寺重時は苦笑していった。
「まあ、西軍連中には納得行かないところも大きいだろうな、合戦じゃ勝ってたのになんでだと思うやつも多いだろう」
「それが政治に関しての面倒なところだよな」
最初から東軍が元将軍を擁していたわけだから政治的には東軍の方が圧倒的に有利だったわけなのではあるが、足利義政の細川勝元に対しての態度がフラフラしていたりもしたせいで余計にこじれたんだよな。
それはともかく斯波義寛は朝倉に越前を奪われていて、文明18年(1486年)に朝倉氏景が死んでまだ幼少の朝倉貞景が家督を継いだのを絶好の機会と見て越前征伐に出たが、まさか俺達が山内上杉と和睦した扇谷上杉の軍を玉縄城で迎撃して撤退時の追い打ちで大きな損害を与え、そのまま三河の制圧から尾張の調略に漕ぎつけるとは思わなかっただろうよ。
現状の清洲城を守るのは三奉行の一人のはずで、弾正忠家の織田良信だが、斯波義寛は主力となる8000の大軍を率いて越前の朝倉征伐へ出ているから残りの兵力はそこまで多くはないはずだ。
「清州城は織田遠江守(広近)に任せ、我々は勝幡要害を落とすぞ」
そして織田広近が斎藤妙純の力を借りて清州城を陥落させ、俺は熱田と津島を接収し、織田良信を自害に追い込んだ。
織田大和守家とともに勝幡織田氏もしくは織田弾正忠家はこれで滅んだな。
そして相模から甲斐も含めて尾張にかけてまでを制圧したことで、関東以西で畿内以東の東軍勢力はほぼ駆逐されたと言って良い状況になったと思う。
まあ、俺が討伐対象に認定される可能性はまだまだ残っているのだが、おそらくその前に六角討伐が行われるだろう。
その時に将軍が俺にどう対応してくるかだな。
暗殺って方法もあるからこっちもなかなか動きにくくはあるんだが。




